天は黎明の雷を知る

ちい

第1話 笑えねぇとはこのことだ

 鈍い金属音の後、激しい振動と深淵の世界。

 急停止した衝撃でよろめいた体をすぐに立て直した。

 やや神経質に楽器がしまってあるケースを撫でてから、少し伸びた前髪をかきあげた。

 真夏日に停電。冷房の切れた密室空間の劣悪さと言ったらない。

 じとじとした暑さで汗の臭いが充満していた。

 リハーサル前にスタジオで眠ろうとしたのが運のつきだったと肩を落とした。

 フライングとはやはり良い意味合いではないらしい。

 帰国したての時差ぼけを解消すべく、軽く頬をたたいた。

 緊急事態に対する焦りよりも、睡魔との戦いの方がはるかに難解な問題だ。

 しばらくその動作を繰り返した後、俺は自覚したくはなかったが緊急事態が真に緊急事態であることを認識した。

「ありえねぇ……」

 閉じ込められたエレベーターの中にいるのは俺と見知らぬ男の二人だった。

 テレビドラマだったら、きっとかわいらしい少女がいるのにな、と大きな影を見上げるが、暗闇が邪魔をして同乗者の表情を隠していた。この暗闇では相手の表情は見えない。まぁ、それほど興味があったかといえばそうではないので、深く追求するのはやめた。

 気を紛らわせるように靴底で規則正しいリズムを刻む。すぐに復旧するだろうという俺の願いは通じず、復旧の兆候が全く見られない。

 スマホをポケットから取り出し、液晶画面を確かめる。

 電波は圏外。時刻は16:40と表示されている。

 エレベーターに乗る寸前に見たロビーにある大きな壁掛け時計が16:13だったことを思い出し、閉じ込められてこの方27分はゆうに経過していることを知った。 

 そこにきてようやくこの事態が思うよりも切羽詰まったものであることをさらに悟った。

「この緊急停止、外で何か起きているのかな?」

 たった一人きりの沈黙に耐えきれず、語調をやや丁寧気味に整えて言ってみた。だが、同乗者の返答はない。ちゅうぶらりの鉄箱の中では居心地の悪い沈黙だけが続いている。

「天井こじ開けて脱出したりするのって無理なのかな?」

 辛抱強く言葉を求めた。

 すると、何かを諦めたかのような溜息が聞こえた。

「映画だったら二人して協力とかするんだろうね。でも、8階すぎたあたりで停止した様だから、それ、ありえないよね」

 ようやく訊くことの出来た言葉の端々から、同乗者の男が嘲笑を浮かべている様を容易に想像することができた。その口調が小ばかにしていたからだ。

 乗り込んだエレベーターは12階建てのビルに属している乗り物だ。

 リハーサル・ルームがあるのは最上階。

 停止位置から計算すると上には4階分の、下には8階分の落差があると推測することが出来る。ごく平凡な人間が二人して死力を尽くすと仮定して、結果は不可能だろう。しかし、俺はそんなことが議論したかったわけではない。

 沈黙が嫌いだった。ただ、それだけの事だ。

「だったら何もせずミイラにでもなるおつもりですか?」

 攻撃的な口調に変わった俺に男は大人の余裕を見せ付けるように柔らかく答える。

「行動起こしたとしても、ミイラになったりしてね」

 いちいち引っかかる言葉を吐く男だと口を尖らせる。

 男の声に感情の起伏が感じられず、それがさらに冷たい印象を与える。

 俺は薄く笑って、目をつぶる。

 元来、俺は他人とかかわるのが得意なほうではない。もうかみつく気概もないゆえに、だんまりを決め込むことにした。

 そして、ゆっくりと暗闇の中じっと思考をめぐらせる。

 エレベーター内の密室空間はまるで永遠に温度上昇を続けるサウナと化していた。 

 ゆっくりと火にかけられた鍋の水のようにじんわりと温まっていく。

 ふいに火というイメージが、不吉な何かを予感させた。

「火事じゃないよな?」

 ぼそりとつぶやいた。否定の言葉を無意識に望んでしまっている自分を否定したくなったのだ。

「少し焦げ臭いし、足元からわずかだけど煙が入ってきているから、疑う余地なく火事なのだろうね」

 失笑まじりの淡々とした語調で同乗者からの回答が耳に転がり込んだ。

「もっと素直に驚けないんですか?」

 懇切丁寧な世間一般向けの対応を俺は放棄した。

 この何とも危機感のない男の空気感に軽い眩暈を感じていた。

 上り続ける室温のせいだけではない。同乗者の気質のせいとでも言うべきか。

「冷静さを失ってみたところで、火事に巻き込まれていることには変わりないから」

「そりゃそうですね」

 二人の会話はぷつりと途切れてしまった。

 もう互いに意志疎通をはかろうという意志がないことは明白だ。

 額に浮かぶ汗を手の甲で幾度も拭い去った。

 汗は時が立つごとに倍速で流れ落ちていく。酸素も微妙に薄くなり、暑さもさることながら、息苦しさが勝ってきていた。

 そして、俺を取り巻く環境温度は暑いではなく、かなり熱いのだ。

 パタパタと俺の耳のすぐ側で物音がした。

「何のおつもりですか?」 

「あぁ、涼んでいるんだよ? 扇子を使ってみても、生暖かい風しか来ないけれど、君よりはましかもね」

 心の底から乾いた笑いがこぼれた。

 頬が痙攣しそうになるほどに良好な性格をしている男だと、暗がりにわずかに浮かぶ人影を睨みつけた。同乗者の男は優越感たっぷりに嘲笑しているに違いない。

「君の名前は何て言うの?」

 唐突に男が投げた言葉に俺は首をかしげる。

「名乗る必要があるんですか?」

 ぶっきらぼうに吐き捨ててやり、汗のこびりついた前髪をかきあげた。

「あの世への同行者って誼で教えていただけたら光栄だから」

「あなたと僕が同行者になるとでも? お断りだ」

「死んだら、その先には何もないんだから、別にかまわないだろう? 君の名前を僕が知ったところで、死んだら終わるのだから、減るものでもないはずだよ」

「死んだら終わりなら、なおさら、言う必要もないでしょう?」

「確かにね」

 やはり二人の会話は途切れてしまった。

 袖口で抑え込んでいるのに肺の中にまで焼けるような空気が充満し始めた。むせそうになりながら、必死にこらえるしかない。

 男は仕方ないかというように、俺の肩を軽くたたいた。

「新君、僕の肩を使って天井をこじあけてみようか?」

 俺は眉をわずかにひそめた。男が俺の名前を言い当てたからだった。

「17歳の天才チェリストの高階新君。 君の事のはずだけど、違ったかな?」

「それに対して、どう反応すればよろしいのですか?」

「手厳しい言葉だね。 だけど、それどころの騒ぎじゃないことくらいわかるはずだけど?」

 俺は何も答えない。何故だか無性に答えたくはなかった。

「僕の言っている意味がわからない君じゃないと思いたいんだけどね。 逃げたくはないの?」

 男の声のトーンが急激に降下した。

「だったら、あなたが一人でやればいいことだ。 僕は別にどっちでもかまわない」

 俺は暗闇の中に座り込んだ。そばに居るこの男はやけに冷静すぎると思った。

「評判通りの頑固者だね」

 男の言葉に対して言い訳するつもりはない。だけど、やっぱり何か腑に落ちない。

「新君、同じ死ぬでも、焼死よりはいくらかましな方法が世界にはごまんとあるんだよ。 わかるだろう? 僕よりも小柄な君が上、僕が下。 天井からの脱出を試みた後にこの議論の続きをしようじゃないか」

「議論の続きですか? 残念ながら、僕はリスキーな事を好んでするほうじゃないんですよ」

「何だ、わかっていたの?」

 男はわざと驚いたようなそぶりを見せた。

 エレベーターの外側を全く知り得ない状態で行動を起こそうというのだから、無謀以外の何物でもない。二の足を踏むのが当然だ、と俺は思う。

 だが、そう言っていられない程に事態は切迫しており、拒否する権利など発生するはずがないというのも正論だと認識していた。それでも、どうしてか動きたくないのだ。何だろう、この違和感。その正体がつかめない。

 男は相変わらずのマイペースである。再び、暗闇で向き合った。

 体感温度は限界。互いの我慢も臨界点に到達していた。

 吹き出た汗は途端に蒸発してしまい、汗を含み重さを増していた開襟シャツも完全に乾ききっている。

 ガンっと大きな音がして、エレベーターが振り子のように揺れだした。何かが左右二方向からぶつかってきているのだ。だが、幸運なことに、俺は船酔いしないタイプの人間であり、何食わぬ顔でそれをやり過ごしていた。

「ほんとに死ぬね。 新君、どうするの?」

 のんきな男の言動を聞き流して、無駄な体力消耗は避けるべきだと判断した俺は彼との会話を避けた。

 八方塞りだと、嫌味な言葉が思考の邪魔をする。いけない、と首を横に振る。

 案ずるより産むが易し、この言葉の方が良い、と大きくうなずいた。

 家訓が新の脳裏をよぎる。


《物事に活路を見出せない時は無理やりにでも活路をこじ開けろ、というのは大ばか者のすることだ。 成るようにしか成らんのだから時を待て》


 そうすべきだと舌先で唇をなめた。この無意識の仕草は物事を深く考え込む時のお決まりのポーズだということも自覚している。考えろ、考えろと俺は若干パニック気味になっていた頭の中を整理しようとしていた。

「扉を蹴飛ばしたら、どうにかなったりして」

 打開策というにはお粗末過ぎる男の言葉だった。

「災害時には近くの階で停止する。 やってみない手はないか」

 次の瞬間、男は扉を思い切り蹴飛ばした。

 あまりに考えのない行動に俺は目を大きく見開いた。

 暗闇に一筋の光が差し込み、エレベーター内の暗闇がいくらか薄らいだ。

 身長は180㎝後半、モデル体型なのかすらりとした手足が目に入った。

 柔らかに波打った髪を神経質そうに耳にかけて、こちらを見ている。

 日本人離れした堀の深い整った顔は彼がダブルではないかと思わせるには十分。

 年のころは伯父と同じくらいで、30代前半かもしれない。

「のぞいてみるね」

 扉にはわずかな隙間が出来ている。そこに指を差し込み、男は外を伺い見ている。

「新君、物凄い光景が広がっているよ。 見てみたら?」

 俺はようやく重い腰を上げた。 

 彼と入れ替わり、隙間から伺き見て絶句する。

 理解の範疇を超える光景に驚愕の表情を浮かべるしかないのだ。

 異形の何かが人間を食い散らかしているという現実離れした世界が広がっていた。

 化け物のサファリパークのど真ん中に餌として投げ込まれたような現実だ。

「むちゃくちゃだ」

 もはや多くを語らず、定位置に戻ると座り込んだ。

 現代における常識を著しく冒涜したようなサバイバルレースに強制的に参加させられ、なす術は見つかりそうになかった。

 知識、体力、時の運。そのどれもが通用しそうにない現状に直面し、ファンタジーにおける鉄則ともいうべき異能力の存在意義を新は初めて理解することができた。

 ファンタジーの世界を生き抜くには現実世界の常識を大きく無視したかのような能力や魔法が状況打破の絶対条件となることを体感していたからだ。

 俺は無言のうちに再び暗闇の中を選択した。

 別の意味で、ここはまだ安全圏だとわかったからだ。

 ただし、それにも制限時間があることを互いに十分すぎる程に承知していた。

 今、自分自身が居るエレベーター内は待合室のようなものだ。

 どのような状況下においても、ファンタジーの主人公役を喜んで引き受けることが出来そうにない種族の自分には気の利いた魔法や天の配剤と称されるだけの不可抗力気味のミラクルを用意することが、物質的にも、現実的にも難しい、と俺は思う。

 故に、残された手段は沈黙のみだった。

 沈黙が続く、とても長い沈黙だけが延々と続く。

 激しく鳴り響く鼓動の音にただ目を瞑っていた。

 刻一刻と近づいてくる順番を待つことしかできない俺は思考力を奪われ、呼吸するにも、どこか上の空だった。

 自分が生きたまま八つ裂きにされる光景が脳裏で鮮烈にイメージされる。

 噛みつかれ、引き裂かれ、肉塊にされ、残らず食まれる。最初に噛みつかれるのは首だろうか、などと考える。

 恐怖の先にある感覚を新は知らない。表現しがたい気持ちを飲み込んだ。

 俺の頭上では大溜息が幾度も繰り返されていた。彼もそれ相応の精神的ダメージはこうむっているらしい。そして、ついに男も横にしゃがみこんだ。

「本当に洒落にもならないね」

「ここまで来たらいっそ洒落の域だ」

 俺は皮肉たっぷりに言ってやった。彼はそれに軽く笑っただけでスマートなほどに受け流した。

 互いに言い合いをしてみたところで解決できるとは思えなかった。

 二人して、同時に体中の空気が抜けるような溜息をもらした。

 エレベーターはいまだ小刻みに揺れている。

 この宙につられたままの鉄の箱を支えているワイヤーが突如として切れ、一気に地面に叩きつけられたら即死できるだろうか、と一瞬にして訪れる死の方が理想的な最期かもしれないと不吉なことまで率先して考えようとする自分を嘲笑した。

「今度は何だ・・・・・・」

 俺は大溜息をもらした。

「羽を持っている類じゃないの? ほら、これ」

 男は鳥の羽のようなものをすぐ隣に居る新の手に握らせた。いつの間にこんなものを、と男の方に向き直った。

 手渡された羽からはごく微量だが血の臭いがした。犠牲者の血飛沫でも浴びたのだろうか、と俺はがっくりと肩を落とした。簡単に犠牲者という単語が飛び出してくる自分自身のドラマティックな思考にもやや嫌気が差し始めていた。

 目視した猛獣は記憶している虎とはどこか違いがあったように思う。獰猛さは同じだが、やはり、何かが違って見えていた。何がどのように異なっているのか正確にはわからない。だが、確実に何かが違うと、俺は思う。

「虎に似てはいるけれど、きっと虎よりありえない生物だよ、あれ」

 俺の思考を見透かしたように男が言った。

 ひょっとしたら彼があの生物を知っているのかもしれないと、何故だかそう感じた。直感。そう呼べるかもしれない。

 だが、俺がそれを口にすることはなかった。その行為に理由はない。それもまた、勘、または本能の類なのだから。

 二人同時にまたまた深すぎるため息をもらした。沈黙。そして、溜息。ずっとその繰り返しだった。

 いつ降りかかってくるかわからない恐怖に慄きながら死を待つよりはいくらかましか、と思い切って現実逃避することにした。


「海外のコンクールにでなかったんだって?」


 男は脈絡もなく話し始める。現実逃避したい気持ちはわかるが話題にすることかとにらみつけた。


「チェロの天才がコンクール前に逃亡とは愉快だね。 あ、気に障ったなら謝るよ」


 言葉が不服なのか、その言葉の向こう側に隠されている意味が気に食わないのか、俺にも分からなかった。だが、やけに気に触る。

 彼の言葉に深い意味はないとわかっているのに、俺は視線をそらすことで答えに代えた。 

「僕の名前は若宮直人」

 どこかで聞いたことがあるような、そうでないような、と俺は首をかしげた。だが、どうにも思い出すことができない。

「君は今学期から東京の学校に編入するのだろう? 君はもう有名人だし、演奏会の頻度もぐんとあがるだろうし」

「関係ありませんよ。 僕は京都で十分です」

「そう? 君の御家族は東京を代表する名門校である詠進学院の編入手続きをするかもしれない、と話されていたみたいだけど?」

 俺はただただ口をあんぐりさせた。

「僕は君のマネージャーさんからそう聞いただけだよ」

 俺の脳裏に浮かんだ顔は一人。お気楽症候群のマネージャーだ。

 肩をわずかに落とすと、大きな溜息をもらした。

 マネージャーの顔を思い出すだけで苛立ってくるのだ。

 良い子の味方、婦女子に優しく、さわやかな笑顔をふりまき、好青年っぷりを遺憾なく発揮する男。やり手のマネージャーといえば聞こえは良いだろうが、俺からすれば守銭奴でしかないのだ。

「あの赤レンジャーめっ!」

 不思議そうにしている直人をよそに俺は口をへの字に結んで黙り込んだ。

「それってお子様とお母さん世代をとりこにする戦隊モノのリーダーのこと? ねぇ、赤レンジャーってヒーローのことでしょ?」

 俺は答えない。答える必要があるとは思えなかったからだ。しかも、別の思考にふけっているのだ。

 戦隊モノで役を割り振られるとしたら、自分には悪の手先の役が来そうだとか、身内に悪の親玉に適任すぎる人材を確実に二人は知っているな、とか。正義のチームには属することは不可能なのだろうな、とかとりとめもないことばかり考えるのだ。

「会話はキャッチボールが基本でしょうが。 かわいくない」

 直人はむすっとして腕を組んだが、その様子にも俺は知らん顔をしてやる。

 何を言われようと俺のシカトは続いている。

 どうも共通点を見つけることが下手であることに直人はようやく気がついたらしい。そして互いに背を向け合った。

 沈黙が流れる。

 無音の空間に鉄板がひっかかれているような音がこだまする。

「さて、思う存分、現実逃避をしてみたんだけれど、外はどうなったかな?」

 直人は隙間に指を差し込み、外を伺い見た。

「ほんとありえない」

 わずか二秒で彼はすっと身を引いた。

「この扉を壊すつもりなんじゃないかな? 彼、助走つけているみたいだ」

 直人の声は笑っている。

 俺の思考回路が派手に断絶する音が聞こえた。

 直人の表現にある彼とは、虎のこと指しているのだろう。この状況でよく笑えるよなと辟易とした笑みを浮かべた。

 三秒後、ものすごい衝撃が走り、金属の扉が内側にへこんだ。二人して同じサイドに立ち、顔を見合わせ、生唾を飲み込んだ。ついに、順番が回ってきたのだ。

 二度目の衝撃で、扉が完全に破壊された。覚悟を決め、俺は目を瞑り、次に襲ってくるであろう衝撃に備えた。

 だが、どれだけ待っても、何の変化も起こらない。恐る恐る目をあけた。直人も同様に目を開けて小首をかしげている。

 大きくいびつにこじ開けられた鉄の扉が所在なさげに眼前にあった。

「食べる気ないのかな?」

 あいかわらず暢気な直人の言葉は俺の耳へは届かない。

「喧嘩している?」

 俺の思考回路に何百ボルトの電流が走る。

「僕達をそっちのけで、獲物の占有権を競っていたりして。 なんだか、あっさり隙をつけそうな気はするね」

 俺は扉が破壊された部分から外を覗き見て、状況を確認する。外では虎と鳥が小競り合いをしていた。

 拍子抜けした俺の張り詰めていた糸がふいに緩んだ。

「チェロ」

 俺はこの緊急事態にあっても、大金をつぎこんでようやく手に入れたチェロをそっと抱えあげる。

「しっかりしているよね。 この緊急事態に楽器を手放さないなんて」

 直人は、俺の行動に呆れ顔を浮かべていた。

「家計を圧迫する者は死刑に値する。 これがうちの常識だ」

 俺は久しぶりに返事をしてやった。

 俺の脳裏に浮かぶ恐怖の対象。その笑顔は目の前にせまっている怪物より恐ろしいのだからなとは言わなかった。

 俺はもう一度、外の様子を伺う。小競り合いはさらにヒートアップしている。

「俺は行く。 あなたも、どうぞご勝手に」

「もう他所行きの僕って言わないんだね」

「うるせぇ」

 直人は渋い笑顔を浮かべながら軽く手を振ってきた。

 俺は敵に人間レベルの知能がないことに感謝しつつ、そそくさとエレベーターから逃げ出した。

 足音を立てず、階段の方へとできるだけ迅速に歩く。ほんの数秒もなかった。ごく近くに落雷したかのような轟音が新を襲った。先程まで滞在していた待合室が、地面に叩きつけられたのだ。

 わずかに振り返った後、俺は一つ息を吐いた。

 そこに直人の姿はない。

「あんにゃろう……」

 眉をひそめる。直人に抱いていた不気味な何かを多少なりとも確認した瞬間だった。

 ひらりと足元に舞い降りてきたのは一枚のコンサートのリーフレット。


『中性的かつ甘めな印象を与えますが、整った目鼻立ちは一級品! 一言で例えるならば、婦女子の目を引くには十分な顔立ちの美少年! まだ17歳の高階新君です』


 つい先日、そんな風にテレビのアナウンサーが俺のことを紹介していた。

 誰が婦女子の目を引くだ。俺は美少年なんかじゃないぞとリーフレットを苛立ちまぎれに踏みつけてやった。


 

 


 

 

 

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