第3話 恐怖のおかわり

 あのビルから抜け出せさえすれば、少しは安心だろうと考えたのだが、現実は生易しいものではなかった。

「甘かったね」

「そのようね」

 真規の言葉遣いが俺に伝染した。

 スマホからは静がどうしたとしきりに叫んでいるが、俺はそれに何も答えられない。15分以上走ったはずだ。あの場所から随分とはなれたはずだ。逃げ方が悪かったといえばそうかもしれないが、海沿いを無心で駆け抜けていくしかできなかったのだから、それを悪策だと言われたところでもうどうにもできない。

 あの謎の黒フードの皆様に救ってもらったというのに、これはどうしたことだ。


『新! そこにいろや!?』


 いや、そこにいろと言われても無理な話だ。


「しぃちゃん、来たらあかんで?」

『はぁ!? どないなっとんや!?』


 俺はスマホの電源を落とした。

 叔父のことだ。下手をしたらGPSを使ってここを探り当てる。そうしたら、彼までもが危険に晒されることになる。

 俺にとって叔父は大切すぎる家族の最上位。

 一つ上の兄は海外で病気療養中だから、父も海外に残ったままだから安心。

 母はとっくの昔に亡くなっているらしく、写真でしか顔を知らないから今は問題にはならない。

 父の弟である叔父の静が俺と常に行動を共にしてくれている唯一の家族のようなものだ。その彼を今ここで失うわけにはいかない。

 海を背に、俺達は完全に追い詰められた。

 本日は8月11日。明日は8月12日。

 だが、三人と一匹におそらく8月12日はない。

 じりじりと後退し続ける。腰にさびた鉄の柵があたった。もう後退できる地面がどこにもない。

「海へ飛び込むぞっ!」

 俺は二人の腕を取った。

 だが、真規は表情を引きつらせたまま、微動だにしない。

「ついに、驚異的な図太さを誇る鋼の心臓も崩壊ってわけ?」 

 どこか、ざまぁみろ、と無言の真規の横顔に目をやった。

 とりあえず、二人の腕を強引につかんで、数m下にある海へ飛び込んだ。化け物集団は潔いまでにすんなりと諦め、それ以上追ってはこなかった。

「助かったぁ。 大丈夫か? おい・・・・・おいって!」

 桂はほっとしたように笑っているのだが、真規の応答がない。俺は彼の肩をつかんで、振り向かせ、唖然とした。真規は蒼い顔色をしたままで半ば放心状態だ。

「真規?」

「水に少し不向きなだけだよ」 

 俺は大声で笑ってしまった。死角なしかと思われた真規は水にむかない。もとい、カナヅチだったのだ。彼ほどカナヅチを美しく、聴こえの良いものに変換出来る人間は居ないだろうと俺は海水の冷たさを忘れるほどに大笑いした。  

 追い詰められた状態にあっても、真規の憎らしいほどの表現力と感性がひどく可笑しかった。

「笑いすぎだし、危機感なさすぎ」

 真規はむっとして、頬を膨らませた。さすがの彼もポーカーフェイスを貫き通すことはできなかったらしい。

「世界に名だたるバイオリニストがカナヅチとはね」 

 彼の弱点を知り、俺は上機嫌になった。 

「コンクールにお父上が見に来るってだけで逃走した高階新に言われたくないよね? そう思わない?」

 真規は桂に眉をひそめて訴える。

「引き分け」

 桂は満面の笑みで答えた。

「良い度胸だ」

 俺はちらりと横目で桂をにらんだ。

「その顔で怒るのはなしよ? 私が知る限りNo.1の美形なのにもったいない」

 桂は悪びれもせずに俺の顔を褒めちぎった。

 俺が眉をひそめた瞬間、頭上に移動していた小次郎が悲壮感漂う声を上げて騒ぎ出した。

「あぁ、もうやだ。 存在自体、忘れていたけどさ、翼の類は計算外だよねぇ?」

 真規が頭上を指差して、悲しげに笑った。

 上空で大きな鳥が旋回を繰り返しながら、高度を少しずつ下げている。鷹の何十倍にも思える翼が、三人の上に大きな影を落とす。

「僕達、相当、舐められているみたいだねぇ。 わざわざ急降下してまで食べる価値もないみたい」

「焦ってよぉ! もっと!!」

 桂は真規の肩を揺さぶった。

「僕だって冷静じゃないよ。 だって、水の中にいるんだから」

 そうは見えないぞと俺は睨み付けた。しかし、何が何でも俺の腕を放そうとしないあたりに焦りとやらを感じ取ることが出来たのでそれ以上口にしなかった。

「ねぇ、今、足に何かあたらなかった?」

 桂の発言で新は最悪の展開になっていることにようやく気がついた。すぐ横では知りたくもないという風に真規が目をつぶっている。

「あぁ面倒くさぁ」

 俺はやる気を逸して、水面に身体を浮かべて現実逃避に走った。

「わぁ、蛇がいるよ」

 真規の声にも生気がない。

「あ、いる、いる」

 桂の声も同じく生気がない。

 桂と真規は顔をつき合わして、薄気味悪く笑った。人間、追い詰められ、極限状態に陥ると、笑ってしまうらしい。大根役者の笑い声で一定のリズムと一定の音階を保つ。それは狂言の笑い声にも近似していた。上に鳥、下に蛇。状況が緊迫しすぎて、俺達はナチュラルハイの境地に至った。

「あぁ、もうどうにでもしてください・・・・・・」

 俺は完全に思考回路を停止させた。

 もう何も考える気になれそうになかった。

 ぐっと何かが首の後ろにあたった気がした。痛くはないが、目の前が暗くなった。 


 ※


 ぴぴぴぴぴぴ

 

 瞼の裏が真っ白で眩しいと俺は目を開けた。

 カーテンの隙間から太陽の光が顔に直撃していた。前髪が額にこびりつき、頭から水をかぶったように全身汗びっしょりだった。 


 ぴぴぴぴぴぴぴ

 

 目覚まし時計の設定はfortissimo。

 低血圧の俺に辛抱強く、朝だと主張し続ける。

 夢と現実を交互に行き来しながら瞼をあげる。

 ぼんやりと見上げたそこには、見慣れた飾り気のない真っ白の天井があった。

 そして、いつも通りの寝返りを打つ。

 

 ぴぴぴぴぴぴぴ

 

 眠気眼で時刻を確かめようと時計に目をやる。


《August.11‐am7:10》


 心臓が破裂してしまいそうになった俺はベッドから飛び起き、時計をわしづかみにした。時間が戻っている。

 8月11日。

 昨夜遅くに東京入りをし、ホテルでリハーサルにむけてチェロの調律をした。

 そして、その翌日、2時間早くスタジオに入ろうと、会場へ向かい、あの奇怪な大惨事に巻き込まれた。それが、俺の記憶している8月11日だった。


「あぁっ! 真規!」


 彼はカナヅチで泳げなかった。

 うまく逃げられたのだろうか等と幼馴染を心配している自分に気づき、しっかりしろと両掌で頬を叩いた。


「・・・・・・桂は?」


 腐れ縁の桂のことを思い出した。

 父親同士が親友だったことが諸悪の根源だったと今でも思っている。

 桂が関わると必ず厄介なことになるのだ。

 初等部2年の秋、彼女が転校してきたことは覚えている。一つ年上の兄と同じ学年で、可愛いのに荒くれ者扱いされていた。兄がニコニコの星の人ゆえ、どうにも距離を縮められず、一つ下のとっつきやすかった俺に懐いてきた。

 喧嘩っ早い彼女が暴れているときいては、俺が呼び出される。

 まぁ、喧嘩の原因の99%が『兄』であることは俺しか知らない。

 兄が愚弄されたならば、もれなく100%の喧嘩を請け負ってしまうのが時東桂だ。

 お出かけはすべて豪雨、道は渋滞、買い物は売り切れと、まぁ、見事なほどの悪夢となる。

 俺が厄が歩ていると話すと、兄が大事になる前の厄落としだと笑って言うから、桂は問答無用で兄貴贔屓になる。

 兄と桂、俺と真規。自然と一緒にいる時間はこの組み合わせで長くなり、海外へ行く前には桂とはそんなに会話をしていたイメージはない。

 どうして演奏会のあの場に彼女がいたのかというとそれはおそらく兄のせいだろう。


『僕の代わりに桂が観に行ってきて』


 ニコニコの兄の表情が浮かび、声色までリアルに聞こえてくる気がする。

 だけど、ここには桂なんていない。演奏会は今日だ。

 俺はどうかしている。

「・・・・・・夢だよな?」

 夢だったと割り切ってしまうには、どこか説明のつかない、納得することのできない点が多いように思った。

 会話もちゃんと成立していたし、五感も正常に作動していた。第一この体力消耗は何なのだ、とベッドに再びゴロリと転がった。気を鎮める様に目を瞑る。

 考えれば考えるほど、頭痛がしてくる。俺は意味もなく寝返りを繰り返す。

 やはり、一度、波立ってしまった心は簡単には落ち着いてはくれない。

 刻一刻とデジタル時計の数字は変わっていく。と、ふいに現実に引き戻される瞬間が訪れた。

 もし、夢がただの夢で、今日がまともな8月11日だとしたら、とふいに思ったのだ。

「しまった! しぃちゃんを起こさなっ、殺される!」

 俺は上半身を起こし、ベッドから飛び降りた。

 この『しぃちゃん』とは、俺の叔父である高階静の愛称である。そして、彼は俺にとって世界で一番怖い人物でもあるのだ。

「演奏会前に殺されたら洒落にならない!!」

 パジャマを脱ぎ捨てて、慌ててウォーキングクローゼットに飛び込んだ。

 足元では小次郎が体を摺り寄せ、甘えた声で鳴いている。

「お前にかまってられないの!」

 邪険にされた小次郎はそそくさと洗面台に飛び上がって俺のハブラシをくわえると部屋中を逃げ回った。

 取り押さえられた小次郎は俺の肩の上に飛び乗って髪に噛みついている。

「やめろって! もう、ほんとにやばい」

 顔を洗い、取り返した歯ブラシをくわえて、鏡を覗き込む。

 鏡に映る自分は憔悴しきって目が落ち窪んで見えた。意外と夢見る17歳なのかもしれないな、と苦笑いする。

 慌しく支度を済ませ、ホテルの一室を飛び出していく。

 夢に掻き乱された思考を整理しながら、静のいるセミスイートまでへ続くゆるいくだり坂を足早に駆け降りていった。

 静を起こすだけ起こし、俺はチェロを手にバス停へと向かう。定時に到着したバスはスムーズに俺を飲み込んだ。普段は混雑している時間帯のバスがやけに広く感じた。座ることができるなんて珍しいな、と車内をぐるりと見回す。

 朝早くから病院へ病気でもないのに日参する老人。けだるそうに新聞を広げている中年。スキル・アップの雑誌を食い入るように見つめているOL。手鏡を睨み付けながら口紅を塗りたくる女子大生。 

 俺は人間観察をしながら、ヘッドフォンから流れ出す音楽に耳を澄ます。

 実に縁起の悪い夢のせいでお気に入りの曲も、今日はすんなりと耳になじまない。腕時計に目を落とし、リハーサルまでの残り時間を計算する。

 俺は小さな溜息をもらした。実際問題、忘れなければ、前へ進めそうにないところまで追い詰められていた。それほどに、鮮烈な印象を残した悪夢だったのだ。

 ぼんやりとバスの振動に揺られながら、窓の外を眺める。移り変わる景色はいつも通りで特に変わったところはない。乗り込んだバス停から三つ目の停留所。乗り込む人影が数名あった。

 学園案内パンフレットで見たくらいしか記憶にない詠進学院の制服を着た少年がすぐ横に立った。不思議な感覚にとらわれた俺はすっと視線を上げる。そして、一つ息を飲んだ。そして、気難しげな顔で文庫本を覗き込んでいる少年にひどく嫌悪感を覚えたからだ。

 初対面の相手にそんな感情を覚えることに驚きを感じつつも、俺の注意は彼に向けられていた。それは関心ではなく、危険を察知した脳の一部が目を離してはいけないと警戒を促しているのだ。

 モデルのようにすらりとした肢体。170cmの俺より5,6cmほど高い身長、日本人のわりに色素の薄い髪。その容姿は怖いくらいに俺の記憶を著しく刺激する。

 誰やねん、コイツともう一度、彼を見上げた。と、目が合った。

 何故かとても気まずい雰囲気になった俺はうつむいた。

 気のせい。

 そんな簡単な言葉で片付きそうなものに必要以上に固執している自分へのえもいわれぬ焦燥感に口元を押さえた。そして、俺は小さくかぶりを振った。


『夢といい、今といい、ほんまにどうかしてる』


 眉間のあたりを指で押さえながら、ボリュームを最大にあげた。

 演奏会であがったことなどない。気分のムラがなせる逃亡癖はあるものの、海外のコンクール前でさえ、このような事態を引き起こした前例はない。

 数日前に急遽出場辞退したコンクールのことが自分自身、思いも寄らないほどのダメージとなり、気づかない内に演奏することにプレッシャーを感じ、これまた気づかないうちに神経がイカレてしまった。一般論ではそんなところだろう、と自分に言い聞かせていた。

「そんなことあるか?」

 目を背けることの許されない真実の影が、ひたひたと音を立てて忍び寄っていた。

 夢と現実の区別がつけられないはずがない、と自分をごまかすことに一種の違和感を覚えていた。超現実主義の人間が夢と現実に境界線を引くことができないなんてことは天地がひっくり返ってもありえないことだと、自覚はしている。

 だが、自分自身の中に眠る忌まわしい何かを呼び覚ましてしまうような見えない恐怖に立ちすくんでいた。

 夢での恐怖がリアルにじわじわと支配し始めた。

 夢は現実で、現実が夢。

 逃避の世界に逃げ込んだ俺は、夢を見ている。それも現実という夢を。この理論が正しかったとしたら、深刻というレベルを超えたところに問題点が山積みされた状態のまま保留されているのではないかという感覚が執拗なまでに責め立ててくる。

 上空には鳥、足元には蛇、陸には獣の山。

 海に浮かんだまま、自分は何をしているのだろう。何か行動を起こさねばならないのでは、と悩んだ。その結果、こぼれた言葉が俺を恐ろしく冷静にした。

「寝起きの悪いしぃちゃんがあんなに穏やかなはずがない」

 空白の数秒があった。冷静になれば不自然なところに次々と気がつくものだ。

 気味の悪い少年の背後にはあの男が立っていた。若宮直人、彼だ。

 長身の直人に見下ろされるのが相変わらず、気に食わなかった俺は窓の外へと視線を動かした。

 おかしい。

 俺は唇をかんだ。人間を敵か味方かにわけるとして、若宮直人は味方と認識するには問題が多すぎた。

 重くなっていく身体に俺はうなだれた。

「あぁ、面倒くさぁ」

 はずして首にぶらさげたヘッドフォンから、お気に入りの一曲がもれ聞こえている。夢と現実にボーダーラインを引く為に俺は意を決した。

「こっちが夢や」

 俺は小さく幾度もうなずく。

 腹の底まで大きく息を吸い込んだ。

 この現実は、正真正銘パラレルワールド。座席をゆっくりと立ち上がった。

 軽く自分の頬を手の平で打った。じんわりと痛みが広がった。その次の瞬間、目が点になった。

「びしょ濡れだよなぁ、そりゃそうだ」

 濡れた前髪をかきあげ、苦笑した。胸元がごそごそと動き、金色の目をした小次郎が顔をのぞかせた。

「小次郎、どうしたらいいと思う?」

 小次郎が肩の上にすばやく移動して、頬ずりした。

 その瞬間、俺を取り囲む景色が大きくゆがみ始める。ほんの少し前まで、夢の世界を形作っていたパズルのピースが飛び散るように壊れていく。

 崩れ行く光景の中で、あの少年が静かに笑っていた。それは微笑ではない。嘲笑だ。俺はそれがひどく不快でならなかった。

 生まれてはじめて感じるような想像を絶する悪寒に屈するものかというように、ゆっくりと目を閉じる。そして、呼吸を整えて、まぶたをもち上げた。

 波音が、水の冷たさが、空気の重さが、血の匂いが真実を呼び覚ました。

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