10. ダリッジ美術館 - Dulwich Gallery -

 大英図書館をあとにしたアーロンは、職場のタラリアに戻るでもなく、テムズ川を渡り、サザーク区南部のダリッジへ足を向けた。先日訪れるつもりだった、ダリッジにある美術館。最初の被害者である、サラ・アーネットが勤めていた職場である。


 美術館という場所自体、そもそも人がごった返すようなところではないと思うが、それにしても静謐な空気が漂っていた。案内板を見ると、ちょうど今日は定休日であるらしい。

 アーロンはヘルメットを持ったまま、建物の周りをぐるっとまわってみた。すると、ちょうど美術館の裏手になっているところで、なにやら作業をしている男たちが目に入った。トラックから荷物をおろしている様を見るに、おそらく展示物の搬入でもしているようだった。


「お客様ですか? 申し訳ありませんが、今日は定休日でして」


 作業の様子を眺めている男に気づいたらしいスーツ姿の男性が、アーロンに話しかけてきた。

 アーロンがザ・タラリアの記者であることを告げ、職員に話を訊きたい旨を伝えると、彼は当美術館の館長だと自己紹介して、アーロンを美術館の中へ招き入れた。案内された応接間のソファに座る前に、アーロンは名刺を差しだす。


「芸能部の、アローボルトさんですか。今日は、美術館への取材ということでしょうか」


 対面に座った美術館の館長だという男性は、アーロンの名刺に視線を落したまま口をひらいた。なんのことはないただの一言。だが、アーロンは少し引っかかりを覚えた。


「今日は?」

「えぇ、昨日そちらの記者の方が、当館の職員を訪ねてきたと聞き及んでおります。てっきり、今日もそのことでいらっしゃったのかと」


 館長の話に、アーロンは眉根を寄せた。

 タラリアに籍を置いている記者というだけでも、自分を含めそれなりに数はいる。それでも、真っ先に思いついた名前をアーロンは口にした。


「その記者というのは、ネイサンという名前で?」

「はい、たしかに。当館の職員が少し、問題を起こしたようで……その職員はちょうど、昼休憩の時間を過ぎても仕事に戻りませんで、私どもも困っていたところだったんです。彼は自分のほうでも探してみると言ってくれまして」

「失礼ですが、その職員というのは……」

「彼ですよ」


 館長が視線を向けた先には、壁にかけられたコルクボードに写真がたくさん飾られていた。職員たちを写したものらしく、仕事中、休憩中を問わず切りだされた一枚や、整列して撮られた集合写真、そしてひとりひとりのバストアップの写真まである。


 館長が示したのは、その個人写真の中の一枚。

 マイク・コリンズという名札を手にしている男が写っていた。黒髪の短髪に、丸顔。やせぎすで、気弱な印象を受けるその男は、記憶の中にある恐ろしい顔とはかけ離れていたが、目鼻立ちはたしかに、昨日美術館の近くでアンナ・ブリースに暴行を働いていた男、その人だった。


 彼の写真の隣には、サラ・アーネットという名札を持っている女性の写真が飾られている。大きな黒い丸眼鏡をかけているが、温厚というよりは、利発そうな印象を受けた。思わず口を衝きそうになった舌打ちを呑みこんで、アーロンは平静を保つために、出されていた紅茶を一口嚥下する。


「コリンズさんは、今日はいらっしゃいますか」

「いえ、彼は今日休みなんですよ」


 マイク・コリンズが在館なら、話は早かったのだが。

 気落ちした感情を表には出さないようにし、アーロンは話をつづけた。


「今日お訪ねしたのは、アーネットさんについてお話を伺いたいと思ったからです」


 その言葉に、館長は怪訝そうな顔をした。


「警察からさんざん訊かれたこととは思いますが。館長から見て、彼女の人となりや勤務態度等について、もう一度話していただけないでしょうか」


 そう話すと、館長は呆れたような笑みを浮かべ、


「まるで探偵だ。記者というお仕事は、そこまでするのですか?」


 と口にしたが、特に気を悪くした様子はなく、話しはじめた。


「我が強いところがあって、よくバックヤードで客の文句を言っていましたが、フロアで表立って客と諍いを起こすようなことはありませんでしたし、美術館の職員として、よくやってくれていました」

「同僚とは……たとえばその、問題を起こしたという、コリンズさんや、ほかの方との人間関係は、いかがでしたか」

「彼女は、ほかの職員に対してはきちんと仲間意識があるで、中心に立って仕事をまわしてくれていました。むしろ、コリンズのほうが……基本的に無口で、必要以上に人と接しないタイプでしたので。仕事はそつなくこなしますし、問題というほどではありませんでしたがね」


 明言こそ避けていたが、館長の口ぶりは、円滑なコミュニケーション能力という意味では、コリンズのほうが癖があったと語っていた。


「ふたりが職場で話しているところなんて、事務的な連絡以外、見たことがありませんよ」


 館長の話を聞く限り、被害者であるサラ・アーネットに、事件に巻きこまれるような問題はなさそうだった。怨恨による犯行を補強する要素はなにもない。だが、アーロンが遭遇した悪魔憑きとおぼしき男が、被害者と同僚だったという事実は決して無視できない。同僚という時点で、真っ先に取調べの対象にはなっているはずであり、そのうえで警察が見逃しているのだから、彼が犯行に及んだ証拠はなにもないのだろうが、悪魔憑きであれば、警察の捜査に引っかからない犯行ができてもおかしくはない。


 悪魔憑きとは、ひとりでも多く接触したい。


 アーロンは、館長から教えてもらったマイク・コリンズの家へ向かった。場所はダリッジの東、区をまたがり、ルイシャム区の住宅街にあった。おなじような外観の家々が並んでいる中を歩きまわり、ようやくコリンズ家の家屋を発見した。

 玄関先のインターホンを鳴らす。そのとき、スリッパが床を叩くようなパタパタという音がした。在宅のようだが、玄関がひらく様子はない。アーロンはもう一度インターホンを押しこんだ。軽快なチャイムが、家の中から響く。やがて、ゆっくりとコリンズ家の玄関がひらいた。少しだけ開いた扉から、胡乱げな目をした女性が顔を覗かせる。女性が出てきたことに、アーロンは目をしばたたかせた。


「どちらさまですか?」


 警戒一色に染まっている声色を向けられる。

 平静を取り戻す意味で、アーロンは小さく咳払いしてから、口をひらいた。


「マイク・コリンズさんのお宅で間違いありませんか?」

「え、えぇ……」

「少しお伺いしたいことがありまして。彼はご在宅でしょうか」

「夫なら、昨日から帰ってきていませんが」


 寝乱れたような金髪の女性は、気だるそうに答えた。扉をフルオープンにしない時点で、早く応対を終わらせたいという感情がありありと見て取れる。


「いつお帰りになるか、わかりますか?」

「いえ、すみません」

「そうですか……」


 少し逡巡するしぐさを見せてから、アーロンは一歩土足で踏みこむようなことを口にした。


「彼が帰ってくるまで、中で待たせていただいてもよろしいですか」


 その瞬間、女性の顔色がさっと変わった。気だるそうだった目の瞳孔がひらき、爛々とした光を帯びる。そして、睨みつけるような視線をアーロンに向けた。


「それは、できかねます。今、友人とお茶をしているところなので」


 言葉遣いこそ丁寧だが、その声色には明らかに敵意が宿っている。


「そうですか。失礼しました」


 もとより、そんな申し出が通るとは思ってもいない。

 アーロンは素直に頭をさげ、きびすを返す。玄関から顔を覗かせた女性の背後、玄関先に男のサイズの黒い革靴があったのが見えたが、へたに食いさがって警察を呼ばれても面倒だという気がまさった。杞憂にも思うが、なんとなく、彼女の様子を見るにそうなりそうな予感がする。加えてもうひとつ、どうしても気になったことがあった。十中八九、今応対した女性はマイク・コリンズの妻だろう。だが彼女は、ダリッジの公園で彼と諍いを起こしていたアンナ・ブリースではなかった。

 異性の友人と喧嘩になっていたと考えれば、そうおかしなことではないが、同時に、あのとき異様な形相のコリンズが叫んだ言葉が脳裏によみがえる。


〝コノ女が僕を裏切ッた!〟


 単なる友人関係で、そこまでの熱量の言葉が出てくるものだろうか。

 懐から取りだしたタバコに火を点けながら、アーロンは思案に耽った。

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