11. 暗闇に沈む - Sink into the darkness -

 暗い夜道を、女性がひとり、トボトボと歩いていた。

 その人は、本日の公演を終え、帰宅の途についている駆けだしの舞台女優、アンナ・ブリースだった。彼女の口からは、疲労に染まった青い息が漏れる。

 昨日いきなり、ふたりもの記者に目をつけられるとは思ってもいなかった。よりにもよって、あんな諍いを起こしたあとに。劇場までやってきた記者が自分に話があると言うから、女優としての仕事に関するインタビューかと思い顔を出したのが馬鹿だった、とアンナは内心でひとりごちる。まだ新米の人間に、人気女優のような仕事が来るわけがないことはわかっていたのに。


 彼女の家は、コヴェント・ガーデンからテムズ川を挟んだ南部、ランベス区にあった。

 本当は、もっと劇場に近いところで生活したいのだが、家賃の高いウエストエンドでの生活は、新人の彼女にはまだ無理がある。今借りているアパートも、奇跡的に見つけることができた、この辺りでは格安のあばら家だ。


 家賃が手ごろな値段になっている理由は、建物の古さや日当たりの悪さといったこともあるが、近くに廃墟と化した巨大な倉庫があり、日陰者の吹き溜まりとなっていることも理由のひとつらしかった。

 だが、そんなものをいちいち恐れてはいられない。

 稼いだ金は、全て自分磨きと、人脈形成のために使う。そのために、自分専用の名刺まで作った。食費だって、健康や美容のためにはケチっていられない。その中で、家賃は最も削りやすい生活費というわけだった。


「もう、最悪……」


 足取りが重いのは、なにも精神的なものだけが原因ではなかった。

 身体のいたるところに鈍い痛みが走る。昨日の昼間に受けた傷は、二十四時間以上経った今も尾を引いていた。病院に行っておきたい気持ちはあったが、昨今の社会情勢では医療もあまりアテにならない。診察料の不安はもちろん、一度診察を受けるだけでどれだけの時間を待たされるかわかったものではない。公演がはじまってしまっている今、通院する時間すら惜しかった。


 怪我の理由を説明するのも億劫だ。

 あの諍いが公のものになっては困る。

 かといって恋人との喧嘩で負ったとするには派手な傷だ。

 なにより、そう言い訳することは、今の彼女にとって敗北と同義だった。


 そのため、薬局で最低限の薬を揃え、自分で手当てすることに終始していた。完治するまで出演を取りやめるかと監督に言われたが、それは断固として拒否した。


 怪我をした直後だった昨日の公演は心身ともに疲れ切ったが、二日目の今日は幾分か楽だった。慣れたということもあるだろうが、幸か不幸か、端役である彼女の出番は大して多くない。あまり大きくない劇場のため観客との距離は近いが、映画やテレビドラマならともかく、舞台上なら顔の怪我もそこまで目立たない。本番では、湿布や絆創膏は剥がし、痣やカサブタを隠すためにこれでもかというほど化粧を厚塗りして出演した。


 これくらいのことで、へこたれてはいられない。

 やっとつかみ取った夢の第一歩なのだから。


(はぁ……)


 だが、夢だったはずの華々しい世界に飛びこんだにもかかわらず、無意識に重いため息が口を衝く。


 その理由は、たったひとつの気がかりなこと。

 本当なら、劇団に入団する前に清算しておきたかったこと。

 それは、不倫関係。

 妻子ある男性との交際。


 一度は本当に好きになった。

 気弱だが素朴で、優しさに満ちあふれた人柄に惹かれた。彼の優しさは、幾度となく夢に破れ、自らの存在価値を疑うまでになっていた心に、甘い蜜のように染みこんだ。


 救われたのだ。

 彼と一緒なら、幸せな日々を過ごしていけると思った。

 彼も、一緒になろうと言ってくれた。たどたどしくもはっきりと伝えてくれたその言葉が、彼を愛する気持ちを後押しした。


 そんな矢先だった。

 自宅の郵便受けに新劇団員を募集するチラシが入っていたのは。


 たったそれだけのことで、運命を感じ舞いあがるような年齢はとうに過ぎている。今まで何度も挑戦し、その度に挫折を味わってきたぶん、現実の厳しさは身に染みているつもりだった。そのため、湧いた気持ちは一縷の望みに懸けるような、決して前向きなものではなかった。


 最後に本気で挑んでみよう。

 これでダメなら、夢はきっぱり諦めよう。


 愛する男性を受け入れる前に、綺麗さっぱり夢を諦めるために挑戦したオーディションだった。自分にできることはすべてやったのだから、なにも思い残すことはないと、自分が納得するためのものだった。


 運命はときに残酷だ。


 今まで苦労してきた過去はなんだったのか。

 結果は合格、舞台女優の一歩を踏みだした。

 不思議なもので、あれだけ彼を好きだった気持ちはすべて仕事へと向かっていった。不倫をしているという現実が、一気に重たいものになった。しだいに、相手へ別れ話をほのめかすようになり、果てはそれを受け入れられない彼と激しく言い争うまでになった。


〝君は僕を裏切るのか!〟


 彼の叫びがフラッシュバックする。

 昨日の出来事が、ほんの先刻あったことのように鮮明に思い返される。

 はじめこそ抵抗したが、暴力を受けているうちに、殴ることで彼の気が済むのならそれでいいと、抵抗する気も失せていった。


 これで、関係が清算できるなら。

 これで、仕事に専念できるなら。


 ひどい女だ、と思う。だが、こんなところで終われない。

 その気持ちに嘘はつけない。

 歩みも、止まらない。


「アンナ……」


 ふいに、背後から細い声で名前を呼ばれた。驚いて振り向いた先には、ひとりの人間が立っていた。両手には黒い手袋をはめ、真っ黒な外套に身を包んでいる。加えて、フードを目深に被って俯いており、顔の造作は判別できない。


 ただひとつだけ、彼女だからこそ判別できる特徴があった。それは、外套から覗く足もとの、茶色い革靴。バックルの部分に、四葉のクローバーの意匠が施されている。前に、彼へのプレゼントとして特別にあつらえてもらったものだ。


「マイク……まだなにか用? 言ったでしょう、お互い普通の生活に戻りましょうって。あなたには奥さんと子どもがいる。あなたはひとりじゃない。私にも大切なものができたの! 勝手なことを言ってるのはわかってる! でも」

「本当に身勝手な女だ」


 しわがれた声が耳をなぞった。

 ゾクリと身が震える。

 目に映ったのは、緑色の瞳だった。その瞬間、視界が白く飛ぶ。


 気がついたときには、地面に横たわっていた。寒いわけではないのに、全身がガクガクと震える。身体が思うように動かせない。血走った目だけが、ぎょろぎょろと蠢く。


 今いる場所は、先ほど立っていた道路ではなかった。唯一動かせる目で、月が覗いている崩れた屋根や、剥きだしになっている鉄筋の骨組みを確認し、自宅近くにある廃墟となっている倉庫へ連れこまれたのだと、ようやく理解する。


 ふいに、黒い影が視界を覆い、自由の利かない身体に重みを感じた。顔半分を覆うフードと、逆光になっている月明りのせいで、相変わらず顔の造作はよく分からない。ただ、三日月のようにつりあがった口から、いやに白い歯がこぼれているのが目に焼きついた。


 馬乗りになった人物が、拳を振りおろした。顔面に衝撃と痛みが走り、パッと鮮血が散る。ブラウスのボタンが引きちぎられ、スカートが剥ぎ取られる。抵抗しようとするも、身体に力が入らない。


「たす、けて……」


 朦朧とする意識の中、小さくこぼれた哀願は、闇に溶けて消えていった。

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