12. それは稲妻のように - It's like lightning -

 タワーハムレッツ・ロンドン自治区。

 ロンドンのほぼ中央部にあり、世界的に有名な金融街であるシティと隣接している地区でありながら、洗練されているとは言いがたい、汗と埃と油にまみれた街だ。


 ロンドンの貿易や物流を支えてきたテムズ川が、特にくねくねと蛇行しているのも、タワーハムレッツに面している部分に当たる。この蛇行に人々はかねてより悩まされ、かつ心血を注いだため、当地区には船舶が集まり、河川水運業が盛んになっていった。もっとも、飛行機を使った空輸やコンテナを使った大洋での海運業が発達した現在、河川水運は衰退し、タワーハムレッツは時代の流れから弾きだされた人や物の吹き溜まりとなっている。


 タワーハムレッツのラットクリフという地区に、彼が住むアパートはある。

 その部屋はカーテンが閉めきられ、しんと静まり返っていた。空気すらよどんでいるように感じてしまうほど動きがない。そんな光景に天罰を下すように、けたたましい電子音が鳴り響き空気を震わせた。


 ジリリリンッ! 


 嘶くように黒い身を震わせる丸い物体。

 ダイヤル式の黒電話が主を呼ぶ。


 そこでようやく、室内で動きがあった。

 寝室のベッドでこんもりと山になっている掛け布団が、もぞもぞと蠕動する。ただ、それだけで終わり、電話には応答しない。


 諦めろ、今睡眠以上に大事な用件など存在しない。


 念が呪詛のようなオーラとなって布団から漏れる。しかしながら、その念は電話の相手には伝わっていないようで、呼び出し音は鳴りやまなかった。苛立ちが増しているのか、徐々に布団の蠕動が激しくなる。そんなとき、黒く四角い影が宙に現れた。


『さっさと出ろやボケェェ!』


 うるせぇんだよ! という叫びとともに、重力を伴った四角い一撃が掛け布団の山に降りそそいだ。頂点が大きくへこみ、中からカエルが潰れたようなうめき声が響く。そして布団が宙を舞い、硬く握られた拳が四角い影を殴り飛ばした。


「今日は休みだクソ野郎!」


 部屋の主、アーロン・アローボルトは怒鳴りながらベッドから降り、ドスドスと足音を踏み鳴らして寝室を出、リビングにある電話機へと向かった。床には脱ぎ捨てられた衣類があふれ、キッチンには大量のゴミ袋が放置され、空になった酒瓶を蹴り倒し――ということは一切ない。


 アーロンはもともと、特に休日の前夜には浴びるように酒を飲んで、泥のように眠るという悪癖が常態化していた。理由は、睡眠中に夢を見ないようにするためで、酒の力で無理やり深い眠りを維持しようという浅薄な考えからだった。もっとも、夢を見ずに済んだとしても、次の日は二日酔いという悪夢に苛まれるのが常だったが。


 頭痛で顔をしかめながら、電話に手が届く前に時計を確認すると、朝の十一時を指していた。さすがに寝過ぎだとは自分でも思うが、休日はいつもこんなものだ。昼を過ぎてようやく行動を開始する。

 この電話がなければあと一時間は寝られた、と内心で悪態をつきながら、アーロンは思いきり受話器をつかみあげた。


「もしもし!」

『やっと出た! おいアーロン、出るの遅ぇよ!』


 張りあげた声に負けず劣らずの大きな声が、受話器から響いた。


「ネイサン?」


 思ってもいなかった電話相手に、アーロンの毒気が一瞬で消える。


『アーロン、さっさとテレビを点けろ! ニュース!』

「はぁ?」

『いいから!』


 興奮冷めやらぬといった様子の同僚を訝るアーロンだったが、ネイサンの勢いに気圧され、受話器を脇に置いてテレビを点けにいった。

 電源の入ったテレビは、チャンネルをまわす必要もなく、最初からニュース番組を映しだした。電話に戻ろうときびすを返したとき、思いもよらない音声がテレビから聞こえてきた。


『被害者は、ゴールデン・ドーン・シアターズに所属する舞台女優、アンナ・ブリースさん、二八歳。彼女の遺体は、ランベスの廃墟となった倉庫で、異様な姿で発見され――』


 時が止まった気がした。

 ゆっくりと振り返る。ニュースは、健康的なラテン美女の顔写真を映していた。瞠目したままニュースに釘づけになる。すると、黒い本がふわりと宙を舞い、テレビの前を陣取って、画面をまじまじと見つめはじめた。


「邪魔だ」


 思わず、その本へ棘立った声を投げる。

 電話がそれを拾ったようで、受話器から〝おーい、どうした?〟という怪訝そうな声が響いた。慌てて電話機に舞い戻り、受話器を持ちあげ耳に当てる。


「あぁいや、なんでもない。それよりネイサン、おとといの時点でマイク・コリンズのことまで調べがついてたんだろ。なんですぐに連絡をくれなかった?」

『えっ、お前もコリンズにたどり着いたのか?』

「美術館に行くだけでよかったんだ。アンナ・ブリースを襲っていた男は、最初の被害者、サラ・アーネットの同僚! それがわかってりゃ、まだ手の打ちようがあったかもしれない。いや、男が誰かわかっただけで、大きな進展だった!」


 アーロンが電話口で声を荒げると、受話器の向こうからネイサンの弱弱しい声が返ってきた。


『オレもコリンズを捜して走りまわってたんだよ。でも結局見つけられなかった。それに、こんなことを言っても言い訳にしかならねぇけど……昨日今日でこんなことになるなんて、思いもしねぇよ』


 気落ちしたような声を聞くと、アーロンの頭にのぼっていた血が一瞬で鎮まった。そもそも、男の名前や職業云々が判明するかどうかの以前に、昨日アーロンが遭遇したそのとき男を取り押さえられていれば、今こんなニュースは目にしていないはずだ。ネイサンを責めるのはお門違いだと、考えを改める。


「……悪い、俺も言い過ぎた。とにかく一度、情報を共有したい。今から会えるか?」

『すまん。今からスコットランドヤードで取材だ』

「分かった、待ってるからそこで落ち合おう」


 通話を終え、ふたたびテレビへ歩み寄った。


 チャンネルをまわしつつ、ニュースを確認する。

 この時間のニュースはどこも女性が殺された事件について報じていたが、まだあまり情報がメディアまでおりてきていないのか、事件の内容そのものについてはそこそこに、昨今の強姦殺人事件と繋げて喧伝する体裁をとっていた。もちろん、警察組織への批判も充分に織りまぜつつ、だ。警察がどの事件の犯人も確保できていないのは事実だが、責任の及ばない範囲から好き勝手言える立場は楽でいい、と心の中でメディアを腐す。

 自分もその立場に立っているとわかっていても、ニュースの中で自分の意見をさも正義かのように振りまわしているキャスターを見ていると、どうしても捻くれた悪魔が顔を覗かせた。


 遺体が見つかったのはウェストミンスターの東、テムズ川を挟んだ地域であるランベス。発見時刻は数時間前の本日明け方。被害者はアンナ・ブリース、二八歳女性。テレビからこれ以上の情報は得られそうになかった。結局、スコットランドヤードに向かったネイサンが迅速かつ確実な情報源になりそうだ。


 それにしても、おととい知り合った――と言えるほどの関係ではないが、会話を交わした女性が殺されたというニュースは、想像以上に現実味を帯びてこなかった。

 他人に啖呵が切れるほど力強かった彼女を、この目でまざまざと実感している。

 その彼女が、もうすでにこの世にいない。

 薄幸な印象の女性だったなら現実味も湧いた、とは言わないが、怪我などものともしていないような人だったのに、という思いはどうしても首をもたげた。


『お前が男を取り逃がしたせいで、ひとりの女が死んじまったな。今どんな気分だ?』


 黒い本ザミュエルがふわりと浮遊して、くつくつと笑い声を交え口をひらいた。

 神経を逆なでする不快な声とその言葉に、アーロンは狼のような鋭い目を眼前の本へ向けた。その表紙には、金属板を加工して作られたような悪魔の顔が彫刻されている。ザミュエルが言葉を発しても、表紙が動くわけではない。だが、もしこの顔に表情があったならば、下卑た笑みを浮かべているに違いない。


「どんな答えが欲しいんだ?」


 思った以上に抑揚のない、平坦な声が出てしまった。


『質問に質問で返すなって、ママから教わらなかったのかよ』

「あいにく、うちは教育熱心な家庭じゃなくてな」


 当然ながら求めるリアクションではなかったらしく、ザミュエルは心底つまらなそうな声をあげた。

 お前の娯楽にかかずらっている暇はないと、アーロンは洗面所に引っこんでいく。ザミュエルはそれを逃走だと受けとったようで、背後で〝答えろ〟と喚いていたが、当然無視を決めこんだ。

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