13. ロンドン警視庁 - Scotland Yard -

 古くからイングランドの政治の中心として栄え、バッキンガム宮殿やウェストミンスター寺院など、世界的に有名な歴史的建築物が点在する街、ウェストミンスター。


 その中のヴィクトリアと呼ばれる地域に、スコットランドヤードはある。スコットランドヤードとはロンドン警視庁の換喩であり、シティ以外のグレーターロンドンすべてを管轄している警察組織だ。

 警察組織の愛称にしては一見不思議な呼び名だが、その昔、ロンドン警視庁の初代庁舎がホワイトホールという大通りにあった頃、その裏口がスコットランドヤードという通りに面していたことに由来するらしい。この裏口がロンドン警察の一般入口として使われ、時を経て、スコットランドヤードという名はロンドン警視庁と同じ意味を持つようになったという経緯があった。

 現在は、移転を二度経た三代目の本部が、ヴィクトリアのブロードウェイに面しているオフィスビルに入っている。


 急いで行ってもネイサンは警察と話をしているだろう、と逸る気持ちを抑えながら、アーロンはセント・ジェームズ・パーク駅へ降り立った。スコットランドヤードは、ここから目と鼻の先だ。駅の売店で今日の朝刊を購入し、目的地を目指す。


 ブロードウェイに面している警察署の玄関口の傍には、ネイサンの青いオートバイが停まっていた。それを見て、ほっと胸をなでおろす。行き違いのようなことにはならなくて済みそうだ。とはいえ、署内に立ち入るつもりは毛頭なく、アーロンはスコットランドヤードの隣にある小さな広場に腰をおろした。無防備に放置されているオートバイの監視を兼ねて、と中に入らない理由を自分に言い聞かせつつ、懐からタバコを取りだし火を点ける。


 煙を肺に送りこみながら、買った新聞の一面に目を通してみるが、今日の一面は政府が打ちだす経済政策についての記事だった。

 今、連続婦女強姦殺人事件はロンドン市民の注目の的だ。新聞に載るなら、比較的目立つ場所に掲載されるはず。さすがに、遺体の発見が明け方では朝刊には間に合わなかったのだろう。


(新聞は早くて夕刊か)


 バサリ、とページをめくる。

 普段は職場でいくらでも読むことができるため、新聞を自腹で購入したのは久しぶりのことだった。待ちきれない気持ちを紛らわすために、休憩を挟まず連続してタバコをみながら、ペラペラと新聞を流し読む。


 四本目のタバコを吸い終わったところで、玄関からネイサンが出てくるのが見えた。待ち合わせるなら目の前にある広場だとネイサンも思っていたのだろう、すぐにこちらに気づき、軽く手をあげ駆け寄ってきた。


「悪いな、こんなところまで」

「いや、迅速な行動にむしろ感謝してる」


 ネイサンのその台詞は、警察への取材を優先したことに対する謝罪だろう。それに対し、アーロンは警察署を見あげながら、かぶりを振って返した。自分なら、ここまで来て情報を集めようとは思わなかった。それをネイサンが代わりにやってくれたのだ。もちろんそれは記事のためであり、アーロンのためではないのだが、情報を共有してくれるだけありがたい。


「それで、どうだった?」


 顎で警視庁の建物を指しながら、アーロンが口火を切った瞬間、ネイサンのまとう空気がガラリと変わった。普段の軽薄で陽気な雰囲気から、真剣な記者の表情に。懐から分厚い手帳を取りだして、スラスラと喋りはじめた。


「遺体発見現場は彼女の自宅近くにある廃墟の倉庫。死亡推定時刻はおそらく本日未明、発見時死後数時間ってところだな。第一発見者は倉庫の管理者。最近ガキどもの溜まり場に利用されてるから、荒らされてないかチェックするのが日課になってたんだと」

「そのガキどもとやらに目撃はされなかったのか」

「みたいだな。たまたま来てなかったのかもしれない」


 アーロンの問いに、ネイサンはコクリと頷き、


「強姦され、殺害されたところまでは今までと共通してる。ただ……」

「ただ?」


 いろいろと軽いネイサンが口をつぐんだことで、アーロンは首をかしげながら反問した。


「ニュースでも言ってただろ。遺体は異様な姿で発見されたって」


 そういえば、そんな風なことを言っていたと思い返す。

 ニュースに映像は出ていなかった。被害者の状態には犯人しか知りえないような情報が数多く秘められているため、その写真を警察が漏らさないのは至極当然なのだが。


「これがその遺体の写真」

「なっ――盗んできたのか!?」


 そのため、ネイサンが一枚の写真を取りだしたのを見て、アーロンは目を丸くした。


「そんなわけないだろ。出すモン出したんだよ」


 心外だとでも言いたげに口を尖らせるネイサンだったが、その言葉で真っ先に札束を思い浮かべたアーロンは大きなため息をついた。


「お前、そこまでやる奴だったのか……」

「なにを想像してるのか知らんが、情報提供しただけだからな」


 独自調査で手に入れた情報をあらかた警察に話してきたようで、その見返りに焼き増しした写真をもらったのだとネイサンは語った。


(それでもダメだろ……)

「被害者が男と言い争ってる証言と、暴力を振るわれてた件を報告したら、通報しろってめちゃくちゃ怒られたんだけどさ。本人が希望してなかったんだから仕方ないだろ。なぁ?」


 内心で呆れ返っているアーロンを余所に、ネイサンはあからさまに不機嫌な口調で語った。

 よほど警察から絞られたらしい。

 もしかしたら自分のことも名指しで話しているかもしれない、そう思うと余計に入らなくてよかったとアーロンは内心で安堵する。


「今ごろオレの証言の裏を取ってるところだろうな。それより見ろよこの写真」


 促され、アーロンはようやく写真に視線を落とし、そして眉をひそめた。


 一言で言うなら、十字架にかけられた全裸の女性、だった。その女性が、アンナ・ブリースであることすらすぐには判別できなかった。

 肉体には真っ赤な切傷がいくつも刻まれ、顔にも殴打の痕が痛々しく残り、生前の美しさが完膚なきまでに損なわれている。十字架はH形の鉄骨と木の板を組み合わせて作られた簡単なもので、両手両足には錆びた釘が打ちつけられていた。


 まさしく磔刑。


 彼女を断罪する強い意思が見て取れた。


「な? 異様だろ?」

「今までの犯行とは明らかに違うな」

「強姦後、殺害っていうところは共通してるけどな」


 今一度、遺体の写真に目を落とす。

 見ていていい気はしない、大掛かりな舞台装置だ。こんなものを準備している間に、誰かしらに目撃されてもおかしくない気はするが、結局遺体の発見が朝方になっていることから、犯人は運がよかったのかもしれない。


「犯人はよほど彼女に執着があったのか……前の二件とは無関係の事件とも考えられるな」


 すぐに現場から逃走しないというリスクを冒してまでやる行為ということは、それだけ犯人にとって大きな意味があるということだ。今回の事件に関しては、通り魔による犯行という線は一気に薄くなった気がした。


「けど、警察は三件目だと認識してるみたいだったぜ? 詳しい検死結果はまだだが、前の二件と同様、防御創が見当たらなかったらしいんだ。あとはなんかいろいろ……詳しいことは教えてもらえなかったけど、同一犯と見るだけの要素はあったってことだよな」


 それはそうだ。

 なにも無根拠に、女性が強姦され殺害されたというだけで、先の事件と結びつけるほど、警察は短絡的な組織ではない。


「あと、現場が砂ぼこりにまみれた廃墟だったおかげか、結構靴跡が残されてたみたいだぜ。まぁ、足跡は複数あって、第一発見者の足跡とか、屯してるガキどもの足跡もあるだろうってことだけど。凶器なんかは出てきてないが、結構な物証だろ?」

「あぁ」

「それで、コリンズのことだけど……」


 自分から切りだしておきながら、ネイサンはぽりぽりと頭を掻いた。話をするか逡巡しているらしい。

 なんだよ? とアーロンが促すと、しぶしぶといった様子で口をひらいた。


「オレの推測たっぷりだから、話半分に聞いてほしいんだけど」


 そう前置きして、ネイサンは話しはじめた。


「コリンズは、殺害されたアンナ・ブリースと不倫関係にあったらしいんだ」

「不倫?」

「妻子ある身で、交際してたわけだな。コリンズの家庭は、もう冷えきってるんだと。だからといって、不倫はどうかと思うけど」


 軽く口ごもりながら、ネイサンはつづける。


「不倫関係が露呈することを恐れたから、彼女は話をしたがらなかったんじゃないかと思う」


 なるほど、とアーロンは首肯した。

 舞台が主戦場とはいえ、イメージが大切な女優業。公になれば出世の道が断たれると考えても仕方ない。アーロンの介入は、ちょうど不倫関係にある男と諍いになっているところだったため、余計に話す気になれなかったのだろう。


「難儀な男を相手に選んだモンだ」


 写真に視線を落としながら、男の狂った表情を思い返して、アーロンはぼそりと呟いた。もちろん、悪魔憑きと知ったうえで交際していたとは思わないが。


「けど、その交際も順調じゃなかったようだ。アンナとコリンズが、アポロ劇場で言い争ってる姿が目撃されてる。彼女は、なんらかの理由で不倫関係を解消しようとした。だが、それを受け入れられなかったコリンズは……オレの、憶測だけど」


 憶測を自信満々に語るのは気が引けるということか、ネイサンの声のトーンは消え入るように小さくなっていった。彼の言う通りなら、あの日、男が狂乱の中で叫んだ〝裏切った〟という言葉はそういう意味だったのかもしれない。それなら、正気を失って出た妄言ではなかったということだ。出勤していないのも、殺害の計画を立て、実行するために行方を眩ませたということかもしれない。


「あと、コリンズは最初の被害者、サラ・アーネットの同僚なわけだが……不倫の証拠を握られて、口封じのために殺したっていうことも、ない話じゃないような」


 ぽつりと、ネイサンが呟くようにこぼした。

 たしかに自然な考えだ。同僚なら、なんらかの拍子で気づいてしまうこともあるだろう。その先で、コリンズが彼女に殺意を覚えるようなことがあったのかもしれない。


 たとえば、不倫をネタにゆする。


 被害者を悪く言うつもりはないが、あくまで想像のひとつとして、だ。美術館の館長は、サラとコリンズが仕事以外のことで話をしているところは見たことがないと言っていたが、同僚の目を盗んでふたりきりで会話をするのは、そう難しいことではないだろう。思わず否定しそうになるような突飛な発想ではなく、アーロンが異を唱えることはしない。


(…………)


 だが、どうにも腑に落ちないという感覚が心の隅で音をあげた。

 自分の手帳に記されている、連続強姦殺人事件、、、、、、、、という文字をじっと見つめる。


「洗いざらい話してきたから、警察もすぐ確保に動くはずだ。もうすでに色めき立ってる感じだったしな」


 そう言ったあと、ネイサンはへらりと力ない笑みを浮かべた。


「でもまぁ……こうなるとお前も無関係じゃなくなった感じだな」

「あ?」


 その言葉の意味が掬えず、アーロンは首をかしげる。


「だって、アポロ劇場はお前の職場みたいなもんだろ。そこで働く女が、殺されたんだから」

「職場じゃない、餌場だ」

「テリトリーを荒らされたら、動物でも怒るだろ?」


 細かい訂正をするアーロンに、ネイサンは小さく口の端をあげ、


「なんにせよ、気を遣うくらいしても罰は当たらないんじゃないか? 一応犯人もまだ捕まってないわけだし」

「……そうだな。忠告がてら行ってみる」


 少しばかり逡巡して、アーロンは納得したように頷いた。同時に、ネイサンが表情をぱぁっと明るくし、そわそわとしはじめる。


「どうした?」

「あのさ、俺も手伝っていいか? 日頃の礼にさ」


 取ってつけたような笑顔とその言葉で、アーロンは真意を察した。


「……お前、舞台女優に近づきたいだけだろ」

「いいだろ社会部の記者が芸能人と触れ合う機会なんてそうそうないんだから! 頼みの綱の文芸部記者は合コンのセッティングすらしてくれねぇし!」


 一瞬で本音を見破られたネイサンは、整った笑顔を崩して声を荒げた。ついに本音がボロボロとあふれた同僚に、思わず呆れた笑いがこぼれる。


「だったら素直にそう言え、日頃の礼とか思ってもないこと言いやがって」

「悪い悪い、カッコつけたい年頃なんだよ」


 外であれこれ言葉を交わすのもそろそろ煮詰まり、次の行き先が決まったことでスコットランドヤードをあとにする。


 ここまで電車で来たと伝えると、後ろに乗るか? とネイサンから提案されたが、男と二人乗りする趣味はないと断って、近くでタクシーを止め乗りこんだ。


 本当のところは、ネイサンから聞いた話をできるだけ早く手帳にまとめ、自分なりに噛み砕きたかったというのが、大きな理由だ。今まで自分で集めた情報と、ネイサンから教えてもらった情報も含めて、改めて簡潔にまとめなおす。


 犯行の手口そのものは、三件とも非常に似通っている。なにかしらの方法で自由を奪い、陵辱し、殺害する。警察も同一犯の犯行と見ているくらいだ。手口の同一性や、遺体から検出された体液だけでなく、たとえば、遺体の状態から想定される犯人の利き手がどちらなのか、など、現場に残されたさまざまな要素が、同一犯による犯行だと訴えているのだろう。

 ただ三件目だけ、その後の処理に手が込んでいる。被害者に対する強い感情が見て取れるが、それならば、見境なく人を襲う通り魔的犯行の線が薄れ、殺しにはなにかしらの意味があるという風に考えられる。しかし、被害者に繋がりがありそうなのは、最初と三件目だけ。それも、マイク・コリンズという人物に焦点をおいた場合のみ。


 大衆酒場パブで働いていた二件目の被害者は、のちのふたりと関係性はない。


(コリンズが犯人なら、どうしてあいだに無関係の事件を挟んだんだ……?)

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