14. ネル・ゴールドウェル - Nell Goldwell -
スコットランドヤードからアポロ劇場があるシャフツベリー・アベニューはそう遠くない。いろいろと腑に落ちないことを頭の中で整理しているうちに、タクシーはアポロ劇場へと到着した。ネイサンの青いオートバイもすでに停まっている。
歴史を感じさせる白く重厚な建物は相変わらず荘厳な雰囲気を湛えているが、今日は普段以上に物々しさを醸しているようだった。
入口で待っていたネイサンとともに中に入ると、昼間にもかかわらず上演前のような人だかりができていた。私服姿の人や、メディア関係とおぼしき人物たちのあいだを、スーツを着た男たちが忙しなく歩きまわっている。
目立たないようにコソコソと、ふたりは関係者用出入口に立っている警備員のもとへ向かった。
「ダニエルさん、お疲れ。大変だったな」
憔悴しきった様子の警備員に、アーロンは話しかけた。
「あぁ、ニュース見たかい? まさかこんなことになるなんて……」
アーロンに名を呼ばれた警備員の彼は、重いため息を漏らした。先日顔を合わせたネイサンにも気づいたようで、互いに目礼を交わす。
「お悔み申しあげます。オレがもう少し、彼女に親身になってあげられていたら……」
「いや、それは僕たちの台詞だよ。一番近くにいたのに、なにもしてあげられなかったんだ」
丁寧に腰を折ったネイサンに、彼はゆっくりとかぶりを振った。
「忙しいところ悪いが、ネルはいるか?」
「あぁ、今日は来てるが……警察の事情聴取に呼ばれてみんな集まっているから、手が離せないかもしれないよ」
いわく、劇団の仲間が殺されたとして、座長が警察への協力を惜しまないと、所属俳優一同を集めたとのことだった。だからやけに人が多いのかと、アーロンはフロアを一瞥する。
「俺の急用だって言うだけ言ってくれ。それでもダメなら諦めて帰る」
顔見知りであるアーロンの言葉に、警備員という役割を担っている彼も断りきれなかったのか、ちょっと待って、と言い残し奥へ引っこんでいった。
しばらくして戻ってきた彼に連れられ、関係者用の廊下に足を踏み入れる。
通された先は、小さな控室だった。
白を基調とした壁と一体化している横長の鏡台には、三脚ほどの椅子が並べられ、ハンガーラックには色とりどりの衣装がかけられている。いかにも劇場の控室らしいこの部屋に、黒いルーズワンピースに身を包んだ女性がひとり、足を組んで待機していた。
艶めくアッシュブラウンのミディアムヘアを、右側頭部だけ後ろに流しピンで留め、後頭部の髪と一緒にまとめている。露出した右耳には、白いイヤリングが照明を反射し輝いていた。
部屋に立ち入ったアーロンに気づくや否や、彼女は突き刺さるような鋭い視線を投げかけた。もともと切れ長であることに加えて、吸いこまれそうなハシバミ色の瞳が一層の迫力を宿している。
「よく私の前に顔を出せたわね」
彼女の第一声は、空気が底冷えするほど冷徹な色をはらんでいた。彼女こそが、二十三歳という若さでありながら、ゴールデン・ドーン・シアターズのトップに君臨する女優、ネル・ゴールドウェルである。
四つも下の女性に凄まれて、アーロンは降参の意を示すようにそろそろと両手をあげた。
「おぉ……不機嫌そうだな、ミス・ゴールドウェル」
「当たり前でしょう! こんなデタラメな記事を世にまわして! そのくせノコノコと、いったいどれだけ私の神経を逆なでしたら気が済むのかしら」
引きつった笑みを浮かべ、仰々しく彼女の名を口にするアーロンだったが、ネルは憤懣やるかたない様子で、手もとの雑誌を持ちあげ、そして叩いた。表紙に写っている自分自身の顔がくしゃりと歪むが、まったく意に介していない。
彼女が手にしている見慣れた雑誌から目をそらし、アーロンは頬を掻く。
「記者の名前は出てなかったはずなんだが……」
「あのね。こんなものをでっちあげる記者なんてあなたしかいないでしょう! タラリア出版の雑誌っていう時点で白状しているようなものだわ」
バシンと音を立て、雑誌を鏡台に投げ捨てた。ネルが写っている表紙には、ゴシップ誌らしい見出しがいくつか載せられている。その中の、ひときわ目立つ位置に〝ネル・ゴールドウェル熱愛発覚か!? 相手はあの○○!〟というなんとも低俗な見出しが躍っていた。
先日、アーロンが急ピッチでしたためた記事である。
相手は某劇場の俳優、載せた名前はイニシャルのみ。ふたりは仲睦まじい様子で、ロンドン市内のホテルへ足早に消えていった――と、最初から最後まで一言一句嘘で塗り固められたものだ。
写真すらないお粗末な記事だが、ネル・ゴールドウェルという名前は載るだけで人目を引く力がある。記事の出来など二の次三の次で、雑誌が売れるための起爆剤になってくれる。本日発売されたばかりのこのゴシップ誌は、アーロンの首の皮を繋げる救世主だった。
「あ、あー、ミス・ゴールドウェル。少し落ちつこう、な? コイツには俺からもキツく言っておくから」
目力だけで犬をも殺せそうな殺気を向けられている同僚を庇うように、ネイサンが〝どうどう〟と割って入った。もっとも、対面早々気色ばむ女優に、少しばかり気圧されている様子だったが。
「……あなたは?」
ネルの鋭い視線が、横に立つネイサンにスライドする。
「オレはネイサン・ダン。アーロンとは同りょ――あー、部署は違うけど。ちょっと、今日は付き添いでさ。お見舞いに来たんだよ」
彼女の神経を逆なでしないよう言葉を選びつつ、ネイサンは努めて爽やかな笑顔で話す。しかし、控室の扉へ目を遣るネルの表情は、少しも軟化しなかった。
「お見舞い? この忙しいときに? 周りが見えていないのかしら」
閉じられた扉の向こう、関係者用の廊下からは絶えず複数人の足音がぞろぞろと響いている。ゴールデン・ドーン・シアターズの劇団員や、捜査員たちが行き交っている音だ。ピリピリした空気が、閉め切られているこの部屋まで染みこんできそうな気さえしてくる。
「ほら、警察ばかりの堅苦しいところに、ふたりの爽やかな清涼剤、っていうか……ハハ」
キラン、と女性を口説くときに使うような決め顔で、普段の三割増しで声まで作るネイサンだったが、ネルの仮面のような顔はピクリともせず、その渾身の台詞は尻切れトンボのように小さくなっていった。言葉尻の乾いた笑みがなんとも哀愁を誘う。
(そういうのは通用しないぞ、この女)
(いーや、俺は諦めん!)
見事に玉砕した同僚に、耳打ちで現実を突きつけるアーロンだったが、ネイサンは拳を握りしめ決意を新たにしていた。端的に言って、控室の空気は形容しがたい微妙な雰囲気になってしまう。
「それで、いったいなんの用」
小さな部屋を瞬く間に満たした気まずい空気に毒気を抜かれたのか、今の今まで自分が一方的に捲し立てていただけであることに気づいたのか、ネルは声のトーンを落として尋ねた。
「だから、お見舞い……」
と、ぼそりと口をひらいたネイサンをよそに、アーロンはタクシーの中で書いた手帳の一枚を破りとり、ネルに渡した。端のほうに〝親愛なるゴールドウェル〟と書かれているその用紙に、彼女は眉をひそめる。
「警察からはなにを聞かれた?」
手渡された用紙に目を走らせているネルに、アーロンが話しかける。
「主に彼女の仕事ぶりと、交友関係よ。交友関係については、私に話せることはほとんどなかったけど。でも、
彼女は少しも顔をあげず、よどみなく答えた。
(俺の証言の裏取りだな)
彼女の話を聞いて、ネイサンがアーロンに耳打ちする。
美術館職員の男が確保されるのも時間の問題だろうが、気をつけておくに越したことはないだろう。
「事件の犯人はまだ捕まってない。またシアターの人間が襲われるとも限らないし、周りにも注意するように言っとけ」
「あなたに言われなくてもわかってるわ。それで、こんな紙切れ一枚渡すためだけにここに来たの?」
「あぁ」
「呆れた。土下座のひとつやふたつくらいしてくれるのかと思ったのに。中に通した意味がなかったわ」
さらりと答えたアーロンに、ネルは刺々しい視線と冷ややかな声を向けた。ふたたび、小さな控室を剣呑な空気が包みこみはじめる。
「俺の土下座なら、いくらでもやってあげるけど」
妙に目を輝かせて場違いな台詞を口にしたネイサンに、ネルの怪訝な視線が突き刺さった。
「あ……悪い、そういう空気じゃない、よな」
一転、ネイサンは引きつったような笑みを浮かべた。だから言っただろ、とアーロンは小さく耳打ちする。
「あぁごめんなさい、少し驚いただけよ」
対するネルは、ほんの一瞬目を見ひらいていたが、しゅんと身を縮ませたネイサンに軽くフォローを入れた。そして、アーロンに手渡された用紙に視線を落とす。ハシバミ色の美しい瞳に、怒りの色が宿る。
「それにしても、本当に卑劣で憤りを感じる事件だわ。犯人は、弱者を征服することでしか心の渇きを癒せない最低のクズね。できることなら、私が鉄槌を下したいくらい」
憤懣やるかたない、といった様子で、ネルはつづけた。手もとにあった雑誌が握りつぶされ、ぐしゃりと音を立てる。
アーロンの所業に対する苛立ちもあるかもしれないが、同僚が殺人事件の被害者になることは、ゴールデン・ドーン・シアターズの人間にとって思いもよらない出来事だっただろう。彼女がナーバスになるのは当然だ。が、やけに感情を表に出すな、というのがアーロンの率直な感想だった。普段は、もっと澄ましているような、そういう意味で鼻につく感じの女なのだが。
ネイサンはネイサンで、大好きな女優が怒りをあらわにしている姿が珍しいのか、明らかに機嫌の悪いネルを前にしても、一切困惑する様子を見せず、彼女舐めるように見つめていた。女優という職業は、いつなんどきも人に見られることから避けられない職業だと、アーロンは改めて実感する。
やがて、記者の顔からただのファンの顔に変わったネイサンが、ネルをなだめすかせるわけでもなく、自分がどれだけ彼女のファンなのか、どれだけ舞台を見にきたか、という話を熱弁しはじめた。
「かの王の
「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、私は彼女のような素晴らしい人間じゃないわ。私なんかと比べるのは、彼女に失礼よ」
困ったような笑みを浮かべて、ネルは返す。ネイサンが自身のファンと知ってなお、彼女の機嫌は上向かない。さすがに邪険に扱うような態度は取っていないが、アーロンは突き刺さる視線をひしひしと感じていた。
さっさと連れて帰れ、という無言の圧力だ。
その意図をわかっていながら反応せず、舞台女優とそのファンであるふたりのやりとりを見つめていた。
おもむろに手帳を開き、つらつらとペンを動かす。
終始刺々しいネル・ゴールドウェルを前にして、ひとつ思いついたことがあった。無意味に終わっても大した労力ではない。
「紙切れ一枚じゃ不服だったみてぇだから、もう一枚やるよ」
破った用紙を丁寧に折り畳み〝親愛なるゴールドウェル〟と書き添えて渡す。ネルは素直に用紙を受け取りはしたものの、
「もう用は済んだでしょう。まだ話を聞きたいなら、ほかの人に聞いてくれるかしら」
そう言って、視線を控室の扉に投げかけた。
言葉に怒りの色が消えた。
その平坦すぎる声色を〝今度こそ、帰れ〟という最後通牒だと判断し、アーロンは素直にネイサンを連れ控室をあとにした。
「あぁ~……」
アポロ劇場の玄関口、停めている青いオートバイの前で、ネイサンは天を仰いだ。
「本当にイイ女だな、最高だ」
「お前があれの大ファンだってことは知ってるが、あの女のどこがそんなにいいんだ」
恍惚。
そう表現して差し支えないネイサンの表情が、アーロンは心底から不思議だった。
「あの一本芯の通ったような気の強さ! それが外見にも表れてる、俺はああいうのがタイプなんだよ。なんにもなびかないあの感じがさ! いいよな~」
「恋人いるけどな」
「!?」
ガバッ、と空中を抱きすくめる仕草を見せるネイサンだったが、その一言に顔面を崩壊させた。同僚の間抜けな顔を見て、アーロンはニヤリと笑う。
「嘘だよ」
「オイ! 信じちまったじゃねーか! 文芸部のお前が言うとシャレになんねーんだよ!」
「恋人がいたらあんなテキトーな記事連発できねぇって」
「同情するぜ、彼女に訴えられても知らねぇからな」
呑気にタバコを取りだしながら言うアーロンに、ネイサンは呆れた様子で口をひらく。
さすがに、今回のように一言一句嘘の記事を載せることは初めてだったが、今までにもイベントやパーティで男性と会話するひとコマを切りとって、誇張した記事を載せることは
そんなことよりも、これからどうするか。
もわりと吐きだしたタバコの煙は、曇り空に混じって溶けていった。
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