15. 声 - The Voice -
ロンドンの
第二次世界大戦が終わって四十年ほど経つ現代になってもその法律は生きているようで、英国の
深夜零時を過ぎたころ。
ロンドンの中心部、テムズ川に隣接するランベス区もすっかり夜の帳がおり、静寂が広がっていた。
『オイ、さすがに当日は無理だろ』
背後から耳障りな声が響く。アーロンはそれを無視して、じっとボロボロと廃墟を見つめていた。ランベス北部、テムズ川にほど近い場所にある大きな建物だ。おそらく、河川水運がまだ主流だったころに使われていた倉庫なのだろう。時代の潮流に負け、すでに役割を失ったその建物は、ずっと前からがらんどうの廃墟と化していたようだが、今は警察が使っている規制用のテープが張られていた。
「やっぱりダメだったな」
「夜中集まれる場所がなくなったのはキツいぜ」
「あんなところで殺りやがった犯人、見つけたらゼッテーふんじばってやる!」
「まぁ、実際犯人が見つかったらすぐに規制も解かれると思うけど」
廃墟のほうから、複数の若い少年たちが愚痴をこぼしながら歩いてくるのが見えた。彼らは道端に立っていたアーロンに目もくれず、通り過ぎていく。この倉庫を集合場所に使っていた悪童が彼らだということは容易に想像がついた。
すでにあらかた検証と物証の回収は終わっているのだろうが、倉庫は規制線が張られているだけでなく、見張り役の警察官まで配置されていた。
まだ事件が発覚して二十四時間も経っていない。犯人が戻ってきて証拠を隠滅することなどを考えれば、当然の措置といえる。少年たちも、規制線だけなら無視して侵入したかもしれないが、警察官がいるとなるとさすがに強行できなかったのだろう。
『だから言ったじゃねぇか。入れるわけねーって』
「いいから黙ってろ」
周りに聞こえていないのをいいことに、声を潜めようともしないまましゃべる黒い本をアーロンは引っつかんだ。
「Assist 60〝
じたばたと暴れ逃れようとする本をつかんだまま、アーロンはぼそりと呟いた。目に見える変化はなにも起こらなかったが、勘のいい者なら、空気が張り詰めるような感覚を覚えたかもしれない。
本を手放して、代わりに懐から革手袋とビニール製のシューズカバーを取りだした。シューズカバーは、履いている靴の上から履く。警察も使っている、余計な痕跡を残さないようにするための道具だ。
馬鹿正直に正面から立ち入らなくても、廃墟になっている倉庫には侵入経路が腐るほど存在していた。建物の裏手にまわり、立て付けが悪くなっている扉をゆっくりと開ける。
倉庫の中は、ずいぶんと埃っぽい空気が広がっていた。当然、人工的な明かりは存在しないが、抜け落ちた天井から降り注ぐ月明りが倉庫内を照らしている。宙を漂っている細かい塵が、月の光を反射してキラキラと輝く。退廃的で、幻想的にも思える光景だった。
この中で、彼女――アンナ・ブリースは何者かに凌辱され、殺害された。全裸に剥かれた彼女の遺体はH形鋼と木の板を組み合わせて作られた簡素な十字架に括りつけられ、磔刑のような状態で放置されていた。
(この辺りか……)
ネイサンに見せられた写真を思いだしながら、アーロンは彼女の遺体があった場所を特定する。
『こんなところでなにすんだよ。もう警察があらかた調べ終わってるだろ。ズブの素人に戻ったお前が警察ゴッコやったって意味ねぇよ』
頭上をくるくると舞っている
「ザミュエル、七十一番」
『あぁ? アシストスペルの? オイオイ、成功した試しがねぇだろ。お前は射撃の能しかねぇんだぞ』
「だから、できるだけ早く来たかったんだ」
ザミュエルの言うとおり、今まで何度も行使してきた魔導だが、肝心なところで失敗してばかりだった。特にアーロンは補助用の魔導が不得手で、今発動中の認識阻害も極めるまでにずいぶん苦労した。七十一番のアシストスペルも習得にかなりの時間を要し、そのころには事件から時間が経ちすぎていたこともあり、一番使いたかった対象には通用しなかったという過去があった。
ただ、だからこそ、殺害されて間もない今なら、準備さえしていれば拙い腕でも効果が得られるのではないかという目算がある。
アーロンは臙脂のジャケットの下、肌着として着ているワイシャツのボタンをすべて外した。当然、上半身の体前面があらわになる。げぇ、とザミュエルが嘔げるような音をあげた。
『洗面所にこもってると思ったら、そんなモン準備してたのかよ』
アーロンの胴には、大きな手を模した魔法陣のような紋様が描かれていた。
本当なら、地面にもっと大きな魔法陣を描きたかったのだが、遺体が発見されたばかりの事件現場に落書きを残すような真似をするわけにはいかない。そんなことはここに来る前から百も承知だったため、仕方なく自分の身体をキャンバスにした次第だった。
「さっさと片付けるぞ」
威圧するように告げたその言葉と同時に、ザミュエルがふわりと眼前へ舞い戻る。ピタリと止まった黒い魔導書のページが、触れてもいないのに風に煽られたようにバラバラとめくられた。
「水の
今までに何度も唱えたことのある言葉の羅列。今さら詰まるようなこともない。
「Assist 71〝
胴に描いた魔法陣から、赤く透明なオーラのようなものが立ちのぼる。それはローブのように、アーロンの身体を包みこんだ。ここまでは経験がある。その先だ。いつも、なにも起こらないままで終わってしまう。
ゾ、ザザ――
静寂の中にあった脳が、突然ノイズのような音を認識した。きちんと電波を拾えていないラジオのように、ザーザーというノイズが響く中で、かすかに女性の声が聞こえてくる。
雑音の中でなんとかその声を拾おうと、アーロンは意識を集中させた。人の脳には必要な音を選択して聞き分けられる機能が備わっているようで、意識をするだけで不思議と女性の声が大きくなって聞こえてきた。
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいズゾゾゾゾゾゾゆるして、ゆるしズザザザザザザザ』
ひどい雑音に混じって、女性が謝罪の言葉をくるったように連呼する声。
『あなたがァァアアアアズァアアアアだいすゾザザザザでも、私にとっては仕事も大切だっザアアアアアッだいすきな気持ちを、両立できなァァアアアア私は、器用じゃザザザゾゾゾゾ私は、あなたを傷つけズヴァアアアアア』
大きな雑音に飲みこまれかけている不明瞭な言葉と、誰かに宛てた謝罪の言葉が繰り返される。
もっと、核心に迫る一言がほしい。
だが、アーロンのほうから呼びかけたとしても意味はない。アシストスペルの七十一番〝
死の間際、被害者がなにを思っていたか、なにが心残りだったのか、記録されたレコードを針でなぞっているに過ぎない。早く、少しでもたくさんの情報を引きださなければ。高位アシストスペルをいつまでも維持できるほどの腕はない。
脳に直接、自責の念が濁流のように流れこんでくる。彼女は死の間際、大切な人に対する罪悪感であふれていたようだ。だが、不思議と暗澹たる感情は感じない。そこに後悔はなかった。純粋な罪悪感と愛情が、互いに混ざり合いながら脳に染みこんでくる。
決して、気分のいいものではない。他者の感情に自我が塗りつぶされていくようで、恐ろしさすら覚える。それでも、必死で彼女の声と感情に身を委ねていた、そのとき、
『あなたじゃない』
急にゾッとするような明瞭な声が響いた。
意識が乱れたせいか、脳内に響く声はすぐにノイズの混じった音声に変わる。
『どうじでェェェエその革ぐズヴァアアアアア世界にひどづズズザザザザ私が彼にあげザザゾゾゾ』
ふたたび耳を澄ませるため、全神経を集中させる。ひときわ大きい彼女の声が、ダイレクトに脳に響き、その声に重なるようにして、
『アーロン!』
ザミュエルの一喝が轟いた。ハッと我に返った瞬間、顔の中心からどろりとしたものが漏れている感覚を覚える。瞬時に鼻血だと察し、慌ててジャケットの袖口で拭った。臙脂色の上に、赤黒い絵の具のような液体が付着する。
「チッ」
アーロンは思わず舌を打つ。足跡にまで留意していながら、血痕という大きな痕跡を残してしまうところだった。
『もうやめろ。オレの身体がダメになる』
一瞬、ザミュエルが気を遣ったのかと思ったが、この本にそんな思いやりの感情があるわけもなかった。
まだお前のものじゃない。
そう思ったが、身体にまで影響が出たことは事実だ。口答えはせず、素直に魔導の使用を中止する。
本来、この術はこんなにもノイズが走るようなものではなく、卓越した者ならば、対象が見ていた映像すらも脳内に再生できるらしいが、実力を考えれば、認識阻害も併用しながらこうして音声を拾えただけでも上々だろう。
速やかに廃墟をあとにしながら、アーロンは彼女の残留思念が最後に遺した言葉を反芻していた。
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