16. ネイサン・ダン - Nathan Dunne -

『本日、化粧品ブランド、ウェーヌスの新商品のお披露目会が行われました。ネル・ゴールドウェルさんをはじめとする、各界の著名な女性たちが集まり――』


 昼の時間にテレビ放送されているワイドショーは、本日の午前中におこなわれた化粧品イベントの様子を映していた。ずらりと一列に並んでいる女性たちの中に、ゴールデン・ドーン・シアターズという劇団に所属している女優、ネル・ゴールドウェルの姿を視認して、買い物中だったネイサン・ダンは街角の電器屋のテレビの前で足を止めた。


 映像は彼女らひとりひとりに化粧品の感想を求めるインタビューに切り替わり、司会者の女性がマイクを持って端から順に話を聞いていく。今日の化粧のポイントや、ブランドそのものを褒めそやす無難な回答が並べられる中、列のほぼ中央に立っていたネル・ゴールドウェルの番となった。


 今日のネルは、アッシュブラウンの髪をすべて後頭部でまとめあげ、額をすべて露出していた。もともと目と眉の間隔が狭く、キリッとした面立ちをしているが、化粧品イベントということもあってか、唇には血のように赤いルビーのルージュが引かれ、眉や目の周り、頬にもしっかり化粧が施されており、今日は一段と鋭い印象を受けた。司会者の女性がかたわらに立ち、今までと同じテンプレートの質問をして、ネルにマイクを向けた。ずらりと並ぶメディアのカメラレンズが、彼女を捉える。


『その前に、ひとついいかしら』


 会場をひととおり見まわして、ネルが口をひらいた。彼女にマイクを向けている司会の女性が、少し首を捻る。司会者に微笑んだあと、ネルは司会者が持っていたマイクに手を添えた。その意味を拾えないままに、彼女は仕事道具を手放す。


『私、どうしても言いたいことがあるの』


 マイクを手にしたネルは、集まった報道陣が構えているカメラをまっすぐに見据えていた。そのせいで、ネイサンはまるで自分に視線が向けられているかのような錯覚を覚える。

 彼女はなにを言おうとしているのか。

 会場の空気も、ネイサンも、好奇の一色に染まった。


『最近起こっている、女性を狙った連続殺人についてよ』


 その言葉に、イベント会場全体がざわざわとしはじめた。ネルと同じ壇上にあがっている女性たちも、お互いに顔を見合わせる。いきなりなにを言いだすのかと奇異の目を向けられるが、ネルはそんな視線を意に介すようなこともなく話をつづけた。


『端的に言って、私は非常に憤っているわ。欲を満たしているのか、力を誇示しているつもりなのか知らないけど、こそこそと女性ばかりを狙うその魂胆には反吐が出る! きっと犯人は人生に彩りもなにもない、底辺を這いつくばっているしか能がない、蛆虫のような人間よ。いえ、人間とすら呼べないかもしれないわね』


 静かな口調で語りはじめ、途中で燃えるような感情を発露する。そして冷淡な声で嘲り締めくくる。その一連の話し方は、ギャラリーの心をつかむには充分な力を持っていた。


『皆さんも、他人事と思っておもしろがったりしないで! 誰しも、他人に対して嫌な思いを抱くことはある。でも、他者を貶めることだけに力を注ぐのはやめましょう。その熱意を、自分を磨くことに向けるといいわ。そうすればきっと、もっと人生は彩り豊かなものになるはずだから』


 一瞬、真っ赤な柔い唇が止まる。


『殺人を犯す人間のような、弱い心を持ってはダメよ』


 マイクを手に雄弁と語るネルに呆気に取られたのか、しばらくしんとした沈黙がおりていた会場だったが、どこからかパラパラと拍手が響きはじめた。その音は周りに波及し、やがて会場全体を包みこむ大喝采に変わる。


『皆さん、静かに聞いてくれてありがとう。これで少しはスッキリしたわ。えぇと、化粧品についての感想だったわね――』


 興奮冷めやらぬ会場は、ネルが化粧品の話をしはじめたことで少しずつ落ちつきを取り戻した。残りのゲストのインタビューが手短に流され、映像はワイドショーのスタジオに戻る。

 普段、自分というものをうちに秘め、愛想を振りまいている女優が、強く感情を吐露したさまはやはり驚きをもって受けとめられたらしく、ネルの雄弁にはたっぷりの時間が割かれ、キャスターも興奮した様子で感想を述べていた。


 テレビ越しでも、彼女の激情は充分に感じられた。そしてその言葉は、今まで彼女の舞台で聞いたどんな台詞よりも、鳴りやまない歓声のようにネイサンの鼓膜と脳を震わせた。


 白く飛んだ視界の端で、パチパチと火花が弾ける。


 体感の時間はごくわずかだったように思う。だが、ハッと我に返ると、電器店の店主らしき男性が店の中から怪訝そうな顔でネイサンを見つめていた。急にバツが悪くなり、ネイサンは逃げるように電器店をあとにする。ただ、その顔にはこの上なく満足げな感情が貼りついていた。


 簡単に済ませるつもりだった買い物も、追加で食料や水を買いこみ、楽だからという理由で普段乗っている自前のバイクではなく、いつも家の前で埃をかぶっている乗用車に荷物を積みこみ、ロンドンを発った。

 西に車を走らせつづけ、約二時間。

 四方一面、畑や林といった緑と土の風景が広がっていた。


 民家の数も、数軒がぽつぽつと点在しているだけの、村や集落とも呼べないような場所。

 ここに来ると、まるでタイムスリップしたような感覚に陥った。不思議と、風景もセピア色がかって見える気がしてくる。


 ネイサンの運転するレンタカーは、点在する古風な民家を通り過ぎ、鬱蒼とした林へつづく砂利道を進んでいった。まだ太陽が浮かんでいる昼間にもかかわらず、薄暗くじめっとした雰囲気が車内までにじんでくる。砂利道に生えている細いイネ科の植物をなぎ倒しながら進んだ先に、ぽっかりとひらけた空間が現れた。


 木々に囲まれてはいるものの、空からは太陽の光が差しこみ、この空間だけが明るく暖かな空気に包まれている。そして、ここには、一軒の平屋の家屋が鎮座していた。


 家の前に車を停め、ネイサンは家屋を見あげる。ここに来ると、いつも子どものころに自分に舞い戻った。全身の神経が研ぎ澄まされたようになり、目を閉じるだけで、かつての記憶が鮮明によみがえる。身体の中心で熱い血が滾る感覚を噛みしめながら、ネイサンは大きく深呼吸をして、玄関の鍵を開けた。


 家の中は薄暗く、床一面に白い雪のように埃が積もっている。ネイサンは車に戻り、買ってきた荷物を抱えて屋内へ踏み入った。


 埃を被ったキッチンがある殺風景なダイニングルーム。

 家具はただひとつ、木製のテーブルが置かれているだけ。その上に、持ちこんだ荷物を載せる。中から水の入ったボトルとドライフードをいくつか手に取って、ネイサンはダイニングの奥へ足を向けた。狭い廊下の壁際に小さな扉があり、それを開ける。その先は、土間になっている小さなガレージだった。


 隅には雑草や苔の類がはびこり、ガラクタが山のように積みあがっている。その中で、フタを持ちあげて開けるタイプの白い横型冷凍庫だけが、妙に存在感を放っていた。電源にはつながっていない、ただの物置と化しているそれを、ネイサンは腰を入れて引きずっていく。


 冷凍庫があった場所の地面には、地下へとつながる昇降口のハッチがあった。古ぼけたそれを見るだけで、ネイサンは脳が痺れたような感覚を覚えた。心なしか、心拍のテンポもあがった気がする。


 跳ねあげ式となっているその扉の鍵を開け、持ちあげる。現れた地下へつづく階段を、一歩一歩、踏みしめるように下っていった。


 ヒッ……ハッ……、


 しゃくりあげるような呼吸音が耳朶に触れる。

 最後の一段をおりて、ネイサンは壁に埋めこまれているスイッチを押した。暗闇が広がっていた地下に、オレンジ色の明かりが灯る。


 壁も地面も、土が剥きだしになっている簡素な地下室。あるのは、水が張られた大きな木のタライだけ。細長い形状をしているその部屋の奥に、縮こまっているひとつの影があった。

 着用しているワイシャツやスラックスは土と汗で汚れ、足は裸足。男は、ネイサンを捉えるとその表情を恐怖に染めた。目には、かすかに緑色のオーラが揺らいでいる。


 その男――マイク・コリンズの足もとに、ネイサンは持っていた食糧と新鮮な水を投げ渡した。


「食え」


 ネイサンが口をひらくと同時に、コリンズはビクリと肩を震わせた。そして、上目遣いでネイサンを見遣る。もっとも、甘えたり物をねだるときのような目つきではない。こんなところに押しこめた側の人間が、いきなり食糧を恵むような真似をしたことに対する不信感がありありと見て取れた。


「こんっ――こんな、ものよりっ、早く、外に出してくれっ!」


 地面に落ちている食糧の袋を手で払い、コリンズは縋るようにネイサンのほうへ這いよってきた。


「食え」


 再度命令を下すネイサンの瞳は、鮮やかな緑色に染まっていた。それを目にしたコリンズは一瞬で蒼白し、ネイサンから目を背ける。彼はぶるぶると身を震わせながら後ずさり、もとの位置へ収まった。


「なん、で……こんなことを……僕が、いったい、君になにをしたって、いうんだ」


 コリンズは膝を抱え、震え声で口にした。その様子を、ネイサンはただ黙って睥睨する。この地下室で震えている男の姿が、かつての幼い自分と重なり、なんともいえない感情が湧きあがっていた。


「三日間、なにも食べていないだろう。死にたくなかったら腹に入れておくことだ。そのときが来たらここから出してやる」


 告げるだけ告げて、ネイサンはきびすを返した。オレンジ色の電灯は点けたままにして、階段をあがる。


「あぁ、アンナ……君に会いたいよ……会って、謝りたい……」


 コリンズが嗚咽混じりに吐きだす声を聞きながら、ネイサンは地下室を出た。地下室へつながるハッチに鍵をかけ、それを隠すように置いていた横型冷凍庫をもとに戻し、最後に玄関の施錠をする。


 来たときとおなじ状態にしてから、ネイサンは車へ戻った。後部座席に置いていた麻袋の中から、一足の革靴を取りだす。バックルの部分に四つ葉のクローバーのバッジがあしらわれているその革靴をしばらく眺めてから、ネイサンはそれをリュックサックに移した。


 ここを発つ前にもう一度、ネイサンは家屋に目を遣った。


 もともと、母方の祖父の持ち家だったらしい。あの地下室も、祖父が健在だったころからあったようだ。祖父は非常に偏屈な人物で、周りの人間から疎まれていたと聞いていたが、ネイサンが生まれる前に亡くなっており、ネイサンは祖父のことを知らなかった。


 ネイサンがこの家に来たのは、幼いころに母が離婚してからのことだった。あの地下室は、幼かったネイサンが幼少期の大半を過ごした、思い出の場所でもある。過去に思いを馳せるだけで、言いようのないさまざまな感情が渦巻きはじめる。それはただ、唇を震わせ、不敵な笑みとなって表れた。


 太陽の光に照らされ浮きあがった家のシルエットを、瞳に焼きつけるように睨んでから、ネイサンは車に乗りこんだ。


 ロンドンへ戻ったときには、すでに夕方になりかけていた。

 ネイサンはリュックサックを背負って、ウエストエンドの劇場街であるシャフツベリーアベニューを訪れる。


 目的のアポロ劇場は、観劇客とおぼしき人たちが集まっていた。


 アポロ劇場を拠点にしている劇団、ゴールデン・ドーン・シアターズの公演が、本日千秋楽を迎えることが大きな理由だろう。


 ネイサンは劇場に立ち入り、チケットを購入した。リュックサックを劇場側に預けてから、一足先にホールへと足を向ける。公演開始までまだ時間があるからか、ホールの座席に腰を据えている人の数はまばらだった。


 ネイサンが購入した席は、最上階である三階席の一番端、上からステージを見おろせるような位置になっているところを選んだ。いつもなら一階席の、演者たちと視線が並ぶ位置を選んでいるが、今日千秋楽を迎えるこの演劇は、すでに何度も見に来ていた。


 今日はただ、上から彼女の姿を、目立たない場所から見おろしたいという欲求があった。


 わざわざ、最上階にやってくる奇特な人間はそうおらず、開演の時間になっても周りの席がすべて埋まることはなかった。

 ずらりと並ぶ座席を照らしていた照明が落とされる。ホールが暗くなるとワクワクしてくるのは、映画館も劇場も変わらない。

 開演を知らせるブザー音が鳴り響き、緞帳がゆっくりとあがっていく。それに伴い、ネイサンの胸も高鳴った。


 一口に舞台や演劇といっても、古くから伝わる物語を演じる古典的なものもあれば、音楽を併用するオペラやミュージカル、それぞれの劇団が独自に用意した脚本の現代劇など、その種類は多岐にわたる。今日、アポロ劇場で演じられている劇は、男女の悲恋を描いたオリジナルの現代劇だった。


 古典的な題材ながら、現代をモデルに、現代の感性で練りあげられた脚本には、演者であるネル・ゴールドウェルも参加しているらしく、ネイサンにとって特別な千秋楽といっても過言ではなかった。

 物語自体は、すでに頭の中に入っている。

 劇そのものを楽しむというより、ネイサンはただ主演のネルを食い入るように見つめていた。


 物語が佳境を迎えるにつれ、ネイサンは頬を上気させ、肩で息をしはじめた。その様子を気に留めるほかの観客はいない。ネイサンはただひとり、湧きあがる情欲に耽溺した。


 物語の最後は、恋人とのすれ違いにより、ネルが演じるヒロインが命を落とすことになる。ぼやける視界の中で、ネルを抱きすくめる男優の姿に、ネイサンは自分の姿を重ねていた。


『あなたの腕の中で死ねるなら、私は……本、望――』


 恋人役を演じる男優の腕の中で、ネルが息を引き取ってステージが暗転する。そのクライマックス、ネイサンの頭の中は白く飛んでいた。

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