17. 悪魔憑き - Demonomania -

『ずいぶんニンゲンの数が多いな』


 アーロン・アローボルトの肩越しに、耳障りな声が響く。


 ここは、ウェストミンスターの一角、シャフツベリーアベニュー。ウエストエンドの劇場街の中心地であり、ゴールデン・ドーン・シアターズという劇団が本拠地にしているアポロ劇場が存在する。


 劇場街の二十三時になろうかという時間帯。観劇のあと、大衆酒場パブに集って酒盛りをしていた人々が、そろそろ酒場の店じまいで締めだされる頃合いである。


 本日は特に、アポロ劇場を訪れる人の数が多かった。所属する女優が遺体で発見されてから二日、事件当日その次の日である昨日は公演が取りやめられ、本日が公演の再開初日だったらしい。休止の期間がずいぶん短いように思ったが、亡くなったアンナ・ブリースの配役が端役だったことから、代役を立てるのがそう難しくなかったために、すぐに公演を再開することができたとのことだった。


 アーロン・アローボルトは公演が終わった二時間ほど前から、アポロ劇場を見渡せる場所で息を潜めていた。

 GDTの俳優たちは、すでにほとんどが帰宅の途についているのを確認している。あとは、ネル・ゴールドウェルだけが劇場から出てきていない。


 無意識に膝を揺らしながら、アーロンはタバコを喫んでいた。

 その視線の先には、劇場関係者が利用している通用口。そして離れた場所から、その扉をじっと見つめているひとりの男が映っている。短い茶髪で、眼鏡をかけており、そのレンズの下は青い目をしている、見るからに人の好い風采の男。彼の足もとを一瞥して、アーロンは壁に預けていた背を起こした。ちょうど最後の一本を吸い終わり、地面で踏み消してから一歩踏みだす。


『オイ、ネルに任せるんじゃねぇのか』


 背後から耳障りな声が聞こえてきたが、無視して歩みを進めた。


「よぉ」


 背後から声をかけると、男はビクリと肩を震わせて振り返った。しかし、話しかけてきたのがアーロンだと知ると、その男――ネイサン・ダンは相好を崩した。


「アーロン! お前も観に来てたのか?」

「いや、人を待ってた」

「こんな時間に、アポロ劇場の近くで?」


 はぁ、とネイサンは大仰なため息をつき、話をつづけた。


「またお前、ネルに用なのか? もしかしてお前ら、実はデキてるんじゃねぇの。お前がネルのゴシップを書いてるのは、交際を隠そうとするため、とかさ」

「まさか。アイツに用があるのはお前のほうだろ? ネイサン」


 ニヤニヤと粘ついた笑みを浮かべていたネイサンの表情が、虚を突かれたように一瞬固まった。が、すぐに普段と変わらない懐こい笑顔に変わる。


「おぅ、そりゃあオレはいつでもネルに用がある! なんたって、この世で一番大好きな女だからな!」


 高らかに宣言したネイサンは、饒舌にしゃべりはじめる。


「今日の公演もすごかったぜ。何回見てもいいモンだ。ネルは最後に命を落とすヒロインを演じてるんだが、ゾッとするようなリアリティっつうか、本当に、命を落とす瞬間ってのがわかるんだ。とにかく鳥肌が立つようなシーンなんだよ! それに今回の脚本には、ネルも参加してるらしくてさ。あぁ~、俺が一本書きあげて劇団に寄贈したら演じてくんねぇかなぁ」


 よどみないネイサンの話に、アーロンは薄ら笑いを浮かべた。


「お前が描いた脚本、ね。それは、現実にしないほうがいいと思うぞ」

「え?」


 恍惚、といって差し支えなかったネイサンの顔が呆けた。


「本当は、もう少しあとで顔を見せるつもりだったんだ。確証が得られたときにな」

「確証? なんの話だ?」

「だが、お前があの女に半殺しにされるよりは、その前に俺が止めてやるほうがいいかと思ってな。同僚のよしみとして」

「ちょっと待ってくれよ、意味がわからない」

「少し歩こうか。心配しなくても、ネルはあと一時間は出てこない」


 困惑しているネイサンよそに、アーロンは問答無用で歩きだした。ネイサンはアポロ劇場の通用口とアーロンに交互に視線を流し、結局舌を打ってアーロンのあとを追いかけてくる。


「おいっ、アーロン! なんなんだよ、もう」

「マイク・コリンズは、まだ見つかってないみたいだな」

「あ、あぁ。警察がいろいろ張ってるようだが、相変わらず家にも帰ってないみたいだ」


 歩きながら、ぽつぽつと会話を交わす。ふたりは、アポロ劇場のすぐ近くにある、教会の敷地内へとやってきた。四方を木々に囲まれ、地面には芝生が敷かれている、小さな広場のような場所だ。


 周辺に劇場や大衆酒場パブが多いこともあって、酔い醒ましのためか夜風に当たっているらしい人がちらほらと見受けられた。新しくふたりの人間がやってきたところで、注目を浴びることはない。


「事件は、連続強姦殺人事件だったはずなんだ。被害者に接点は見当たらない、だが手口は一緒。怨恨で殺されるほど被害者の私生活に問題はなく、はじめは警察も同一犯による通り魔的犯行だと断定していたはずだ」


 教会を見あげ、タバコに火を点ける。ネイサンに背を向けたまま、アーロンは話をつづけた。


「だが、アンナ・ブリースが凄惨な遺体で発見されたことで話が変わった。彼女は交際していた男と問題があり、その男は二件目の被害者と同僚だったことが判明したからだ。その事実を知った警察は、怨恨による犯行だと捜査を切り替えた」


 ゆっくりと、背後を振り返る。


「その情報はいったい、誰が警察に伝えたんだろうな」


 ネイサンが言っていた通り、不倫のことを知られ口封じのために、同僚だった美術館職員のサラ・アーネットを殺害。しかし結局、不倫相手だったアンナ・ブリースにも関係の解消を告げられたため激昂して殺害。アンナの遺体だけ、殺害後にわざわざ磔刑の形を取った理由は想像の域を出ないが、彼女に対しそれだけ特別な感情があったから、と考えれば、一連の流れは筋が通っている。不倫関係は、その想像を補強するに充分な要素だ。

 だが、コリンズの怨恨が引き起こした事件なら、二件目の事件に説明がつかなくなる。彼とアマンダ・モリスンには接点が見当たらないからだ。もし、彼らに接点があったなら、もっと早い段階でコリンズは捜査線上に浮かんでいるはずである。当然コリンズは、最初の事件では同僚という立場で聴取を受けただろう。しかし、三件目のアンナ・ブリースの殺害が起きてから警察はようやく色めき立った。ということは、それまで彼がやったという確たる証拠はなかったということだ。


 それが今になって、コリンズの犯行説に一気に傾いたということは。


「今の警察は、マイク・コリンズに目をつけ、不倫関係のこじれが犯行の動機だと考えてる。二件目の説明がつかなくなるが、手口の同一性から無理やり押し通すだろう。通り魔に見せかけるため、警察の目を自分から逸らすために無関係の人を襲ったとか、適当な自白を強要することもできる」


 狼の瞳アンバーアイがゆらりと揺らめく。


「――犯人は、そうなるように仕向けたつもりなんだろうな」


 いつのまにか、教会の広場にいた人の影は消え去っていた。静謐とした広場の中で、ネイサンは不敵な笑みを浮かべる。


「お前は、真犯人がべつにいて、コリンズに罪を着せようとしてるって考えてるのか?」

「被害者たちは強姦されてるんだ。もしコリンズが犯人なら、そんなことをする必要も意味もない。口封じが目的なら、殺すだけで達成できるからな。わざわざリスクを取って、長時間犯行に及ぶ理由がない。そうまでして彼女たちを凌辱したことは、犯人にとって必ず大きな意味がある」


 はぁ、とネイサンは大きなため息をついた。


「そんなのは、お前の推測に過ぎないんじゃないのか。それなら、コリンズにそういう趣味があって、口封じのついでに欲望を満たしたって推測もできる。どうせ殺すなら、ついでに欲望を満たしておこうってさ。人間なんて、必ずしも合理的な行動をする生き物じゃないだろ」

「目をつけるべきはそこだ。犯人の主たる目的は殺人じゃない、強姦そのものなんだよ。殺人はおそらく結果なだけで、典型的な性的シリアルマーダラーによる犯行だ」


 タバコの煙を肺いっぱいに送りこみ、アーロンは一息で吐きだした。


「性交を重視する猟奇犯は、相手を征服する、力で押さえつけることに興奮を覚える犯人が多い。自分が相手よりも上位の存在であると認識し、相手を支配したいという欲求がある」


 話しながら、アーロンはネイサンをちらりと見遣った。周囲が暗いせいで表情はよく窺えない。が、かすかに頭がさがり、伏し目がちになっているように見えた。


「今回の場合、特にわかりやすいな。被害者は皆、男にも勝るような気が強い女性だった。ほかにも動機はあるのかもしれないが、そういった女性を征服したいという欲を満たすことも、犯人にとっては重要だったはずだ。そして犯人は、被害者たちがそういう性格だと知っていた」


 うつむきかけていた顔を、ネイサンはハッと持ちあげた。


「まさか、ネルが公共の電波で犯人を批判したのは――」

「察しがいいな。俺の指示だ」


 本当にコリンズが犯人で、怨恨による犯行だったとしたら、犯行はピタッと止むはずだ。計画的か衝動的かはさておいて、コリンズの一番の狙いは恋人のアンナだったはずだからだ。だが、アーロンの想像どおり、気の強い女性だけを狙った犯行なら、これからも継続される可能性が高い。ネル・ゴールドウェルはその点、都合がよかった。

 気が強く、男勝り。加えて、そんな彼女が公共の電波で挑発すれば、犯人は必ず襲ってくるという確信めいた予感があった。こういった事件を起こすような犯人は、根本的なところで女性を自分よりも劣る存在だと認知している。殺人を犯すような倫理のタガが外れている人間が、女性が声高に自分への批判をイギリス中に拡散している姿を見て、黙っていられるわけがない。

 その結果、現れるのがコリンズでもべつによかった。己の推測が的外れだっただけで、現行犯を押さえれば済む話だ。


「連続殺人犯を誘きだす囮になれなんて、彼女はそんな指示をよく受け入れたな。お前の頼みだからか?」

「まさか。あのとき言ってただろ? 自分の手で犯人に鉄槌を下したい、なんて物騒なことを。あの女は、自分が襲われたら返り討ちにする気満々なんだよ」


 返り討ちどころか、再起不能にしてもおかしくないと思いながら、アーロンはつづける。


「しばらくは帰りを遅らせて、根気よく隙を晒しつづけるつもりだったんだ。夜中、誰もが寝静まる時間帯。帰宅途中に犯人が襲いやすいように」

「…………、」

「けど初日から、ほかの劇団員が全員帰って、残ってるのがネル・ゴールドウェルだけになっても、熱心に劇場を見張ってる奴がいた。明らかに怪しいだろ? それが、おなじ職場で働いている同僚だった。見も知らぬ奴なら、返り討ちにされようがどうでもいい。犯行の瞬間を確認してから、首を突っこむつもりだった。言っただろ、お前が半殺しの憂き目に遭う前に止めようと思った、ってな」


 知り合いが不審な行動をとっていたというだけで、確信が得られる前にこうして姿を見せたなど、もしこれが警察の捜査だったとしたら、上司からしこたま叱られているところだろう。


「ふたりで罠を張る共同作業か……ずいぶんと楽しそうだな」


 くくっ、とネイサンは喉の奥で笑った。


「事件の話に戻るが、そもそもだ。クスリも酒も使わず、縛ることもせず、どうやって抵抗されずに強姦殺人を完遂できるっていうんだ」


 警察が初期捜査から困惑している点をネイサンは指摘した。それが解明できなければ、事件の解決には至らない。

 自信たっぷりにしゃべるネイサンを、アーロンは薄い笑みを浮かべながら、ゆっくりと指差した。


「気づいてないのか? お前、両目が緑になってるぞ」

「!」

「それに……その革靴、どこで買ったんだ?」


 アーロンはネイサンの足もとに視線を落とした。

 ずっと視界には映っていた、四つ葉のクローバーのバッジがバックルの部分にあしらわれている革靴。

 ネイサンが履いているわけがない、その革靴。


「その靴は、アンナ・ブリースが恋人のマイク・コリンズのために特注した、世界で一足しかない靴なんだ」


 拙い七十一番のアシストスペルで得られた、アンナ・ブリースが遺した思念は、耳障りなノイズの中で、最後に四つ葉のクローバーがあしらわれた革靴について語っていた。


『どうしてその靴を、あなたが履いているの』

「どうしてその靴を、お前が履いてるんだ」


 血を吐くような声で叫んでいた、彼女の最期の思念を代弁する。

 ネイサンがマイク・コリンズから靴を奪ったことは明らかだ。仕事中に行方をくらませ、いまだに警察の網にもかからないところを見るに、コリンズの失踪にもネイサンは関わっているのだろう。


「く、くく。うるせぇな、わかってるよ……」


 うつむいたネイサンの喉から、くぐもった笑みのような音が漏れた。ゆっくりと顔をあげながら、掛けていた眼鏡を外す。その瞬間、ネイサンの両目から緑色のオーラが炎のように噴きだした。


 まばゆいほどのその光に、アーロンは咄嗟に右腕で顔を隠す。突如、腕に痺れたような感覚が走った。見ると、右腕に目のような意匠の刻印が刻まれていた。


「!」

「まず腕一本」


 もともとの青い目を緑色に染めながら、ネイサンはニヤリと笑みを浮かべた。対するアーロンはゆっくりと、右手を動かして感覚を確かめる。動かせないわけではないが、麻痺の症状といっていいのか、血が通っていないような、肩から先が自分の身体ではないような感覚に陥った。


「警察のマネゴトをして、余計なことに首を突っこむから、お前は本懐も遂げられずにここで死ぬことになる」

「余計なこと? 悪魔憑きが起こした事件は全部追ってるんだ。余計かどうか、まだその判断すらできてねぇよ。お前の右腕を確かめて、お前がどうやって悪魔憑きになったか訊きだすまではな」


 短くなったタバコを左手で弾く。

 吸殻は地面に落ちる前に、炎に包まれ一瞬で燃え尽きた。

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