9. 大英図書館 - The British Library -
次の日。
アーロン・アローボルトは、シティ・オブ・ウェストミンスターのすぐ近く、カムデン区の南に位置する大英博物館図書館へ足を運んでいた。
ここに来る前、出勤直後に社会部へ顔を出し、ネイサンに調査の進捗を確認しようとしたのだが、ネイサンは休みで会社に来ていなかった。彼の自宅に電話をかけることもできたが、休日を邪魔するのも悪いかと、思いとどまる。
自らが籍を置く文芸部のフロアは慌ただしく、明日発売する雑誌を完成させるため、特に編集部はてんてこ舞いの様相だった。
ネタを引っ張ってくる側であるアーロンは、昨日の夜で山場を越えたため、今日こそ好きに過ごそうと思っていたのだが、昼まで雑誌の原型を完成させ、印刷業者へ持っていかなければ明日の発売日に間に合わないと、編集部の仕事を無理やり手伝わされる羽目になった。
口うるさい編集長に怒鳴られながらもなんとか昼までに仕事を片付け、隙を見て逃げるように外へ出た。とりあえずの昼食を片付けて、改めて連続強姦殺人事件について調べるために、大英博物館の図書室へ行くことを決め、今に至る。
今から約十年前、一九七二年に施行された大英図書館法に基づき、次年には大英図書館が設立されたが、景気の低迷を理由に新しい施設の建設がおこなわれず、もともとあった大英博物館図書館を母体とし、国立中央図書館、国立科学貸出図書館など既存のいくつかの図書館が統合され大英図書館という扱いになったというだけで、蔵書は各図書館に分散して保管されていた。ただ、増えつづける蔵書、資料により書庫スペースの不足が問題となり、ようやく、去年、八十二年になってセント・パンクラスにて新館の建設がはじまったらしいが、それが完成し大英図書館の機能が完全に統合されるのはまだまだ先の話だろう。
というわけで、現在はいくつかの図書館に蔵書が分散して存在している大英図書館だが、世界各国のあらゆる時代の蔵書を網羅する、世界屈指の大図書館だ。もし焼失でもしようものなら、かつてのアレクサンドリア大図書館に匹敵、もしくはそれ以上の損失を世界にもたらすだろう。
学者垂涎の歴史的資料だけでなく、現在発行されている新聞や雑誌、パンフレット、特許、地図、切手などに至るまで、人が書いたあらゆるものが保管されていることが大きな特徴といえる。
もともと、読書に興味があるような人間ではなかったアーロンも、二年近く前から情報収集のためによく利用していた。警察の資料にアクセスできるならそれに越したことはないが、そんなことは到底不可能なため、一般人となったアーロンにとっては、この図書館が一番の心強い味方である。
アーロンが図書館に来た昼過ぎには、すでに多くの人が読書に耽っていた。アーロンは貴重な歴史的資料には目もくれず、ここ二、三週間ほどのあいだにロンドンで発行された真新しい新聞と時事、社会雑誌を抱え、なんとか空席を確保した。
『あぁあ。ここはつまんねぇんだよな。人は多いが全員蝋人形みてぇにピクリともしねぇで本を読んでる』
たくさんの人がいるのに、静謐としている空間には、なんとなく異世界に来たかのような錯覚を覚える人もいるかもしれない。ただ、アーロンだけは耳障りな声と、宙を徘徊する黒い本を認識していた。もっとも、反応を示すことはなく、掻き集めた資料に目を通しはじめる。
ロンドンを騒がせている連続強姦殺人事件。
一件目の被害者は、サザーク区、ダリッジにある美術館に勤務していたサラ・アーネット、二十八歳。自宅もサザークにある彼女だが、遺体が発見されたのは、カムデンとシティ・オブ・ウェストミンスターの境にある、プリムローズヒルという緑豊かな小高い公園のような場所で、時間帯は夜明けごろのことだった。
プリムローズヒルは人々の憩いの場として有名な場所であり、視界がひらけたエリアも多く、昼間にはたくさんの人であふれているが、遺体は公園内のうっそうとした木々に隠れるようにして放置されていた。
遺体は全裸に剥かれ、強姦された痕跡と、複数回殴打された痕が散見された。直接的な死因は、長時間首や胸部を強く圧迫されたことによる外傷性窒息死で、おそらく行為の最中に強引に押さえつけられて、その結果死に至ったということが想像できる。ただ、遺体には抵抗した痕や防御創が見当たらず、にもかかわらず縄や手錠による拘束の痕跡もなかった。となると、薬物やアルコールなどで抵抗できないような状況にされたのではと考えられたが、予想に反して遺体からその類の物質は検出されなかった。遺体には致命的な外傷があったわけでもないため、どうやって自由を奪い強姦に及んだかということには、警察も頭を悩ませているようだった。
また、遺体は死後十二時間は経過しており、発見が明朝であったことを考えると、
犯行は前日の昼間から夕方にかけておこなわれたと思われる。人の多い時間帯のプリムローズヒルで長時間行為に及んだとは考えづらく、遺体の周囲が荒らされた形跡もなかったため、人目に憑きづらい場所で犯行に及び、現場まで運んで遺棄したと考えられるが、警察はいまだ実際の犯行現場を特定できていないようで、犯行の全容すらはっきりと解明されていないと辛口の社会雑誌は書き連ねていた。
警察の仕事ぶりはともかく、遺体の搬送と遺棄の目撃者がいないというのも気になるところだ。犯人の運がよかったと言ってしまえばそれまでだが。そう思いながら、アーロンはちらりと宙を舞っている黒い本を見遣った。
悪魔に魂を売った者なら、相手に触れることなく意識を奪う力に目覚めることも充分考えられる。昨日、アーロンや公園にいた人たちが被害を受けたように。ゆえに、昨日の男が連続強姦殺人事件に関わっている可能性も、ありえない話ではないと思っている。
悪魔憑きが引き起こした殺人事件。
ふと、胸に孔の開いた彼女の姿が脳裏をよぎった。眉間を強く指で押してから、気を取りなおしてふたたび資料に目を落とす。
被害者の身辺についてだが、職場でもプライベートでも人間関係等に問題はなく、恋人との交際も順調。金銭的な問題もないため、怨恨の線は薄いと警察は考えているようだった。
具体的な犯人像がつかめないまま、ほとんど間を置かずに二件目の事件が発生した。
二件目の被害者は、シティ・オブ・ロンドンの
遺体は一件目と同様、強姦された痕跡と、執拗に殴打された痕が確認された。死因もおなじ胸部や首の圧迫による外傷性窒息死。防御創など、被害者が抵抗した様子は特に見受けられなかったとのこと。しかしながら、縛られたような痕もなく、一件目と同様、薬物やアルコールも検出されなかった。
被害者自身に関しては、同僚はおろか客とも真っ向から言い争うほど気が強い女性だったが、自分にも他人にも厳しい性格だったようで、仕事ぶりは非常に優秀、彼女を中心に店がまわっていると言っていいほどだったらしい。仕事仲間からの評判はよく、私生活にも問題はない。同僚のみならず、
以上の状況や、被害者どうしに接点がないこともあって二件とも同一犯による通り魔的犯行だと警察は考えているようだ。
ただ、二件目に関しては一件目と異なっていた部分もあり、それは被害者の手指の爪が数枚剥がされ、片腕が骨折していることだった。このことも、犯行の手口の違いというよりも、犯行を重ねたことで慣れが生じ、犯人の残虐性がさらに発露してきたのではないか、と記事を書いた雑誌記者がまとめていた。
雑誌のほうは、記者自身の推測などが多分に含まれている文章の羅列ではあったが、特に異を唱えたくなるような突飛なものではなく、自分も似たような結論に至るだろう、とアーロンは思った。
警察が考えている同一犯という線には、アーロンも同意だった。
特に、自分の欲を満たすことだけを目的としている猟奇殺人犯、シリアルマーダラーならば、被害者どうしを結びつけるものがなくても、なにもおかしいことはない。そういった犯人は、相手が女性であれば誰でもいい、子どもであれば誰でもいい、といった思考を持っている場合が多いからだ。ただ、それは被害者の人間関係から容疑者をたどることができないという捜査上の難しさも浮き彫りになる。事実、犯人につながるような決定的な証拠はなく、警察も手をこまねいている状態らしい。
猟奇殺人、快楽殺人事件となれば、その動機などを論理的に考えることは無意味だろう。警察が犯行現場に遭遇し直接取り押さえることが、最も確実な解決法な気もしてくる。
大英図書館は蔵書の持ち出しができないため、アーロンは気になったところを改めて自分のメモ帳に書き留めていった。
もし自分とおなじような悪魔憑きが犯人なら、マスターにも協力を仰ぐ必要があるだろう。だがその前に、ネイサンに頼んでいた件について確認を取りたい。
ただ、明日になればネイサンも出勤するだろうが、あいにく明日はアーロンのほうが休みを取っていた。とはいえ、外出する気になったら職場に顔を出せばいい話だ。その気にならなくても、あさってには嫌でもおなじ屋根の下にいる。情報交換が一日遅れたところで、大きな影響はないだろう。
もし明日外出するなら、ついでにアトリエの掃除でもしておこうか。
そんなことを考えながら、アーロンは図書館をあとにした。
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