8. マイク・コリンズ - Mike Collins -

「私どもも、困っているところなんですよ」


 サザーク区、ダリッジにある美術館の職員、マイク・コリンズの上司だという恰幅のいい男は、肩をすくめながら口をひらいた。

 いわく、コリンズは早めに昼休憩をとって外に行ったきり、戻ってきていないらしい。現在の時刻は、十四時を過ぎるところだった。


「そうですか……」


 職員たちの事務所に招かれたネイサンは、小さくため息をつきながら周囲を見遣った。職員や関係者用の部屋とはいえ、美術館らしく調度品や絵画といったものが飾られており、上品な雰囲気を演出している。そんな高級そうな品の数々に混じって、写真がいくつか飾られていた。


「皆さん、仲がよろしいんですね」


 働いている職員たちの写真だろう。集合写真だけでなく、休憩中のひとコマや、職務の様子を切り取った写真まで飾られていた。調度品には目もくれず、ネイサンは写真を覗きこむ。


「あぁ、えぇ……」


 紅茶と茶菓子を用意しながら、上司の男性はどこか遠い目をした。

 ふたたびびちらりと写真を見遣ったネイサンは、映っているひとりの女性に視線を留める。


「すみません、申し遅れていました。事件のこと、お悔やみ申しあげます」


 そう言うと、彼は力ない笑みを浮かべた。


「やっぱり、おなじ職場の仲間ですから。今まで飾っていたものを片付けるのは、なんとなく忍びなくて……なかなか気が強いで、上司としては苦労もしましたが、仕事ぶりは立派でしたので、残念です」


 透き通った肉桂色が美しい水色すいしょくの紅茶が、品のあるカップに注がれる。カップをなみなみと満たした紅茶が鏡面になり、男性のやつれた顔を映した。ティーポットから滴った最後の一滴が、その水面に波紋を作る。

 うつろな表情で紅茶を注ぐ職員の横顔を見遣りながら、ネイサンは口をひらいた。


「すごくステキな写真なので、撮らせていただいても?」

「えぇ、結構ですよ」


 許可をもらい、職員たちが写っている集合写真をカメラに収める。そのあいだに、彼は応接用のテーブルに紅茶と茶菓子の載ったトレイを置いた。慌てて席に戻り、もてなしの礼を述べる。


「それで、用件というのは……コリンズが、なにか」


 おずおず、といった様子だった。

 まず一口、紅茶に口をつけていたネイサンは、咄嗟にカップをソーサーに戻す。


「あぁ、はい。少し申しあげにくいのですが……先ほど、マイク・コリンズさんらしき人が、女性に怪我を負わせて逃走したとのタレこみがありまして」

「えぇ!? それ、本当なんですか?」


 ネイサンの言葉は想像の埒外にあったようで、彼は目を丸くした。


「被害者の女性が、頑なに話をしてくれなくてですね。通報をする気もないようなので、ご本人と確定したわけではありませんが……暴力行為があったことは事実です」

「どういうことですか? その女性は、事件にしたくないということですか?」


 安堵と困惑が混ざったような、微妙な表情だった。


「理由はわかりませんが、おそらく。アンナ・ブリースという女性なんですが、ご存知ですか?」

「アンナ・ブリース……いえ」

「アポロ劇場の舞台女優なのですが」

「いいえ。その方が被害者なのですか?」


 ネイサンが肯定すると、男性はしばらく考えこみはじめた。目をつぶり、顎をこすり、天を仰ぎ、やがて難しい顔のまま口をひらく。


「すみません、やはり存じあげておりません。ほかの者に聞けば、知っているかもしれませんが。お呼びしましょうか」

「あぁいえ、そこまでは。被害者も事を大きくしたくはないようですし、コリンズさんの仕業だと決まったわけでもありませんので。内密にしておいたほうがよろしいかと」

「そうですか……わかりました」


 どこかほっとした様子で、男性は小さく頷いた。

 話が一旦途切れる。

 ネイサンはふたたび紅茶に口をつけ、一息ついた。カップとソーサーが触れあう甲高い音が響く。


「コリンズさんに話を訊きたいのですが、どこに行ったか、思いつく場所はありませんか」

「すみません、特には……先ほど、コリンズの家のほうにも連絡をしてみたのですが、奥さんからは帰ってきていないと言われまして」

「彼、家庭があるんですか」


 今度はネイサンが目を丸くする番だった。


「えぇ、子どももいますよ。十歳くらいだったかな。あまりプライベートなことは話してくれないので、それくらいのことしか知りませんが。なので、彼が仕事を放って行くようなところも、想像がつきません」

「あの、差し支えなければ彼の電話番号か住所を教えていただけませんか。私のほうでも、彼の居場所を探ってみますので」


 電話帳を片っ端から調べることもできるが、近道ができるならその手を取らない理由はない。

 上司としても部下の安否が心配だったのだろう。時代ゆえか、個人宅の電話番号にそこまでのプライバシー意識はなく、彼は快く電話番号と住所をネイサン伝えた。


「ありがとうございます。なにかわかれば、すぐに伝えますね。これで明日ひょっこり通勤してきたら、一番安心だと思いますが」

「いや……彼は明日、もともと非番なんですよ」


 努めて軽快に、心配する必要はないという意味を込めて言うネイサンだったが、上司の男性は困ったような笑みを浮かべた。


 彼に礼を言って、ネイサンは美術館をあとにする。まず、近くの公衆電話からマイク・コリンズの自宅へ電話をかけた。コリンズの友人を装い、在宅か確認したが、電話に出た彼の妻からは不在だという答えが返ってきただけだった。


 それでもあきらめないネイサンは、つづいて現状取れる最終手段へと出た。いったんカムデンにある自宅に戻り、車を駆って目的地へと向かう。その場所は、コリンズの自宅がある住宅地。彼の家が見える適当な場所で車を停め、ふたたび近辺の公衆電話で彼の家に電話をかける。が、おなじ答えが返ってきた。


 事態が動いたのは、すっかり日も落ちた時間になったころだった。

 暗闇の向こうから、フラフラと歩いてくるコリンズが街灯の明かりに照らされながら現れた。ネイサンは慌てて車を降り、彼に近づいていく。

 妙にくたびれたシャツとスラックス、それとは対照的にきれいに磨きあげられた茶色の革靴が目を引く出で立ちだった。その革靴は、バックルの部分に小さな四葉のクローバーのバッジがあしらわれた珍しいデザインをしている。


「あの、マイク・コリンズさん、ですよね」


 声をかけると、コリンズは胡乱げな視線をネイサンに向けた。 


「私、新聞記者なんですが、あなたが昼間、女性に暴行を加えていたというタレコミがありまして」


 その瞬間、表情を歪ませたコリンズがきびすを返し、脱兎の勢いで逃げだそうとした。ネイサンは反射的に彼の腕をつかむ。


「あなたの家に警察が来ていました。それは事実ですが、私はなにもあなたを警察に突きだそうっていうんじゃないんです」


 逃れようと身を捩るコリンズに、ネイサンは必死に語りかけた。すると、コリンズはビクリと身を震わせて、おそるおそるといった様子で振り返った。その目には恐怖の色が宿っている。


「警察がうちに来たって、本当なんですか……?」


 まるで、この世の終わりのような表情だった。


「え、えぇ。今朝のことについて話を聞きに来たんだと思いますが、でも……」


 気弱。

 コリンズを見て、ネイサンがまず第一に思った印象がそれだった。


「あなたが女性を襲ったというのは、にわかには信じられませんね。もしそれが事実でも、なにか事情が――情状酌量の余地があるのではとお見受けします」


 そう言って、ネイサンは懐から自分の名刺を取りだした。


「私、新聞社の社会部に属しているので、警察にも多少顔が利くんです。あなたのお力になれるかもしれません。お話を聞かせてはくれませんか。ご家族にも話はしておりませんし、聞くつもりもありません。他言しないことを誓いますので」


 その気遣いを受けてか、コリンズは小さくうなずいた。ネイサンは柔和な笑みを浮かべ、立ち話もなんだからと、自分の車へコリンズを誘った。

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