7. ゴールデン・ドーン・シアターズ - Golden Dawn Theaters -
時間は少し巻き戻り、本日の昼過ぎ。
「着いた着いた」
喫茶店、ホワイトシープで同僚と別れたザ・タラリアの記者、ネイサン・ダンは、ウエストエンドにあるシャフツベリー・アベニューでバイクを停めた。ピカデリー・サーカスから北東に向かって伸びる通りで、この通りに面している劇場のひとつが、目的地であるアポロ劇場である。
ゴールデン・ドーン・シアターズという劇団が本拠地にしている劇場で、こぢんまりとしているが百年近い歴史があり、白を基調とした外観が美しい重厚な佇まいの建物だ。
仕事で入ったことはほとんどないが、ネイサンもプライベートではよく足を運んでいた。中に入ると、一面赤いカーペットのフローリングが広がり、シックで高級感のある劇場の雰囲気に一役買っている。まず目に留まるのは受付と小さな売店。平日の今日、劇場が本格的に稼働するのは夜になってからだが、昼間もチケットを買い求める人などの出入りがある。
パンフレットなどと一緒に、とある雑誌が並んでいるのを見て、ネイサンは吸いこまれるように売店へと足を伸ばした。シアター・シーズンという、ロンドン内の劇場や劇団、上演されている演劇などについてまとめられている、舞台好きのための
(そういや、今月のはまだ買ってなかったな)
一冊掴んで、レジへと持っていく。購入してすぐに雑誌をペラペラとめくった。そして、とあるページで手が留まる。
今いる劇場で現在上演されている舞台についての紹介ページだった。主演を務めているネル・ゴールドウェルという女優が、きらびやかなドレスを身にまとい、他のメインキャストを侍らせて写っている。
「相変わらずイイ女だなぁ」
整った綺麗な肌は当然として、切れ長の
しばらく大好きな女優に見とれていたが、なんの気なしに次のページを開いた。
舞台裏を写した白黒写真とともに、端役のキャストやスタッフたちの名前が羅列されている。その中に、アンナ・ブリースという名前を見つけた。慌てて、アーロンから受け取った名刺を確認する。
「おなじだ……」
急に仕事を思いだし、ネイサンは機敏に関係者用出入口へと向かった。そこには小太りの警備員がひとり常駐しており、同然のように制止される。
「ちょっと聞きたいんだけど」
懐からザ・タラリアの社員証を取りだし、警備の男性に素性を明かす。
「あれ、アローボルトくんじゃないね」
ネイサンがよく出入りしている新聞社の人間と知ると、警備員は態度を軟化させた。
「一時的に、バトンタッチしてるというか」
取ってつけたような愛想笑いを浮かべ、ゴクリと喉を鳴らす。
「えっと、ネルは、いるかな?」
「え、ゴールドウェルかい?」
警備員の反問に、ネイサンはコクリと頷いた。アーロンに頼まれた用件も大事だが、ネイサンにとっては同じくらい重要なことだった。
観客席から眺めることはできても、間近で見て、ましてや話せるチャンスなどそうそうない。加えて彼女はメディア嫌いとしても有名だ。仕事という名目も、そう簡単に使えない。それにしてはアーロンは頻繁にこの劇場へ出入りし、ネル・ゴールドウェルのネタを引っ張ってきているようだが、どんな手腕を発揮しているのかとことん不思議だった。
したがって、簡単にここまでやってきたように見えるが、実はなかなかないチャンスをつかむ寸前なのだ。が、警備員は呑気に顎をこすって、
「今日はまだ見てないなぁ。平日だから夜公演しかないし、そういうときは
と、絶望の一言を叩きこんだ。
「あぁ、そうだよな……」
そりゃそうだ、と頭を掻きむしる。アポロ劇場は現在舞台の上演期間中、土日なら一日二部公演を行っているが、平日は夜公演のみしか行っていない。
いくら準備に時間がかかるとはいえ、太陽が真上にある時間帯に来ても、女優に会えないのは至極当然といえる。少し考えればわかることだったが、そこまで頭がまわっていなかった。どうやら、思った以上に浮かれていたらしい。
「じゃあ、アンナって人は来てる?」
ガックリと肩を落としたネイサンは、本来の目的である人物について尋ねた。彼女もキャストとして名を連ねているため来ていなくても仕方ないが、このまま引きさがってはここまで来た意味がない。
とりあえず聞いておくか、くらいの感覚で告げられた名前に、警備の男性は首を傾げた。
「アンナ……?」
「ほら、キャストに名前がある」
煮えきらない彼の記憶を揺り起こすべく、買ったばかりの雑誌を開き、該当ページにある小さな名前を指で叩いた。
「あぁ、あぁ! 最近入団した
「あぁそう。それで、来たの? 来てないの?」
しばらく考えこんでいる警備員だったが、急に思いだせたようで一気に口が軽くなった。聞いてもいないことをペラペラと語る彼に苛立ちをあらわにしながら、ネイサンはおなじ質問を繰り返す。
「彼女ならさっき来たよ」
その機微を感じ取ったのか否か、警備員は一転、さらりと答えた。
「本当か!? ちょっと聞きたいことがあるんだ、呼んでくれないか」
「少し待っててくれ」
そう言って、警備員は関係者用出入口の奥へと引っこんでいった。
しばらくして、彼とともに出てきた女性は、これでもかというほど冷ややかな目をした、ラテン系の美女だった。湿布や絆創膏で隠れている部分が多いものの、切れ長の目に高く筋の通った鼻が、彼女の見目麗しさを強調している。
話がしたいことを告げると、彼女は無言のまま歩きはじめた。慌ててあとを追う。そして、普段警備員などの関係者が出入りに使っている勝手口の扉を開けた。外に出た先は、劇場の建物に隣接している小路だった。
「それで、記者の人が私になんの用?」
アンナ・ブリースは腕を組み、鋭い目をネイサンに向けた。
「君が暴漢に襲われたって聞いて……」
ネイサンがすべてを言い終わる前に、彼女は心底落胆した様子で大きなため息をついた。
「誰に聞いたの?」
その声色は、鋭い棘をまとっていた。自分に向けられているあからさまな敵意をひしひしと感じ、ネイサンは苦笑いする。
「同僚から聞いたんだ。ほら、ダリッジで会っただろ? 目つきの悪い金髪。アイツが失礼なことをしたんじゃないかと思って、お見舞いに来たんだ」
そう言って、手に提げている紙袋を持ちあげて見せた。中には、劇場に来る前に買っておいた人気店のスイーツが入っている。
「えぇ」
その紙袋に目を落とし、アンナは小さく呟いた。
反応が薄い。
これは本当に、アーロンのことを知らないらしい。警備員が言っていたように、新人なら仕方ないかと思いつつ、
「あいつのこと知らない? よくここに出入りしてるんだけど」
と、ネイサンはわざと話を打ち切らなかった。核心に近づく前に、まず外堀から。話をしていく中で、相手の警戒を少しずつ氷解させる。女とは元来、おしゃべりが好きな生き物だと相場が決まっている。その取っ掛かりとして必要なルックスや清潔感は充分持ちあわせているつもりだった。
が、あの現場で遭遇した男のことすらも話したくないのか、彼女はその問いには答えず、ひったくるようにお菓子の袋を受け取って、
「とりあえずありがと。私は元気だから、それじゃあね」
「ちょぉっ、ちょっと待って! 少し話が聞きたいんだよ。最近、女性ばかりが殺されてる事件が起きてるのは知ってるよな? 君を襲った犯人が同一犯――」
「彼がッ、殺人犯なわけな――」
きびすを返そうとしていた彼女が、咄嗟に大きな声をあげ振り返った。その必死の形相に、話を遮られたネイサンはビクリと肩を震わせる。対して、すべてを言い終わる前にハッと我に返ったアンナは、言葉を切り小さく肩を縮こまらせる。
「――なんでもないわ。ごめんなさい」
彼女の剣幕に圧されたネイサンは、コクコクと二、三度頷いた。が、それだけで話を打ち切るような性格はしていない。伊達に記者をやっているわけではないのだ。
「同一犯とは言わない、って言おうとしたんだ……でも、今そのテの事件はセンセーショナルな話題だから。解決すれば、たくさんの人を安心させられる。なにか知っていることがあれば教えてほしいんだ」
幾分か控えめに、ネイサンは話をつづけた。
「警察に頼るのは嫌そうだったみたいだけど、もしそうなら、オレを頼ってくれないか。探偵みたいなものだと思ってさ」
あくまでも
なにかわかれば、使えるかもしれない――ふとよぎったその感情を見透かしたのか、はたまたたまたまか、彼女の表情に怒りの色が滲んだ。
直後、乾いた破裂音が響き渡る。
「センセーショナルな話題だから、解決すればたくさんの人が安心する? 笑わせないで。センセーショナルな話題だから、大きな手柄になるの間違いでしょ? 結局記者なんて、人の不幸に群がって食い漁るしか能がない人間のクズじゃない! そんなヤツに話すことなんてなにもないわ! 帰って!」
弾丸のような早口でまくしたて、受け取ったはずの袋をネイサンへ突き返し、彼女は劇場へと戻っていった。路地の向こうから聞こえる、人が行き交う喧騒が妙に遠く響く。
(これは、なかなか……)
ひとり取り残されたネイサンは、ジンジンと痛む頬に手を遣って、引きつった笑みとともに小さく身を震わせた。急な出来事に頭が真っ白になっていたが、息を整えてから劇場内へと戻る。
関係者用出入口のところでは、先ほどの警備員とまた別の女優がなにやら話をしていた。ネイサンに気づいた警備員が、困惑した様子で話しかけてくる。
「なにかあったのかい? だいぶ怒ってた様子だったけど」
「彼女、劇場に来る前に暴漢に襲われたらしくて。話を聞きたかったんだけど、どうしても取り合ってもらえなくて」
「え、自転車で転んだって言ってたのに」
その話に、警備員と一緒にいた女優があっけらかんと口をひらく。ふわりとしたブロンドのボブヘアに、幼げのある丸顔。チークやリップなど桃色を基調とした化粧は、彼女の柔らかな雰囲気を引き立てている。アンナやネル・ゴールドウェルとはまた違ったタイプの女性だ。
「えぇ? どう見てもそんな怪我じゃないだろ」
「そりゃあもちろん、これっぽっちも信じてないけど」
能天気だな、と呆れるネイサンに、彼女は少しばかり口を尖らせた。嘘だということくらいわかっている、という意思表示だ。嘘だとわかったうえで、わざわざ詮索はしない、ということなのだろう。
その距離感が、女所帯の劇団でうまくやっていく秘訣なのかもしれない。おなじ劇団という屋根の下にいても、完全な仲間意識だけで成り立っているわけではないということか。自分を磨いていればそれだけで成りあがれるほど甘い世界ではないというのは、部外者であるネイサンにもよくわかった。時に他者を蹴落とし、役をつかみ取ることだってあるだろう。中には、他者を貶めることばかり考え、同僚の粗探しばかりをしている、努力と精進を忘れた人間もいるかもしれない。
幸い、ゴールデン・ドーン・シアターズは、表立った諍いが目立つ劇団ではなかったように思うが。それは、たったひとりの女優が不動かつ孤高の地位を築いているからだろう。好意、羨望、嫉妬、悪意。他人のさまざまな感情が自然と集まる頂点にいてもなお、まるで意に介していないかのように、少しも揺るがない。
ファンの鑑か、劇場という特殊な環境にもそれなりに明るいネイサンは、大好きな女優の姿を思い浮かべつつ、
「警察への通報も嫌がっているみたいで。目撃証言からして、犯人はこんな男なんだけど……」
本当はアンナ・ブリースに聞きたかったことだが、ノートを取りだす暇すら与えてもらえなかったため、ネイサンは仕方なくこのふたりに似顔絵を見せた。
「ひっ」
ぎょろりと目を剥き、開いた口からはよだれが垂れている。
まさかこんな化物のような似顔絵だとは思わなかったのだろう。警備員は小さな悲鳴とともに一歩引いたが、女優の彼女はまじまじと似顔絵を覗きこんだ。
「この人……」
「知ってるのか?」
食い気味に尋ねるネイサンに、彼女はどう答えようか考えあぐねている様子だった。
「オレが追っている事件の解決に繋がるかもしれないんだ。教えてくれ、頼む!」
眼前の男の必死な形相に圧されたのか、彼女は観念したらしくため息をついた。
「わたしから聞いたって言わないでね」
そう釘を刺して、再びネイサンの持つ似顔絵に視線を落とす。
「たぶん……コリンズさん、かな……」
「知ってるのか?」
「ちょっと、絵があれだから確実じゃないけど……最近、劇場に押しかけてきて、彼女と口論してた人がいるの。その人なら、彼女に暴力を振るうってこともありえるのかなと思って」
「口論? この男が?」
「黒髪で短髪、顔が丸いところまでは共通してる。話の内容まではわかんなかったけど」
「名前を知ってるってことは、君の知り合いでもあるのか?」
「知り合いっていうほどではないかなぁ。彼、わたしが趣味でよく行く美術館の職員なの。だから、言い争ってるのを見たとき、すごくびっくりしちゃって」
「美術館! それって、どこかな」
記憶に残ったと語る彼女の言葉に、ネイサンは慌てて懐から手帳を取りだす。つづけて彼女が口にした美術館の名に、思わず固まった。
瞠目しているネイサンを気にも留めず、彼女は男性のフルネームを口にする。
耳に届いた声で我に返り、慌てて手帳に書き留めた。そして、彼女の手を両手で包みこみぶんぶんと上下に振る。
「ありがとう! すごく有益な情報だよ。これ、よかったらみんなで食べて。あなたも一緒に」
そう言って、アンナから突き返されたばかりのお菓子を手渡した。不気味な似顔絵に後ずさっていた警備員にも声をかける。
劇場をあとにしたネイサンは、次の目的地へ向かって歩きだした。
心なしか、足取りも軽やかになる。
ニッコリと、満面の笑みを浮かべて。
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