4. もしかして - By any chance -
『……ア……ン、アーロン!』
脳裏に響く、不快な声。
ざわりと耳をなぞるようなその声が、無理やり意識を呼び起こす。開いた目にまず映ったのは、視界を覆いつくす悪魔の顔の彫刻だった。
無意識に腕が動く。金属を殴ったような鈍い音が辺りに響いた。
『テメェ、心配してやってるのになにしやがる!』
アーロンの拳にふっ飛ばされた黒い本が、勢いよく舞い戻り眼前で声を荒げた。
「ザミュエル……?」
『オイ、ついにボケたか? さっきまでのことすら忘れてるんじゃねぇよな?』
ぼんやりした頭で、アーロンは本の名を呟く。妙に自身なさげなその声色に、ザミュエルと呼ばれた黒い本は大きく身を揺らしため息をついた。
気だるげに身体を起こして周囲を見まわし、あれは夢か、とひとりごちる。
当たり前だ。
あんな光景、二度も経験できるわけがない。
『ってそんなことよりだ、あれ』
白昼夢を見ていたのは、現実ではほんのわずかな時間だったらしい。
地面に転がっていたままのアーロンは、勢いよく身体を起こして駆けだした。だが、急なその行動のせいか、貧血のような立ちくらみに襲われ、地球とキスをして地面を転がる羽目になる。強打した鼻からは鮮血が噴きだし、頭上ではザミュエルがゲラゲラと下卑た哄笑をあげた。
それを無視してなんとか立ちあがり、男が姿を消した場所まで走る。
「クソッ!」
左右に首を振ってみても、フォーマルな格好の男の姿はなかった。
さすがに、躓いたわずかな時間で逃走の時間を与えてしまったとは思いたくない。今ならまだ、追いかければ確保できるかもしれない。
ふと、公園を振り返ったとき目に映ったのは、向かってくる黒い本と、その向こう側で倒れている人たちの姿。
『なにが憑いてたかは知らねぇが、お前の様子を見るに、おそらく
話しかけてきた
「いいモンが見れた」
複数の人が倒れている中で、アーロンはいまだ泣きじゃくっている女の子のもとへ行き、その傍らに倒れている母親らしき女性の首筋へ手を遣った。
脈は安定している。単に気を失っているだけのようだ。
「大丈夫だ、すぐに目を覚ます。だから泣くな」
少女の小さな頭をなでる。それで少しは落ちついたのか、泣き声はしゃっくりまで小さくなった。ベンチで横になっている老人も、命に別状はなさそうだ。
最後に、男に胸ぐらをつかみあげられていた女性の様子を確認する。寸前までもみあっていたのか、女性の顔には痣や打撲痕が痛々しく残されており、周りには女性のものとおぼしきハンドバッグの中身がぶちまけられていた。化粧道具などの小物類と、名刺らしき紙片が散乱している。
一枚拾いあげると、アンナ・ブリースという名前と、ゴールデン・ドーン・シアターズという劇団名、電話番号の羅列が目に入った。
「GDT……?」
その名前に、アーロンは眉をひそめた。
こんな女がいただろうかと首を傾げる。
ただそう言われてみると、ラテン系の健康的な褐色肌や、筋の通った高い鼻は、不思議と魅力的に見えてくる。
肩書というものはそれだけ人の印象に影響を与えてしまうものなのだろう。スーツすら着ず身なりに執着していない、加えて記者という肩書の自分はどれだけ胡散臭い人間に見えるのだろう、とふと思った。
そんなとき、倒れている彼女の身体がピクリと動く。
「ん……」
ひときわ大きな呼吸音に、アーロンは反射的に持っていた名刺を懐に仕舞いこんだ。
「おい、大丈夫か?」
意識を取り戻し、起きあがろうとする女性に肩を貸す。ひとまずベンチに座らせると、彼女は不審と困惑が混ざったような目をアーロンに向けた。
「誰?」
「ただの通りすがりだ」
言外に、自分のことを詳しく語るつもりはない、と告げる。彼女もその機微を感じとったのか、アーロンから視線を外し、それ以上追及するような真似はしなかった。代わりに、重い沈黙が流れる。
「医者まで連れていこうか」
「結構よ」
なんとなく口にした提案は、ぴしゃりと断られた。アーロンのほうを一瞥すらしようとしない。さっさといなくなれ、という無言の圧力をひしひしと感じた。これはもう、ぐだぐだと話を引き伸ばしている暇はないと判断し、改めて彼女を見遣る。
「アンタが、男に暴力を振るわれてるのを見たんだが。なにがあったんだ?」
「なんでもないわよ!」
そう口にした瞬間、彼女の表情が一変した。黒い大きな瞳がアーロンを射抜く。
「なんでもないってことはないだろ。相手が逃げたからよかったものの、頭のイカれた男に襲われたんだぞ。警察に行くなりしたほうがいいんじゃないか」
焦った様子で辺りに散らばった私物を掻き集めはじめた女性に、アーロンは呆れの感情を前面に押しだし話をつづけた。
自分を含めた周りの人が警察に伝えることもできるが、ただ現場に居合わせ、わけもわからず気を失った人間の言うことよりも、怪我を負っている彼女の通報のほうが、まだ警察も聞き入れるだろう。
「あなたには関係ないでしょ! いいからほっといて!」
が、威圧的な態度できっぱり言いきると、荷物をまとめ終わったらしい彼女は脇目も振らず公園を出ていった。
現場には、呆然とするアーロンが残される。綺麗だと思った彼女の顔が敵意一色の鬼のような表情に変わったことに、存外気圧されたらしい。
二、三度目をしばたたいて、アーロンは我に返った。
今から通報しても、被害者がいないのでは話しようがない。気を失った経緯を話しても、精神異常者の虚言と受け取られるのが関の山だろう。
ただ、彼女が張りあげた声のおかげか、倒れていた人たちが次々に意識を取り戻した。はじめは
「ちょっと、聞きたいことがあるんだが。男が女に暴力を振るってるところ、見てないか?」
「暴力というか、言い争っているところは……話の内容までは聞こえませんでしたが、急に男性が怒りはじめて、そこからちょっと記憶が……すみません。いつの間にか、怖い夢を見ていたようで……」
「いや、ありがとう」
尋ねられた女性は、目をつぶり、眉間に深いシワを寄せ答えた。思い返すのも苦しそうなその表情に、アーロンは軽く制止して礼を述べる。そして、なにかあれば医療機関へ受診するよう言い含めて、全員を見送った。
ひとりになったところで、アーロンは大きなため息とともにベンチへ座りこむ。
「なにか気に障ることでもしたか……?」
『あの女にとってお前の顔がめちゃくちゃ腹立たしいほど論外だったんだろ』
愕然と項垂れているアーロンに、
『それより、さっきの男を放置すんのはマズいんじゃねぇの。もしかしたら、お前の仲間が言ってた連続殺人事件。あれの犯人だったりしてな』
「だから話を聞こうと思ったんだよ」
まさか、とは思うものの、それを否定する材料はない。連続殺人など精神に異常をきたしていなければ犯せない所業だろう。悪魔憑きはそれの最たるものだといえる。
表向きザミュエルの言葉を肯定しつつ、アーロンは舌打ちする。
まさか一言目から突っぱねられるとは思ってもいなかった。
『悪魔憑きが連続殺人犯で、それを取り逃がしたとあっちゃ、ヴォルフガングから大目玉食らうだろうなぁ』
「マスターが怒ってるところなんて見たことねぇよ」
なにやら胸を高鳴らせているザミュエルに、アーロンは唾を吐き捨てながら立ちあがった。
『追いかけんのか? さすがにまだ遠くには行ってねぇだろうが』
「闇雲に走りまわるのは趣味じゃない。協力を仰ぐ」
自分の足で走りまわって捜すよりずいぶん楽な
迷うことなく、職場である
日頃、そういった荒事を求めて駆けずりまわっている人間だ。
かつて磨いた足で稼ぐ技能も錆びついてきている自分は、もう敵いそうにない。人捜しという点では、彼のほうが
受話器から聞こえてくる音が、受付の女性の声から保留音に切り替わる。待っているあいだ、アーロンは懐から名刺を取りだした。自分のものではなく、先ほど公園で女性からくすねたものだ。
確証があるわけではないが、暴力を振るわれていた女性と、男には関係があるように見えた。男を捜すなら、彼女に訊くのが一番手っ取り早いのではないかとアーロンは判断した。だが、先ほどの様子だと、自分が尋ねてもまた突っぱねられる未来しか見えない。ここは、ほかの人間に任すのが得策だ。
しばらくの保留音のあと、しわがれた声が受話器から響いてきた。思わず他人が出たのかと困惑する。が、彼は帰社してから休憩室かどこかで仮眠をとっていたらしく、寝起きのせいで喉がひらいていないようだった。
サザーク区、ダリッジにいることを伝えると、怪訝そうな声が返ってきたが、そこで男が女性を暴行していた現場に遭遇したことまで話すと、電話の相手、ネイサン・ダンは瞬く間に元気を取り戻した。
彼もこの男女の諍いが、自身が追っている連続強姦殺人事件につながる可能性を考えたのかもしれない。
『けどさ、GDTの女なら、お前の知り合いじゃないの?』
「いや、見覚えがなかった」
『ふーん……まぁ話はわかったよ。オレがその、GDTのアンナ・ブリースっていう女に、男のことを訊けばいいんだな』
「悪いな。俺が捕まえられてたら、お前の手を煩わせることもなかったんだが」
『いや、そのテの事件はホットなネタだから記事にしやすいし、べつにいいんだけどさ。お前はどうするんだ?』
「俺はもう少し、周辺を捜しまわってみようと思う。あとは――」
悪魔憑きだと思われる男のことは放ってはおけない。だが、正体さえつかめば、いつでも確保に向かえる。そのときに、右腕のチェックもすればいい。
もともとダリッジまで来たのは、連続強姦殺人事件を改めて洗いなおすためだった。被害者の職場で直接、話を訊いてみようと思ってのことだ。最初に事件について調べたときには、警察の真似事のようで気が引け、行動に移していなかった。このままなにもせずにシティへとんぼ返りするよりは、その用だけでも済ませたほうが有意義だろう。
その旨を伝えると、ネイサンは電話越しに難色を示した。
『仮眠の前に文芸部に寄ったんだけどさ。文芸の編集長、お前がいないって烈火のごとく怒ってたぞ。またお前、やることやらずに出ていったんじゃねーの』
その言葉だけで、アーロンの脳内には怒り狂う編集長の姿がまざまざと浮かびあがっていた。正直に言って、怒鳴られるのは慣れたものだが、面倒だという気持ちは湧く。
『まぁ、きっと大きなスクープでもつかんで帰ってきますよ! ってフォローは入れといたけどさ』
「それ俺の首絞めてねぇか!?」
つづけざまにネイサンがさらりと言った言葉に、アーロンは素っ頓狂な声をあげた。電話ボックスの扉に背を預け、頭をガシガシと掻き毟る。そんなことならいっそ、今すぐに帰社して平謝りで土下座をしたほうがましだった。
これで特大ネタを持って帰らなければ、雷が落ちるどころの話では済まないだろう。
『とにかくこの件はオレに任せて、お前は仕事に戻ったほうがいい。一発デカいの持って帰れば、しばらくは編集長も静かになってくれるさ。そしたらまた好きに動けるだろ?』
「もうお前が切って落としてくれた火蓋は戻らないしな」
『そう怒るなって。ケツに火点けてやったんだから。お前が追ってる事件のことならともかく、関係のない事件なら、飯の種のほうが大事だろ』
それに、とネイサンは話をつづけた。
『オレからも頼みがあるからさ、こっちに戻ってきてくれよ。ウエストエンドにホワイトシープっていう喫茶店があるんだ。そこで待ち合わせ、頼んだぞ!』
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