5. 不気味な似顔絵 - Creepy montage -
ネイサンに言われたとおり、アーロンは男を捜すこともせず、美術館へ寄ることもなく、まっすぐウエストエンドに向かってバイクを走らせていた。
ウエストエンドとは、シティ・オブ・ロンドンの西側を占める、文化や芸能、流行の発信地として特に有名な一帯である。映画館や劇場、美術館といったたくさんの施設が存在し、ロンドンの中でも特に人出が多いエリアだ。
ネイサンに指定された喫茶店は、デフォルメされた可愛らしい羊のイラストが描かれた看板が目立つ店だった。
ドアを開け入店すると、ウエイトレスの女性が駆け寄ってくる。人を待ちたいということを伝えると、空いているテーブル席へと通された。
木の温かみが感じられる木造の内装で、その中で観葉植物の緑が映えている。なにより、ウエイトレスが出迎えをしてくれるという、喫茶店には珍しいサービスが目を引いた。アーロンが普段行きつけにしている喫茶店とはまた違った趣だ。
エスプレッソを注文し、一息つく。分厚い紙束が、帰りもバイクのメットインに押しこめられたことへの恨み言を吐きながら店内を舞っていたが、アーロンは存在そのものに気づいていないかのように無視を貫いた。
注文したコーヒーが運ばれてきたころ、豪快なエンジン音が外から聞こえ、そして店の目の前で止まった。眼鏡をかけた長身痩躯の男が、勢いよく店内に入ってくる。
「あぁ、待ち合わせ」
男はおっかなびっくりといった様子のウエイトレスにそう告げ、ひとりでテーブル席に座っているアーロンのもとにやってきた。
「遅かったな。ダリッジから戻ってきた俺のほうが早いとは思わなかった」
「悪い、ちょっと野暮用がな」
『よぉ、さっきぶりだな』
白い歯をこぼしながら、ネイサンは握っていたヘルメットを持ちあげて見せた。自急いで来たから勘弁してくれ、というつもりらしい。
聞こえていないとわかっていながら、ザミュエルが嬉しそうに話しかける。
「俺はアールグレイのブラックとジャイアントパンケーキね」
宙に浮かぶ分厚い本には反応せず、ネイサンは注文しながら対面に座った。
「食事に付き合う暇なんてないんだけどな。誰かがでっかい置き土産をパスしてくれたから」
「だから悪かったって。電話じゃどうにもならないことなんだよ。手短に済ませるからさ」
ネイサンの話に、アーロンは怪訝な顔をした。
ゴールデン・ドーン・シアターズに行って、アンナ・ブリースという女性から男について話を訊く。自分では門前払いされるかもしれないから、その役目をネイサンに負ってもらおうと考えた。
電話で充分役割のバトンタッチは済んだという認識を持っていたアーロンには、こうして顔を突き合わせなければならない理由が思い浮かばなかった。
「話を聞きだせなかったのは、お前のことだから失礼な態度をとったとか、顔が全然タイプじゃなかったとか、いろいろ理由は考えられるけどさ」
「後者はコミュニケーションに関係ないだろ。失礼な態度をとった……覚えもない」
「女の扱いなら、確実にオレのほうが上手いから、まぁしっかり話を聞きだせる自信はあるんだけど。万が一ってこともあるだろ?」
「お前は俺を貶さないと気が済まねぇのか」
「そしたらほかの劇団員に話を訊くことになると思うから、写真でもあったほうがいいと思って」
「あ」
ネイサンの軽妙かつ不躾な話に口を挟んでいたアーロンは、彼が手のひらを差しだしてきたところで固まった。彼が電話ではどうにもならないと言っていた意味をようやく察する。それがずいぶん間抜けな表情になっていたようで、ネイサンは失笑した。
「まだまだ記者の精神が染みついてないな。助けるより取り押さえるよりまずカメラ! くらいじゃないと」
「返す言葉もねぇ」
身をすくめるアーロンの肩を、ネイサンは笑顔で叩いてから、
「まぁ気にすんな。インスタントカメラでもなけりゃ現像に時間がかかるし。それよりは……今はこっちのほうが手っ取り早い」
がさごそと自分のリュックサックからペンと一冊のノートを取りだした。
「男の輪郭は?」
その一言で、アーロンは彼がなにをしようとしているかを察した。
丸顔で、短髪、色は黒、とおぼろげな記憶を辿りながら口をひらく。アーロンの言葉にあわせてスラスラとペンが走り、まっさらだったページに人の顔が描かれていった。
「どこでそんな技術を」
「知り合いの刑事に教えてもらった」
記者という職業にはおよそ必要ない技能に、アーロンは驚き半分感心半分で尋ねた。ネイサンは男の特徴を催促しながら答える。
途中、注文した紅茶とパンケーキが運ばれてきた。三段重ねになっている大きなパンケーキには、これまた大きな四角いバターが乗っかり、つやつやのメープルシロップがあふれんばかりにしたたっている。
ぐぅぅぅぅぅ――
できたての甘い香りが脳天に直撃し、食欲を揺り動かす。朝からなにも食べていないアーロンの胃は、当然のごとく空腹を訴えた。悪魔の咆哮のような重低音に、ネイサンは目を丸くしパンケーキにナイフを入れようとしていた手を止める。
「いや……悪ィ」
「なんだよ腹減ってんじゃねーか。しゃーねぇな、一枚やるよ」
とりあえずコーヒーで腹を満たし、あとで時間ができたときにがっつり食べようと思っていた。
そう告げようとしたときにはすでに手遅れで、ネイサンがウェイトレスの少女に取り皿とナイフ、フォークを持ってきてほしいと頼んでいるところだった。
『この野郎、テメェだけ旨そうなモン食いやがって!』
ザミュエルが声を荒げるが、アーロンはそれを無視する。
ネイサンの厚意を無碍にするのも悪いかと思い、もう半分は空腹とそれをくすぐる甘い香りに負け、分けてもらったパンケーキにかぶりついた。空気を
気を取りなおし、アツアツのパンケーキを口に運びながら、ネイサンは器用にペンを走らせはじめる。
順調かに思われた似顔絵作成だったが、次第にネイサンの表情が曇っていった。ことあるごとに茶々を入れてくる紙束を無視しながら、記憶をたどりそれを言語化することに必死だったアーロンは、ペンが走る音が聞こえなくなったことに気づいてようやく顔をあげた。
「これ……」
おそるおそる、といったようすで目の前に差しだされたノートに目を落とす。
「おぉ、まんまだ。そっくり」
「化物じゃねぇか!」
アーロンが言うままに描かれた男の顔は、これでもかというほど目を見ひらき、眼球はカメレオンのようにそれぞれあらぬ方向を向いている。口蓋を覗かせ、歯茎まで剥き出しになっている口からは唾液があふれ口もとを汚している、という、似顔絵にはおよそ必要のない要素まで丁寧に書き加えられていた。
無心で喋っていた言葉を、口を挟むことなく黙って絵にしてくれたらしい。よくこれだけ忠実に描画したものだと思いながら、
「こんな顔しか見てないんだよ」
と、アーロンは眉尻を落とした。
あまりにインパクトが強い部分だけを、脳が誇張して記憶してしまったことは否めず、耳や鼻などが実際に見たとおりだったかは定かではないが、記憶の中の男と似顔絵の男は酷似していた。対するネイサンは〝はぁ〟とため息をついて、自分が描いた絵とにらめっこをはじめる。
「そういえば、被害者のほうはGDTの人間なんだよな。なんでダリッジなんかにいたんだろうな?」
「さぁ。あの辺りは住宅地だし、家が近いんだろ」
ネイサンへ適当に返事をすると同時に、アーロンはひとついやなことに気がついた。昼間あんなところにいたということは、彼女は今日、仕事が休みということではないか。これから劇場に行っても、彼女に会える可能性は高くない。
そのことをネイサンに伝えたが、ネイサンはけろっとした顔で、
「劇場にいなくても、電話番号とか住所は確認できるからな。あと、今GDTは公演中だから夜が本番。昼間、外にいてもまぁ不思議ではない」
と、軽い口調で答えた。そして、パンケーキの最後のひとかけらを口に運びながらつづける。
「どうせ劇場に行くんだし、お前も一緒に行くか?」
目的地はアポロ劇場という、ゴールデン・ドーン・シアターズという劇団が本拠地にしている劇場だ。文化芸能部に所属しているアーロンが、普段からよく取材に行っている場所のひとつでもある。ゆえに、ネイサンも同行を提案をしたのだろう。
「……いや、邪魔になるかもしんねぇしやめとく」
アーロンの脳裏には、怒りに染まった女性の顔がよみがえっていた。初対面であれほど敵意を向けられた理由は未だに釈然としないが、自分が劇場にいることが情報収集の大きなリスクとなるのは想像にかたくない。
やはり、あの男について知るうえで、今一番の情報源は名刺の彼女だ。仕事をするうえで一番の情報源である劇場に行けないのは痛いが、むざむざ失敗する可能性を高めるような真似はしたくない。そもそも、そのためにネイサンを頼ったということもある。
「じゃあとりあえず行ってくるから、文芸ネタがあったら提供するよ。ギブアンドテイク、大事だろ?」
「こっちの情報も、進展があったら教えてくれよ」
ニヤリと笑うネイサンに、アーロンは釘を刺した。ネタの提供はありがたいが、悪魔憑きだと思われる男を放っておくのは忍びない。
「分かってるって。あ、これもらってくぞ」
手早くノートと筆記具をリュックに仕舞いこみ、アーロンがテーブルの上に出していた名刺を手に、ネイサンは喫茶店を出ていった。
ひとりになったアーロンは、すっかりぬるくなったエスプレッソを飲み干してから席を立つ。
「勘定を頼む」
コーヒー代を手に、ウェイトレスを呼ぶ。が、彼女はニッコリと笑って、
「お連れ様に支払っていただきましたよ」
と答えた。
予想外の返事に、少しばかりしどろもどろしながら、それなら、と握っていた金をウェイトレスに差しだした。
「チップとして取っといてくれ」
ぎこちない動きだったかもしれない。こういうとき、先に出た男ならもっとスマートに行動できるのだろうが、あいにくイタリア人じみたスキルは持っていない。
そそくさと逃げるように外へ出たアーロンは、耳が赤いとからかってきたザミュエルを先ほどの恨みもこめて思いきりぶん殴ってから、本業へと立ち返った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。