3. 悪魔の力 - The power of the devil -
ネイサンとの問答が二、三度つづいたあと、エントランスでのおしゃべりもそこそこに、彼は上へ向かうエレベーターへ姿を消した。
それを見送って、アーロンは会社をあとにする。歩きはじめてすぐ、軽快な口笛が響いた。首だけを背後にまわし、ギロリと睨む。
『ありゃあなかなかの曲者だな。オレにはわかる』
「なにがだ」
『あの男だよ。オレの好みだ』
思ってもいなかった返事に、アーロンはげっそりした。
「お前に男色の趣味があるとは知らなかったな」
『おいおい、オレを男だと決めつけんなよ。悪魔に性別の話をするのは野暮ってもんだぜ?』
「…………」
人工音声のようなフィルターがかった声。それにしては、人間以上に大仰な抑揚が目立つ声。そのちぐはぐさが、この苛立ちを生むのだろうか。いずれにせよ、これ以上会話をつづけるとこの紙束のペースになる。黒い本の声色が一段高くなったのを感じ、アーロンは無視を決めこむことにした。
はじめこそ、飯の種を探しに行こうかと思っていたアーロンだったが、ネイサンと話をしているうちに、刑事事件のほうへ意識が向きはじめていた。自分の仕事は、最悪やりようがあると考えて、ウエストエンドへ向かおうとしていた足を南へ向けた。
テムズ川を挟んで、シティ・オブ・ロンドンと隣接しているロンドン自治区のひとつ、サザーク区。その南部に、ダリッジという町がある。高級住宅地としても人気の高いダリッジには、約二百年前に建造された有名な美術館があった。その美術館こそが、二人目の被害者が勤務していた場所である。
ロンドン中心部から車で三十分ほど。
ダリッジ周辺は高級住宅地というだけあって、サザークを南下するにつれ緑も多くなり、タワーハムレッツとは比べものにならないほど空気が澄んでいるような気がした。信号に引っかかっても苛立ちは湧いてこない。尻に敷かれているシートの内側、バイクのメットインからは自分にしか聞こえない怒号が響いていたが、それを聞き流す余裕もあった。
「ちょっとなにするのよ! やめて!」
目の前の信号が青に変わり、バイクのアクセルをまわそうとしたそのとき。
フルフェイスのヘルメットを貫通する甲高い女性の悲鳴が響いてきた。
アーロンは反射的にバイクの向きを変え、路肩に停めてエンジンを切った。脱いだヘルメットを片付けようと急いでメットインをオープンした瞬間、黒い本が外へ飛びだす。
しまった、と思ったときには後の祭り。
『やぁっと外に出られた! おいアーロン、テメェずっと狭いところにオレを押しこみやがって! だいたい――』
耳障りな声でギャンギャンと喚きはじめた本を無視してヘルメットを片付け、アーロンは悲鳴の聞こえた方向へ足を向けた。
一瞬、無視してもよかったかもしれないと思ったが、身に沁みついた精神はそう簡単に抜けきらないものらしい。バイクも停めてしまったため、悲鳴の出所だけでもチェックしてみようと足を速める。
女性の悲鳴が聞こえなくなった代わりに、女の子とおぼしき子どもが泣き叫ぶ声が響いてきた。
場所は、四方を樹木に囲まれた小さな公園。普段は散歩中の老人が休憩をしたり、親子連れが一緒に遊んだり、人々の憩いの場として利用されているのだろう。だが、そんな光景は少しも広がっていなかった。
『なんだこりゃ』
黒い本が怪訝そうな声をあげる。
公園に立ち入って真っ先に目に入ったのは、いたるところで倒れている人々の姿だった。母親であろう女性が倒れているそばで、小さな女の子が大声をあげ泣き叫んでいる。
その異様な光景の中心で、ひとりの男がたたずんでいた。ネクタイにジャケット、センタープレスのあるスラックスに身を包み、バックル部分に四葉のクローバーの意匠があしらわれた茶色の革靴を履いている、身なりの整った男だった。その男が、気を失っているらしいひとりの女性の胸ぐらをつかみあげている。
「やめろ!」
アーロンは声を荒げた。突然の大声に驚いたのか、男はビクリと身を震わせゆっくりと振り向いた。
その顔に、思わず眉根が寄る。
男の口からは絶えずよだれがあふれ、眼球は焦点が合っておらず、しきりに頭をカクカクと揺らしていた。ひと目で正気ではないとわかる様相だ。
胸ぐらをつかんでいた手が離され、女性は地面に倒れこむ。顔面には殴打の痕が見てとれた。脳震盪を起こしているのか、その身体は小刻みに痙攣している。
『だいぶイッてやがるな』
「憑かれてるか?」
『さぁな』
ぼそりと呟いた本へ肩越しに尋ねるも、素っ気ない一言が返ってきただけだった。追及は諦め、アーロンはもう一度男を見遣る。改めて目視してみても、話し合いでどうにかできる段階ではないと判断した。
(まぁどちらでも、問題はないか)
この様子では正常な判断も、記憶の保持も難しいはずだ。今から起こることに、疑問すら抱かないだろう。
男に向かって人差し指と中指の二本指をまっすぐ突きだす。銃に見立てた指の先に、バチバチと弾ける白い球のようなものが浮かびあがった。
「
『お、おい!』
「〝
慌てた様子の本の制止も聞かず、アーロンは指先の力を解き放った。青白い雷の一閃が、男の顔面を掠め消えていく。
『オレの力を得た射手がこんな至近距離で外すかね。どんだけ酔ってんだ』
「わざと外したに決まってんだろ」
いきなり力を行使したことに驚いた直前とは一転、黒い本は嘆くように大仰なため息をついた。対して、アーロンは口を曲げて言い放ち、次は当てると言わんばかりに、二本指を構えなおす。自我が保たれているようには見えなかったが、本能的な部分で危険を感じ取ったのか、男はぎこちない動きで身を翻そうとした。
「逃がすか」
小さく呟き、狙いを定める。
「
指先から鈍色に光る鎖のようなものが数本射出され、意思を持ったような動きで男を縛りあげた。逃げようとしていたところで急に身体の自由を奪われたためか、男は勢いあまって転倒する。
アーロンは芋虫のように身を捩っている男の首根っこをつかみあげ、膝立ちにさせ向き合った。
「この状況、お前がやったのか?」
「悪イのはコノ女だ! コノ女が僕を裏切ッた!」
なんとも形容しがたい不気味な声だった。焦点の合っていない眼球がぎょろぎょろと蠢き、捲し立てるように喚く。
気味の悪さは当然として、それよりも男の口から飛ぶ唾に嫌悪感を示しながら、
「そういう事情は、警察にでも話すんだな」
と、アーロンはふたたび二本指を男の額に向けた。ジジッ、と空気が弾け、白い光の粒が指先に結集する。解き放てば、人体を貫通する
観念したのかと指をさげようとするアーロンだったが、男がなにやらブツブツと呟きはじめたため、手を止めた。男の表情は伺えない。が、どうせ意味のわからない言葉を並べているだけだろう。さっさと終わらせて、面倒な仕事に戻ってやる。
そんなことをぼんやりと考えていると、今までうつむいていた男が、急に顔をあげた。
「オマエハナニヲ見ル」
不気味な低い声とともに、蠢いていた両眼の焦点が戻り、はっきりと目が合った。これでもかというほど見開かれ血走った目に、微かな緑色の光が宿る。不気味な男の顔が脳に焼きつき、そして、視界が白く飛んだ。
× × ×
暖かな陽気と、頬を撫でる柔らかい風。
まどろむアーロンの感覚がまず捉えたのは、鼻をくすぐる石鹸の香りだった。
(ここは……)
ぼんやりとした思考のまま、周囲を見まわす。
どこにいるかはすぐにわかった。
きれいな、ゴミひとつない自分の部屋。リビングに置いてあるソファに座っている。
(あれ……俺は、バイクに乗って……)
部屋もここまできれいに片付いてはいないはずだが。
そんなことを思ったとき、視界の端にスカートの裾が映った。違和感は消え失せ、アーロンは反射的に視線を横にスライドさせた。
「あ……お、あ……」
艶のあるブロンドのショートヘアと、大きな灰青の瞳。絹のように白い肌。口もとにひとつだけあるホクロ。目の奥が、一気に熱を帯びる。甘い石鹸の香りが、一層強く感じられた。
「どうしたの?」
隣に座っている女性が、怪訝そうな顔をアーロンへ向けていた。彼女の手に手を添えると、人肌の体温が指先から腕を伝って昇ってくる感覚を覚える。
「エリー……俺、俺はずっと、お前に会いたかったんだよ」
胸が震えるとはこういうことか。
心臓が送りだす血流が全身を廻る感覚を、これほどまでに実感したことはなかった。彼女の姿を目に焼きつけようと意識するほど、涙腺から涙があふれ視界をぼやけさせる。
「もう、ちょっと。いきなりどうしたの」
「ごめん。俺、変だよな」
彼女は笑いながらも、困惑した様子だった。
恋人が急に泣きはじめたら、戸惑うのも当然だろう。アーロンは謝罪しながら、袖で両目を拭った。真っ暗な視界の中で、彼女の声だけが聞こえる。
「私も、アーロンに会いだがっだよ」
(え?)
透きとおるような彼女のソプラノの声に、ノイズが走ったような感じがした。
アーロンは咄嗟に涙を拭っていた腕をおろした。明瞭になった視界に飛びこんできたのは、胸に大きな穴が開き、大量の血を流しながら微笑む彼女の姿。
「わだじも、会いだがっだよ」
アーロンの口から、言葉にならない叫びが轟いた。
気づけば、暖かな陽気に包まれていた部屋が、暗くゴミであふれた薄汚い部屋に変貌していた。彼女の胸や口から流れる血は衣服だけでなくソファをも汚し、足を伝ってフローリングに赤い血溜まりを形成していく。
「アーロン」
彼女の肉体には赤い亀裂が走り、宝石のような結晶となって崩壊しはじめた。それに伴い、アーロンの視界を少しずつ暗闇が侵食していく。
やめてくれ。
とまってくれ。
そう叫んでいるつもりだったが、どういうわけか、喉が震えている感覚はあっても、自分の声は聞こえてこなかった。やがて、視界は完全に暗転し、彼女の声も聞こえなくなった。
どうして気づかなかったのか。
どうして舞いあがるような気持ちになってしまったのか。
意識を手放すまで、アーロンの感情は暗澹たる自責の念でいっぱいになっていた。
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