第14話
「大丈夫」
自分に言い聞かせるように深呼吸して、側にあるぽん太の頭に手を乗せた。早鐘のように打っていた心臓も、今は少し落ち着いている。迎えてくれた薫の、いつも通りの表情にほっとした。彼の人柄だろうか。
誠二の内心とは真逆をいくように、現場ではバランサーたちが配置について、息を殺すように待機していた。魔物のものと思われる音が大きくなるにつれて、痛いほどの緊張が場を支配していく。
「くるよ」
薫が静かにそうつぶやいたのが聞こえた。薫自身に向けたのか、誠二に聞こえるように言ったのか判断はつかないが、彼自身の集中力を高めていく。
その左手に誠二の目にも見える程の力が集まっていく。そしてそれは形を取り、弓となってその手の中に収まった。弦を引く動作は達人のようでブレがなく、整っているのに力強い。引き絞った空間には実体のない矢が出現する。
一拍。
轟音を立てて、鷲の門が崩壊した。魔物の巨体が地面を抉りながら滑り込む。横倒しのような姿勢で広場になだれ込んできた。
「先輩!」
その後を追うように刀片手に駆け込んできたのは見慣れた先輩の姿。元気そうな姿にほっとする。
魔物の目が誠二の声に反応して眼瞼の奥でぐるりと回転する。
だが、薫はその一瞬を見逃さなかった。カーンと高く鳴った弦音が、矢を魔物まで一直線に運んでいく。風切り音を響かせて光のように走ったそれは、寸分違わず魔物の赤眼に突き刺さった。
ここからが本格的な開戦だ。左サイドに布陣する部隊は、紋一郎が率いる。怯んだ魔物に体勢を整える時間を与えない。
「捕縛術、展開!」
低いがよく通る声。魔物の下、地面の上に不思議な文様の光が現れた。対照的に、光の中からは影のような何かが魔物に向かって伸びる。先端が魔物の腕、足、尾、顔面、それぞれを拘束する。ぐるりと巻き付いてその動きを制限する。起き上がろうとしていた魔物はまたも地面に倒れた。
「上手くいきましたね」
「おかえり。そうだね」
傍らに戻ってきた綾香と、魔物の動きを観察している薫が、短いやりとりをする。綾香は誠二の方を見て微笑んだ。
「無事みたいでよかったわ」
「先輩のおかげです」
綾香はふっと笑みを深めて、視線を外した。魔物に向き直った顔は、既に真剣な表情をしている。右手に携えたままの剥き身の刀を軽く振り、感触を確かめる。始まった本格的な戦闘に集中する見たいだ。
ここから先は、誠二には見守る事しかできない。囮として魔物を誘き出す段階は終了したから。
前方では、捕縛の成功を皮切りに術師と遠距離攻撃は始まっている。波状攻撃で、魔物の体力を削いでいくのが狙いである。それと同時に、薫には違う意図があるという。
薫は二本目の矢を放った。重力の感じられない一直線の軌道。実体のない矢だからこその飛び方。少しずつ再生し始めていた魔物の右目に寸分の狂いなく着弾した。
「思ったよりも再生が速いね」
「そうね……」
三本目を用意しながら薫が言葉をこぼす。
「どう? 真一の位置はわかりそう?」
「もう少しかかるかな。魔物自身の力をもう少し削がないと」
「わかった。じゃあ、私はお祖父様の加勢に行ってくるわ」
「うん、頼んだよ」
綾香はすっと頭を下げて、紋一郎の方へ走っていった。
捕縛術を展開したとはいえ、魔物も抵抗していないわけではない。攻撃を受け、怒り、激しく抵抗し、無事な目で狙いを定める。振り上げた右前足から拘束している影が外れ砂のように消えていく。そして術師がもう一度捕縛術をかけ直す。術のかけ直しが遅れ、自由になった尾が奥にいた術師の一団に向けて振り上げられる。その先端を綾香の刀が切り落とした。もう何度目かわからない魔物の咆哮。空気を振るわせるその声にすら、攻撃性があるのか、地上の文様が一部かき消えた。同時に影が何本か消滅する。
さらに拘束の緩んだ魔物は、自由になった頭をもたげ一番近くにいた術師一団を襲おうとした。
「結界!」
光が術師を覆う。半円状の薄青い防御壁が立ち上がり、その攻撃を防いだ。先頭に立つのは紋一郎だ。元頭領の実力は伊達ではない。拘束を中途半端に抜け出した魔物の攻撃では罅一つはいらない。
衝突の衝撃を受けた魔物を、綾香の刀が一閃する。つけた傷は浅いが、その勢いは、魔物を押し返すことに成功した。
紋一郎が弓を構える。こちらは薫の弓とは違い実体のある和弓。番えられる矢もまた同じ。しかし、その羽の模様は、誠二には見たことのないものだった。綺麗に放たれた矢は自由になっていた右前足に突き刺さるかと思いきや、地面の文様と連動するように光を放ち、再びその足を地面に縫い付けた。
捕縛術の修復が成り、魔物への波状攻撃が始まる。力の大きな魔物の体力を徐々に削っていく作戦だ。
「薫さま!」
「ぽん太、わかったかい?」
唐突に声を発したのは傍らに控えていた式だ。戦闘が始まってからは誠二を守るように隣に寄り添いながらも、ずっとその両目で魔物を観察し続けていた。つるりと滑らかな毛が、逆立ってぶわりと膨らんでいる
。
「はい! 主様は核の近くに! 左胸部のあたりでございます!」
「あそこか!」
薫がすっと視線をやった先。そこには奇しくも誠二の矢が刺さったままとなっていた。薫は思う。アレは偶然ではなかったのだと。血の絆が境界をも跨がせた一矢だったのだと。
誠二は眼光を強める薫を見ていた。そして彼が見ている方向を自分でも確認する。捕らえられた魔物はしかしなおもその活動を止めず、鋭い眼でこちらをにらんでいる。ひとたび術が解かれれば、先ほどのように暴れ出すだろう事は容易に想像できる。
「同化は?」
「少し……」
「……分離はできそうか?」
「おそらく」
「わかった。とりあえず、引き離すことに注力する」
「はい」
短いやりとりを終えると、薫の頭の中ではもう既に取るべき道筋が見えているようだった。控えていた人間に情報を伝え、各部隊に伝達させる。
先陣を切ったのは綾香だ。納刀からの抜刀は一呼吸置いて行われた。カチンと鳴った鍔鳴りから一拍。気合いとともに抜刀。鞘走る刀身は白い闘気をまとい、一閃。
誠二から見ると、刀身が伸びたようにも思えた。まっすぐに伸びた白い光が、魔物上体の右側を走り抜けた。
魔物の核とは、その魔物を構成するために絶対に必要な、人間にとっての心臓のような役割を果たしているという。魔物の急所だ。だからその近くは厳重に守られている。堅い殻で覆われ、並の攻撃は通さない。
が、それを突き崩すのが強強度の攻撃だ。
「綾香さまの一閃は、主さまの強化の影響も受け、個人による攻撃としては最大に近い火力を出すのでございます。その攻撃によって魔物の守りに罅を入れ、術を重ね合わせて削るのが主さま奪還における肝の作戦でございます」
ぽん太がけふんと鳴いて胸を張る。
この魔物を倒すにはまず、魔物が取り込もうとしている真一を取り戻す必要がある。真一は夜呼者で、魔物を強くする存在。真一自身が持つ『強化』の能力さえ取り込まれてしまったら、バランサー陣営が勝利することはとても難しくなってしまう。
だからこそ、一手目は真一の奪還。
綾香の一閃は確実にその外郭に罅を作った。綾香は一度距離を取って納刀する。誠二と薫のいるところまで下がってきた。
「アヤ、大丈夫?」
「後二回は」
大技は本人の体力を削る。綾香の息が上がり始めていた。
「うん、アヤはそっちに集中して」
「わかった」
弓を構えた部隊が攻撃を始める。先ほどまでの魔物の体力を削ることを目的とした攻撃ではなく、綾香のつけた傷にすべての攻撃が集中している事に気付く。着弾した箇所が黒から白に塗り替えられる。その部分は、魔物の再生が明らかに遅くなった。何らかの術で魔物の再生を押さえているのだ。綾香が次の攻撃を打ち込むタイミングを作るために。
薫の追撃が空を駆ける。
構えを取った綾香が膝に力を溜めた。瞬間他の攻撃が止む。
一閃。
「やったか?」
そうつぶやいたのは誰だったのだろうか。地面に力もなく倒れ伏した魔物の体が、地を揺るがした。静かになった広場に、効いたことのないような音が響く。
何かを引きずるような。引っ張るような。ねっとりとした何かを啜っているようにも聞こえるそれは、珍しく焦りを含んだ薫の声にかき消された。
「まだ死んじゃいない!!」
足下が揺らぐ。今までに感じたこのない揺れ。
「誠二さま!」
傍らに居たはずのぽん太が、少し離れたところに居るのを視認して違和感を抱く。
ああ、違う。これは揺れているのではなくて、何かに運ばれている。足下は暗い夜が広がっていた。魔物の一部。それが地中を伝って、誠二を捕らえた。
「木原くん!」
綾香先輩がこちらに向かって手を伸ばしている。だけどそれは届くことはなく、誠二の視界は完全に黒一色に塗りつぶされた。
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