第13話
少しずつ慣れてきた体術の授業。筋肉がついたのか、体力がついたのか、それとも体の動かし方がわかってきたのか最初の頃反応できなかった井波の動きに段々反応できるようになってきて、嬉しい。全身が心地のよい疲労感に浸っているようだ。
時刻は夜。護衛にと途中までついてきてくれる綾香にお礼を言って、誠二は帰宅した。綾香は家に帰るが、薫の言うことにはハザマの世界の同じ場所から、他の護衛が何人か常時ついているような状態らしい。
一介の一般人に護衛など大層なものだと最初は思っていたけれど、魔物の恐怖を知っている身からすると、安心につながる。
玄関の扉に手を掛けて、ふと思いついてくるりと反転すると一礼した。自己満足と言ってしまえばそれまでだが、一仕事終えたような気になって息を吐いた。
ただいまと玄関をくぐったところで、護衛の人たちはこれから仕事なのだと思い出して改めて感謝する。
明け方、ふと目が覚めた。夢を見ていたような気もするが、覚えていないからそれはいい。トイレに行きたいわけでもなく、寒さに目が覚めてしまった訳でもないので疑問も残るが、そういうこともあるだろうと気持ちを切り替えた。
冬の朝は妙に静かだ。いつもの起床時間よりも一時間ほど早い時間だが、もう一度眠る気にもなれなくて、リビングに行く。少し遅れて起きてきた母は、珍しいのねと感想をこぼしたが、それだけだった。朝食を食べて学校にいく用意を確認したけれど、まだいつもの登校
時刻には三十分も余裕があった。
「行ってきます」
「はい、気をつけて」
母の声を背に玄関を出る。門でジョギングから帰ってきた父とすれ違い、今日は早いなと言われながら見送られた。
冷たい風にマフラーを直す。ぎゅっと握った自転車のグリップ。信号待ちでその感触を訳もなく確かめる。ふと、上着のポケットに入れたスマホが震えているのを感じて取り出すと、そこには綾香先輩の文字。護衛に際して登録したその番号から電話がかかってきたのは初めてで、疑問とともに少しの嫌な予感も抱えながら通話ボタンを押した。
「はい、木原です。おはようございます」
「おはよう。突然だけれど、今日このままハザマの方にこれる?」
声が少しだけ焦りを含んでいるような気がする。おそらく誠二の間違いではない。彼女の声音に現れる感情はわかりやすい。それが電話でも。
「……何かありました?」
「少しね、予定が早まったの。魔物が動き出したという報告があって、何かある前にハザマの方に来てほしいの」
「わかりました。家は出ているので、あと十分ぐらいすれば着くと思います」
「ありがとう」
そう言って、先輩からの電話は途切れた。ホーム画面をうつすスマホをポケットに戻すと、誠二は目的地を鷲の門に変更した。
気持ち強めにペダルを漕ぎ出そうとして、その感覚は襲ってきた。
ぐらりと地面が揺れたような感覚。嫌な予感がして首の後ろ側がザッと音を立てて熱くなる。それなのに腕の鳥肌はとまらない。
色のなくなったような世界と、人のいない町。現世をモノクロコピーしたようなその世界は、ハザマの世界だ。知らないうちに現世とハザマの境界を跨いでしまったらしい。そして、結界のないハザマの世界には『魔物』が出現する。ハザマと常夜の境界を越えて、奴は見つけたと言わんばかりにその目を光らせた。
空気を振るわせる咆哮が静かなハザマの世界に轟く。
「結界!」
知らない声と、何かが割れるような音。周りを見渡せば、誠二の護衛についていたと思われるバランサーの人たちが札を片手に険しい顔をしていた。足音がして彼らが誠二と魔物の間に入ってくる。その数三人。もう一人が少し離れたところでどこかに連絡を取っていた。
境界の割れ目からずるりと出てきた魔物は、鋭い爪を振り抜いていた。おそらく、それを防ごうとして防御のための結界を張ったが、一瞬にして破られたのだ。強い。
さすが数ヶ月バランサーに討伐されずに生き残ってきた魔物。かつてこの魔物が常夜から出てきたのは最低でも三回。そのうち一回は腕だけだったがそれでも十分な強さを示して見せた。
「誠二くん! ここは食い止める! 城山に急げるか!」
「はい!」
返事をしたときには彼らは何枚もの結界をはる。でもそれは、魔物が腕を振るうたびに音を立てて割れていく。時間稼ぎにしかならないことは端から見てもわかる。
止まっていた移動を再開する。幸い自転車があるから自分で走るよりは速い。反転して漕ぎ出すけれど、背中のぞわぞわした感覚はついてまわった。後から結界の割れる音が鳴り響いている。
魔物は誠二の方に来るのを諦めていないらしい。焦ったような護衛の声。囮としての誠二の役割は十分すぎるほどで、魔物は執拗に誠二を求めている。
その時、一際鋭い悪寒がして、後から爪が迫っているのが『見えた』気がした。
自転車のハンドルをぐっと右に切る。雨だったら確実に転ぶ動きだ。左側を大きな何かが通り過ぎる。痛みはない。避けたと思った。
確かに直撃で当たるコースからは免れたけれど、自転車の後輪がその鋭い爪に捉えられた。
まずい。操作が効かない。転ぶ。
籠に入れていた学校鞄が飛び出して、同じように誠二も転がった。右肩をアスファルトに強打する。頭を打たなかったのは幸いだ。勢いよく放り出されたせいで、自転車が上に倒れてこなかったのも幸運かもしれない。体術の訓練で受け身をとった記憶を、体が覚えていた。
立て、次の攻撃が来る。
自分にそう言い聞かせる。
その場から飛び退くと、地面がえぐれた。
視線をあげる。赤い瞳とかち合う。こちらに見せつけるように、地面に刺さった爪をゆっくりと引き抜いた魔物。纏った『夜』がとぷりと滴った。
走る怖気に一気に鳥肌が立つ。どこまでも残忍な魔物の性質を垣間見たようで、気分は最悪だ。こいつに対する対抗手段が、逃げる事しかない。誠二は戦えない。護衛についていた人たちは、一時的に攻撃を防ぐ手段しかない。そんな状況で、ハザマの世界に入り込んでしまった。
薫は、誠二とこの魔物の間にあるものを、縁といった。血のつながった兄を取り込むことで、魔物は常夜にありながらハザマに来てしまった誠二の居場所を感知してこうして境界を越えてきたのだろう。だからたぶん綾香先輩や、薫はバランサーの結界の中でしか、誠二の自由行動をさせなかったのだろう。
誠二自身も魔物の執着がこれほどまでだとは思わなかった。心底いらない縁である。
迫ってくる爪を避ける。
攻撃は大ぶりで、予想がしやすいのは幸いだ。
「結界!」
時折誠二に届きそうな攻撃は、バランサーの術が止めてくれる。そちらの妨害には目もくれず、執拗に誠二を狙ってくるところを見るに、誠二の囮としての働きは一級品だが、体力は確実に削られる訳で、衝撃に気付いたときには意識の外にあった魔物の尾が誠二を捉えていた。
「う、あ!」
魔物の体長の半分以上を占める尾は、誠二を捉えたまま魔物の口元に持って行く。
口内をぐるりと取り巻く歯の並び一本一本まで鮮明に見える距離。ねっとりと熱い息づかい。死の恐怖が間近まで来ていた。
風切り音がする。遅れて光のような一線が誠二のすぐ近くを通過した。
「ここは柔らかいわね!」
「先輩!」
ストレートのポニーテールがひらめく。
「一本よ! あなたの好きにはさせないわ」
魔物の拘束が緩み、地に足が着く。切断された魔物の尾は、断面から順に黒い灰になって消えていく。
「ぽん太!」
「はい! ここにおります!」
「木原くんを頼んだわよ!」
「心得ております」
綾香は一度納刀すると、居合いの構えをとる。彼女に着いてきていたぽん太は、そのマスコットみたいな体を一瞬のうちに大きく転じさせた。
「誠二さま、お怪我は大丈夫ですか?」
「うん、動けるよ」
「ようございました。さ、時間がございませぬ。ワタシの背に乗ってくださいませ」
「わかった」
大きくなったぽん太は大型二輪バイクよりも一回りほど大きな姿だ。人一人乗せて移動するのは造作もない。前方では構えを解かず、魔物を注視している先輩。誠二に電話を掛けた後、異変を感じて駆けつけてくれたらしい。心の中では先ほどまでの恐怖と、先輩への感謝が渦巻いている。
ぽん太の背中に乗って、先輩を振り返った。
「会話は後よ。全部終わってから」
「はい。また、後で……」
その一声を最後に、ぽん太は誠二を背中に乗せて掛けだした。最後に見た光景は、強敵が現れてなお誠二を見ている魔物と、それを食い止めようとするバランサーの人たち。護衛であった三人は魔物の攻撃で消耗している。ところどころ目に見える傷跡もある。綾香は、先ほど尻尾を切って見せたが、他の部位は堅いのか、苦戦している。
知らず知らずのうちに、ふわふわのぽん太の毛並みをぎゅっと握り混んでいた。いつもはおしゃべりなぽん太は、今は静かだった。
*
魔物の出現を感知して数分。藤間薫は、姪の綾香を応援に向かわせて、作戦行動の本格準備のため、結界内に待機していた。鷲の門の内側にある広場が、作戦の実行場所に選択されたのは作戦を立案してすぐのことだった。
いつもは現世との境界に使用している鷲の門は、その接続を切ってある。万が一にも現世に魔物を放ってしまわないための配慮だ。本当は誠二と合流してから行うつもりだったが、急遽作戦が早まってしまった事と、誠二が本人の意思とは関係なくハザマに来てしまった事が重なって、先ほどその作業を行ったところだ。
誠二が勝手に境界を越えるのはもう二度目になる。いや、『矢だけ』が境界を越えてしまったことを含めると三度目だ。つくづく彼はハザマと縁がある。本人が不本意だと思っていたとしても、そううまいことはいかないらしい。兄の真一の件もあるし、あの兄弟には何か並々ならぬものがあるのかもしれない。
頭の痛い話だ。最初から関わらせたくないとか言っている場合ではなかったのかも。薫は周りにわからないようにため息をついた。
「計画立ててもなかなか上手くは事が運ばないのが現実か」
時間的にはそろそろだろう。
果たして、バランサーの待機する広場に、誠二を乗せたぽん太が現れた。
「すぐに来るぞ! 用意!」
号令を掛けたのは紋一郎だ。薫とは対角線上に位置取り、周りの者たちに指示を飛ばす。その出で立ちはいつもの着流しだが、袖は動きやすさを重視して襷でくくってある。
薫は彼らの準備が整ったのを確認して、側に寄ってきたぽん太の頭を労いを込めて撫でた。目を細めてその手を享受する仕草は、マスコットサイズの時と変わらない。
「誠二くん、大丈夫だった?」
「はい、どうにか」
受け答えをしながら、彼の全身を一見する。ひどい怪我はなさそうだ。でも、余裕のなさもうかがえる。無理もない。上着の右肩は転んだのか、擦れた跡がついている。憔悴した表情が痛々しい。
「綾香たちは大丈夫だよ。心配いらない」
「ありがとう、ございます」
震えている声音。綾香と護衛を置いて、自分だけこちらに来たことが、囮としては必要であったと理解しながらも、心が納得し切れていないのだろう。気負いすぎる親友の弟に、少しだけ兄の奔放さを分けてやりたい。あれは目先の事に全力で、あまり後悔をしない男だった。
「落ち着いた?」
そう言えば、彼は無理矢理にでも冷静さを取り戻そうとする実直さがある。目の前の少年は、小さく深呼吸すると、幾分かいつもの調子に戻った声音で「はい」と返事をした。
遠くから大きな音が響いた。地を割る地鳴りの音もする。魔物は近い。現場に緊張が走る。
薫もその気配を感じながら、己の術を発露させるために、闘気を練る。
誠二は『囮』としての役割を十二分に発揮してくれた。ここからは我らの領分。魔物を屠るために、このハザマの世界を守るために、そして親友を取り戻すために。やっとここできた。
「くるよ」
苛烈な内の心を冷静な殻で覆って、今日ここで決着をつけるのだ。
真一――。
友に対する独白を零して、薫は顕現させた己が弓を引き絞った。
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