第8話


「誠二さま!」


 ぽん太が間に割り込む。


「触らせません!」


 小さな足で踏ん張ると、ブワッと毛を逆立てた。迫ってくる黒い手が、何かに阻まれたように弾かれる。


「どうですか!」

 やってやりました、という顔は、それでも険しい。

「走ってくださいませ! 早く!」


 ハッとして、誠二は足を動かしたが、砂を踏んでいるようにおぼつかないのが自分でも分かる。

 足がもつれる。うまく回っているのか怪しい。魔物は腕しか見えず、どうやら本体は結界の内側に侵入できないらしい。

 再び襲ってくる魔物にぽん太が牽制をかけるが、吹き飛ばされる。


「ぽん太!」

「ワタシに構わずお逃げください!」

「……っ!」


 隙間をこじ開けるようにして近づいて繰る腕は、誠二に迫る。すると、制服のポケットに入った何かが光った。それは薫に渡された鈴だった。一度攻撃を弾いてくれると、彼はそう言っていた。その言葉通り、鈴は内包した術を展開し、誠二の身を守る。魔物の腕がひるんだように思える。それと同時に、鈴は誠二の居所をバランサーに伝えるという役割を果たした。

 攻撃がやんだ隙に魔物から距離を取る。早鐘のように響く心臓の音。嫌な味の唾をかろうじて飲み込んで、再び足を踏み出そうとした。


「応援が来ます!」


 傍に戻ってきたぽん太が叫んだ。後方からぐんと伸びてきた光が、視界の端を通って魔物にぶつかった。

 魔物の咆哮。境界の割れ目からくぐもった声が響く。内蔵を寒くするような声だ。


「やりました! 怯んでいます」


 光の矢の出所をみると、三人。絢香と薫、そして手で印を結んだ男。

 絢香が刀を抜いて駆け出す。薫の手には和弓が握られている。矢は持っていない。ギリギリと弦を引く。まっすぐにこっちを狙っているのに尻込みする。魔物と薫の間に自分がいると、自覚して焦る。

 そんな誠二のシャツの襟を誰かが引っ張る。


「誠二さま! こちらです!」


 大きな獣からぽん太の声が聞こえる。唖然とする暇もなく、体はぐんと横に引っ張られ、誠二は地面にころがった。

 弦音が響く。

 矢は一条の光、流れる星のようだ。魔物にあたって、その力を大きく削いだ。薫が見た事もない真剣な顔をしている。眉をしかめて、横の男に指示を出す。


「結界の修復を」


 男が頷いて手と口を動かす。なんと言っているのかまでは分からない。

 魔物との距離を詰めた絢香は、腕の付け根に向けて刀を振るう。骨まではいかないが、三分の一ほどの深い傷をつける。


「そのまま押し返すよ」

「はい!」


 再びの弦音。薫から何かがぶわりと広がったのがなんとなくわかった。

 重い咆哮がきこえて、侵入していた腕が消える。ぽっかりと空いた空間は、布を閉じ直すように修復された。


「立てるか」


 呆然とみていると、腕が差し出された。薫だ。彼はとても冷静だった。閉じた境界を見る目には笑顔がなく、それだけで怒っているようにも見える。

 誠二には何が起こっているのかわからなかった。ただ、状況に振り回されていただけで。

 ぽん太がいつのまにか元のサイズに戻って、心配そうにこちらを見ていた。その頭を撫でる。きゅっと細まった目に愛嬌がある。


 土ぼこりで制服が汚れている。差し出された手を、少し戸惑いながら取る。

 グッと強い力で引かれて、立ち上がった後にたたらを踏んだ。

 絢香先輩は納刀して、消えていく空間をじっと見つめていた。小さく何かを呟いたようだが、誠二の耳までは届かない。


「説明させてくれるかな」


 静かな薫が少し怖い。擦りむいた手のひらが今になってじくじくと痛みを訴えていた。

 戸惑う誠二の心情を察してか、彼の眉が困ったと言うように下がった。 板間の部屋にいる薫と誠二。綾香は事後処理に残り、相談役の男は姿を見せなかった。誠二からは気まずくて声をかけられない。沈黙を破ったのは薫で、真面目な顔で頭を下げた。


「結界内は安全だと言ったのに、危険な目に遭わせてしまってすまなかった」


 渡されていた鈴の効力もあり、結果的に無事であったとはいえ、魔物に襲われたのは事実だ。案内役につけられたぽん太がいなければ、誠二は今ここにいなかったかもしれない。恐怖は残っている。


「いえ、助けてもらいましたから」


 しかし、そのことで彼らを叱責するのも違う気がした。結界の仕組みは誠二には見当もつかないが、魔獣が制御できない存在であることは知っている。あの時、魔獣が狙っていたのは間違いなく誠二で、薫たちはそれを助けてくれたに過ぎない。

 文句は、口にするべきではない。

 誠二は太ももの上で、両手を軽く握り混んだ。


「そうか。それならいいんだけれど。こちらからも、何点か説明させてほしいことがあるんだ」

「何でしょう」

「誠二君が結界内を回っている間にわかったことを、伝えておこうと思ってね」

「わかりました」


 そう言って、誠二は背筋を正す。「現世に住む君には、理解しづらい事もあるかもしれないが聞いて欲しい」と薫は前置きして話し出す。


「まずは君がハザマの世界に来てしまった事について。秋のある日、誠二君は境界をまたいで、こちら側の世界に来てしまった。これが一度目。このことに関しては、おそらく偶然だろうと、私たちは考えてる」

「偶然ですか?」


「そう。境界を無意識のうちにまたいでしまうという事象は、確率は少ないけど、すべての生物、物質に起こりうることなんだ。これは体質がどうとかではなくて、境界の構造がそうなっているからだ。たまたま境界が薄いときに、人がそれを越えてしまうことで、現世から人がハザマに迷い込んでしまう」

「神隠しとも言うんでしたよね」


「そう。そして、二回目。これは君の矢が世界を跨いでしまった現象。君自身が境界を越えたわけではないが、綾香はから聞くことには、君と目が合ったと言っていた」

「そうです。はっきりと見えたわけではないですが、驚いている先輩がこっちを見ていたように思います」


「うん。間違ってないよ。これに関しては、君の弓具を調べさせてもらったことで、説明がつけられるようになった。一回目の時、君はこちらの世界で弓を使っただろう?」

「はい。弦音を鳴らしました」


「おそらくその時だろうね。弓にわずかにハザマと、常夜の気配が残った。その後、部活で弓を引いたときに、近くに魔物がいることで反応し、放った矢が魔物に届くように作用した。最後に、これは誠二君には申し訳ないんだが、この矢が届いてしまったことで、あの魔物が、誠二君を攻撃対象として認識してしまった。今回襲撃してきた魔物はあの時の魔物で間違いない」

「どうして同じ魔物だとわかるんですか?」


「実はあの魔物は我々とは因縁があってね。奴の気配は特殊で、近くにいればわかるようになっているんだ。それに個体としても強力だ。今回も追い払っただけだから、また襲撃してくる可能性が高いだろうね」


 薫はそう言うと、苦い表情を見せた。


「すまない、こちらの事情に巻き込んでしまって。誠二君には改めて被害が及ばないように、護衛をつけることになるだろう」

「いいえ、元々は偶然が元で起きたことでしょう? 襲われたことに説明がついて、むしろすっきりしました」


 わからないままというのが一番もやもやする。説明がつかない事象が自分の身の回りで起きているのは嫌だ。


「もう少し責められても仕方ないと思っていたのだけれど……」

「え?」

「何でもないよ」


 薫はこっちの話だよ、と首を振った。護衛の件は誠二の方からも頼んだ。聞けば、その護衛の人たちは現世の方ではなく、ハザマの世界の同じ場所に居て、境界に変化がないかどうか見張るということだそうだ。


「現世では、そうだな。誠二君は弓道部だから、アヤがちょうどいいんじゃないかな?」

「ちょうどいいって? え?」

「だから、いくらハザマの世界に護衛を置くと言っても、やっぱり誠二君の周りの変化を感じ取れるように、人を置かないといけないと思っていたんだよね。学校内と、下校時間ぐらいはアヤが適任じゃないかなって」


 ほら、学校って部外者侵入禁止だから、と補足して薫はにこやかにそういった。


「アヤはどう思う?」


 誠二の後ろの扉に声をかけると、すらりとそこがあいて先輩が入ってきた。


「異論はないわ」

「え、そんなあっさり」


 突然の登場にも驚いたが、頷いたことにも驚いた。


「ほら、アヤもそう言っていることだし誠二君も自分の身を守ると思って。よろしくね」

「あ、え、はい」


 本人が同意している手前、護衛してもらう対象としては同意するしかない。


「決まりだね。詳しいことが決まり次第また連絡させてもらうから、今日のところはこれで」


 そういった薫の方には、誠二にはもう用はないようだ。困惑の中にいる誠二が、入り口に立っている綾香を振り仰ぐと、「送っていくわ」退出を促された。

 そうではないのだ。


「後で報告よろしくね」

「わかっているわ」


 薫を見る先輩の視線が、少し鋭いような気がしたが、再び誠二に合わせられるときには、それもなくなっていた。

 部屋を辞し、少し後ろについて歩いていると、綾香は歩調を緩めて横に並んだ。こうして、並んで歩くのは初めてかもしれない。ハザマの世界では、誠二を先導するようにいつも先輩は少し前を歩いていた。前を歩いていると大きく感じる身長も、横に並ぶと自分よりも低いのがわかる。肩のラインが、握り拳一つ分下にあって緊張する。


 そんな誠二を観察するように見て、先輩は視線を行き先に戻すと、口を開いた。少しためらうようなそぶりを見せた彼女。


「少し聞いてもいいかしら」

「どうぞ」

「薫兄さんの手前、言わなかったけれど、どうして私たちを責めなかったの?」

「え?」

「魔物に、襲われた事よ。結界内は安全だと送り出して、結果的に危険な目に遭わせて、非があるのはどう見てもこっちの方でしょう?」


 いつもの自信も陰って見える。反射的に「そんなことない」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。少し落ち込んでいるように見える先輩に、簡単にそう言っていいのかという考えが誠二の口を閉ざした。考えている誠二に、先輩は言葉をつなぐ。


「関わらせたくはなかったわ、本当は」


 先輩は誠二に「関わるな」と言う。その心の内は、知らぬものがハザマの世界に踏み込んでくるなと言うことかと思っていたが、彼女の本当の気持ちは別のところにあるのかもしれない。


「魔物が危険なのは私たちが一番よく知っているもの。あなたには私たちを責める権利がある。魔物と相対して恐怖を覚えない人はいないわ」


 知らない世界。知らない生き物。

 彼らハザマに住む人たちは、魔物を狩る。境界を越えて、人を襲うそれを駆除するのは、彼らの仕事で。そうする事で、現世と常夜との『境界』を守っている。

 目の前に来た魔物の爪が誠二に届いていれば、今頃自分はこの世にいなかったかもしれない。確かに恐怖はあった。思い出そうとすれば震えが来る。どこか非現実的だった世界が、自分の生命の危機とともに、急速に恐怖をもって追いかけてくる。


「怖いです」


 気付けば、そう口にしていた。


「そう、よね。怖くないと言われたら、心を持っていないんじゃないかって疑ったところだわ」


 軽口のような言葉の中に、不安が混ざっていた。どうしてだろうと純粋に疑問に思う。そんな感情が表に出ていたのか、彼女は苦笑した。


「木原君をからかっている訳じゃないの。昔ね、現世からハザマの世界に移り住んだ人が居たの。でもその人は、ハザマの事、魔物の事をよく知らなかった。一緒に居たい人がいて、その人についてきただけだから。彼はあるとき知ってしまった。ここが現世よりも何倍も危険で、恐ろしいところだって。彼は普通の人だったから、人並みの恐怖心を持っていたわ。いつも不安と戦っていたけれど、限界が来た。一人で抱え込んで、抱えきれなくなったとき、彼は何も言わずここから去ったわ」


 ひどく感傷のにじんだ瞳に、先輩が語るその人は、先輩にとって大切な人だったのだとわかった。ハザマの世界は彼女にとっての故郷で居場所だろう。その世界を詳しく知るほどに、恐怖し、その人は去ってしまった。どれほど近くに居た人かはわからないけれど、その人が近ければ近いほど、心の痛みは大きい。


「自分の感情を表に出さない人は、周りの人がどれだけ心配しても手をさしのべられないの。そんなの信頼していないのと同じよ。むかつくわ。今もあなたが『怖い』と言わなければ、張り倒していたところよ」

「え……」

「嘘よ」

「……」


 ふいと顔を背けた先輩に、誠二は疑いの視線を向けた。どこまでが冗談なのだろうか。


「だから、少しほっとしたわ」


 現世との境となる鷲の門まで送ってもらって「じゃあまた明日」というと、きょとんとされた。なんだその表情は、どういうことだろうか、と考えたところで、彼女は眉をしかめた。

 怒っている。


「忘れたの? わたしはあなたの護衛!」

「あ……」

「家まで送るわ。少しぐらい危機感を持ったらどうなの?」

「すみません」

 そう返すしかなかった誠二は、そのままきっちり家の前まで送ってもらったのだった。


 *


「魔物に狙われる、か」


 薫は部屋の中でつぶやく。魔物が結界内に入ってきた原因を探っていたが、どうしても一つの結論に行き着いてしまう。式の札を手元でいじりながら、内心で頭を抱えた。


「それは、強引でしょうに」


 誰にともなくつぶやく。


「……薫様」

「ん? どうした?」


 自分の名前が呼ばれた方に顔を向けると、そこには見慣れた式。タヌキのぬいぐるみみたいなそれは、複雑な表情をしていた。眉はハの字を描き、口元は何かを言いたそうにもごもごと動いている。

 普通の式はこんな表情を絶対にしない。なぜなら、作り出した主の命令を忠実に実行するための道具でしかないからだ。命令内容によってその形すらも変わる。一つの命令が終われば、式を一度消す者もいる。


 しかしぽん太もある意味は、主の命令に忠実なのかもしれない。

 彼はあの頃、友人のような、家族のような存在を望んでいた。寄り添える体温のある存在を。


「今日のことか?」


 そう聞いた薫に、ぽん太は頷いた。


「ワタシはあるじさまの命を果たせるのでしょうか? 今日の一件で、難しいのではないかと思えてならないのです」

「誠二くんの事か」

「ワタシは、彼のことを守れたのでしょうか?」

「当然だ。ぽん太の働きがなければ、俺たちは間に合わなかっただろう。ぽん太は俺たちが来るまでの時間を稼げたし、それは、守れたということじゃないかな?」

「そうだといいのですが」


「そうだとも。何もぽん太だけに過剰な使命を押しつける事はしないよ。バランサーとして、共にこのハザマの世界を守る者として、今日のことはよくやったと褒めこそすれ、決して何もできていないと糾弾するつもりはない」


 シュンとした犬のように耳が垂れ下がっているのを見て、薫はその頭をよしよしと撫でた。ふさっとした尻尾がぱたんと床をたたく。力なく、持ち上げたまま重力に任せて落としたような振り方だ。


「俺もぽん太と同じ事を約束したからね。一緒だ。それに、あいつは君に命令したんじゃなくて、お願いしたんじゃないかな? 『守ってくれ』ってね」

「どうして……」

「わかるさ。あいつは命令するのが苦手だからね」

「そうでしたね」


 タヌキは力なく笑った。


「しかし、それだけではないのです。ワタシはあるじ様の式です。どうしても大事なのは、一番に優先するのはあるじ様のことです」

「知ってるよ」

「だから、考えてしまったのです。あの方の協力があれば、あの魔物をおびき出し、あるじ様を取り戻すことができるのではないかと」

「そうか」


 薫も考えなかったわけではない。あの魔物をこちらの有利におびき出すためには、誠二を囮に使うのが一番可能性が高いのではないかと。彼を目の前に、そう思った。そう思ってしまった自分が嫌になった。ぽん太の気持ちは痛いほどわかる。


 友には守るといった手前、約束を破ることになると、自分を律した。しかし、初めて顔を合わせた誠二より、十年共に過ごした友の方が大事だと、思ってしまう。

 父の顔を思い出した。使えるものは使えと、薫に言う。まだ頭領として未熟な心が、焦りを感じている。


 調査の報告を聞かなければ、詳細はわからないが、今回の一件、必ず父である紋一郎が動いている。彼はバランサーの職務を第一として考える。おそらく、使えると判断したら、誠二を巻き込むことに、何のためらいも感じないだろう。そして、結論は出てしまっているはずだ。どうにかしてその状況で、誠二の安全を守る策を講じなければならない。


「どうしたらいいのだろうね」

「できるならば、あるじさまと誠二様を会わせてあげたいです」

「そうだね」


 誠二の安全か、友の奪還か。

 タイムリミットは少しずつ近づいている。

 薫はぽん太の頭をもう一度撫でる。タヌキは人に話してほっとしたのか、少し緩んだ表情を見せた。


 考え続ける必要がある。何が最善か。自分にとっての願いと、大切にしたい約束と。

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