第3話 兄
「誠二、お風呂入れてー!」
「はーい」
一階から聞こえてきた母の声に返事をして、勉強の手を止める。といっても、ノートを広げたもののやる気がなくなってしまって、シャープペンを持ったままぼーっとしていただけなのだが。
自分でも思う、気のない返事。
重い腰を上げて一階に降りていくと、母は食器を洗っていた。夕食後に観ていたドラマがひと段落ついたようだ。
「誠二先入る?」
「いや、後でいい」
マッサージ機に座っている父は寝ているらしい。読みかけの新聞が太ももの上で、バサバサになっていた。
「父さん起こす?」
「そうね。でもお母さんがお風呂出た後にするわ」
「わかった」
リビングを通り過ぎて、洗面所へ。お風呂のお湯はボタン一つでできるが、先に洗わないと。
シャワーを出して、スポンジでこする。お風呂の蓋をガラガラと締めて、給湯器の湯沸かしボタンを押した。
再びリビングに戻ると、母のお皿洗いは終わっていて残りのドラマを観ていた。お風呂にお湯の溜まる音がリビングまで聞こえてくる。
「すぐ入る?」
「うん、もう少ししたら」
「おっけー。俺部屋行ってるけど。空いたら教えて」
「わかったー」
通り過ぎようとしたリビングに、ふと、写真を見つけた。家族四人が笑顔で写っているそれに、懐かしさと、少しの胸の痛みを覚えた。
二階に上がると、ちょっと考えて廊下の小さな扉を開けた。隠れた書棚になっていて、中にはあまり読まなくなった本や、着なくなった服が入っている。その一角に、アルバムが整理されて置いてある。誠二は背表紙をひと撫ですると、一冊引き抜いた。
「これかな」
探しているのは兄ののった写真だ。十年前の写真。その時誠二は五歳で、兄の真一は十三歳だった。八歳離れた兄はなんでもできるように思えた。手を引いてくれるのは兄だった。
適当なページを開くと、公園の緑をバックに二人で並んでいる写真が目に入った。よく遊びに行っていたところだから覚えている。山を中心にした公園で、元々お城があったところをそのまま公園にしているから、結構広い。公園の中には小川が流れていて、ザリガニが釣れる。春にはおたまじゃくしが池の中を泳ぐ。
小さな水路の上に設けられた遊歩道は木製で、歩くと靴の音がなる。誠二はそれが好きだった。走っては、兄が捕まえにくる。捕まえられて二人で笑う。
思い出が蘇る。懐かしく柔らかなそれは、しかし十年前のあの日に突然終わってしまった。
十年前。兄がいなくなったあの時は、家族での久しぶりの外出だった。家族のプチ旅行。夏の日。普段両親は忙しくてなかなか家族旅行なんか行けないから、その代わりのわがままだった。
県内の大きな川を遡って、川原が広がる場所でバーベキューをしたのだ。
誠二と真一はその準備をする母と父の傍らで遊んでいた。水の方に行こうとする好奇心旺盛な誠二を兄が止めて、水辺から離れたところに行こうとしていた。
真一は少し目を離した瞬間に、目の前から消えてしまった。少なくとも誠二にはいきなりいなくなったようにしか思えなかった。原因なんてわからない。色々な言葉を知ってから、『神隠し』なんじゃないかと疑うようになった。でも、現実世界で起こりうるのか。そんなものは小説の中の空想なんじゃないかと。ずっとそういう思いがつきまとった。
兄が居なくなって、すぐに捜索が始まった。警察も来た。子供が水辺で消えたこともあって、下流まで調べる大事になった。母は泣いていた。父も母を支えていたが、内心は恐怖や焦りがあったに違いない。周辺は家族で探した。できる範囲はほとんど見たと思う。警察は人員を使ってもっと大きな範囲を調べた。しかし、そんな活動の甲斐なく、兄が見つかることはなかった。誠二は暗くなるまで行われているそれを、明かりのない車の中から一人で見ている事しかできなかった。外には出してもらえなかった。「どこにも行くな」と言われ、誠二は後部座席で小さくなる事しかできなかった。
あの時の無力感は、いつになっても忘れない。
アルバムをめくる手を止めて、誠二はため息をついた。思い出しただけで心が重たくなる。封印して忘れたいのに、そうはさせてくれない。
兄が居なくなって一年は地獄のようだった。今はどうだろう。十年も経って、兄がいないことが普通になってしまった。思い出さない時間が増えた。その事に負い目を感じる。
「兄さん……」
「誠二ーお風呂出たわよー、ってあれ?」
呼ぶ声にはっとして振り向いた。母が髪をタオルで乾かしながら階段を上がってくる。アルバムを見ていることは丸わかりだ。気まずい。
母が押し黙った。なんと声をかけていいかわからない。兄に連想して思い出すのは母の泣き顔だから。
「それ、久しぶりに見たわ」
彼女は近付いてくる。思いの外、柔らかい声に意外だと思った。
「どうしたの、固まって」
「あんまり見ない方がいいかと思って。ごめん」
「どうして謝るの。お兄ちゃんの写真でしょ? 怒らないわよ。それに」
それを見て顔を思い出すと、最近は安心するのだと、母は言った。
「たしかに昔は思い出すだけで辛くなったけどね。今は忘れる方がつらいから」
聞けば、誠二の知らないところで、たまに眺めているという。いつの間に。こっちは気にして触りもしなかった。家族の悲しそうな顔を見るのは本意ではない。
「今でも誠二が気にしているのはわかってるけどね」
母はそう言ったが、そのあとの言葉は続かなかった。
誠二は母の悲しそうな顔を思い浮かべる。十年前の思い出。父の表情は覚えていない。ただ、母に寄り添っていた。
一人になった車の中で何を思った?
そうだ。夏が終わる前に遊びに行きたいと言ったのだ。誠二が、両親に頼んだのだ。だから、今でも誠二は思う。
それがなければ、兄はいなくならなかったんじゃないかって。
黙ってしまった誠二をみて、母はお風呂冷めちゃう前に入ってねと声をかけて、階段を降りていった。
十年間の後悔が胸を焼く。
****
後悔があろうとなかろうと、次の日はやってくる。学校もある。日常が感情を飲み込んでいく。
金曜日だ。ホームルームの早く終わった誠二は、足早に部活に向かう。全員が集合する前に、少し練習しておきたかった。
弓道着に着替えて、道場に入る。神棚に一礼して靴を脱ぐと、足を踏み入れた。
道場の中央では昨日もいた安田先輩が、ひらひらと手を振っていた。気に入られた気がする。ぺこりと頭を下げると近寄ってくる。
「今日も早いな」
「ホームルームが早く終わったので」
「お、俺もだ。って、木原より早いんだからわかるか」
はっはっはと大口を開けて笑う。後ろからうるさいよと別の男の先輩に叩かれていた。彼は須賀先輩。安田先輩とはよく一緒にいるところを見る。雰囲気が柔らかく話しやすそうに見える。
「ごめんねこいつ大きな声でしか喋れないんだ」
「何言ってる。そんなことない」
「あ、木原くん。こいつのことは気にせずに練習してね」
「無視するなって」
「あ、射形見ようか?」
「え、あ、えっと、お願いしてもいいんですか?」
「いいよいいよ。部活始まるまでは暇だしね」
「おいって」
「ありがとうございます」
スルーされた安田先輩はわかりやすく拗ねた。それをはいはいと宥められる。気安い関係でいいなと、少し羨ましい。
結局二人に弓の引き方を見てもらって、部活が始まった。
最近は少しずつ中るようになってきて嬉しい。的に向かうのは、ただ自分の技術を磨く事を考えればいいから好きだ。綺麗に引こうとそれだけ。中るか中らないかはその時々だが、何が悪いのかを考えて、修正してよくしていく。反省と修正の繰り返しでとてもシンプルだ。
弓道は四本持って的に向かう事を立(たち)といい、ひと立に五人が組みになって引く。部活ではそれを五回繰り返す。それが一日だ。少なすぎても練習にならないし、多すぎても今度は疲れて射形が乱れ、練習どころではない。
誠二は三立目の結果を見て、修正点を考えると、四立目の準備をした。五人中真ん中。一年生は矢が乱れやすいから、壁に近い一番前の大前(おおまえ)や一番後ろの落(おち)はまだやらせてもらえない。実際的前に入ってすぐ矢が大きく逸れて、自分のではない的に当ててしまったことがある。先輩たちには誰もが通る道だと言われた。他の一年生の何人かも同じことをしているところを見た。
壁に当たると矢がダメになる場合もあるから。誠二自身も確実に的周辺に当たるようになるまでは大前や落ちで引くのは怖いと思う。
三本引いて、当たったのは一本。二本は的の下にずれている。前の人が打ち終わって、誠二は引き分けに入る。眉のところで少し止める。あの時はここで離れたんだった。矢は番(つが)えていなかったけれど。
今日も藤間先輩は来ていないが、離れと叫んだ声を耳が覚えている。矢の位置が眉を通り越す。肩甲骨を寄せて、体の真ん中から弓を分け引くイメージ。弓を押す左手から、弦を引く左手の肘がちょうど一文字を描くように引いて引いて引いて。
先輩が離れといった気がした。
弦音が鳴って、矢が飛んでいくのが見える。ブレはない。これは当たると訳もなく思った。綺麗に引けたと体で感じた。だが、的に当たる音は聞こえなかった。矢は空中で、かき消えた。矢道の途中。
誠二は目を大きく見開く。他の人の目にはまさしく矢が消えたように思っただろう。でも、誠二の目には一瞬別のものが見えた。正しくは、別の世界が。
黒い大きなものが弓道場の矢道を塞いでいて、そいつの体に誠二の放った矢は当たった。
――魔物だ。
魔物は苦悶の表情を浮かべ、赤い目が痛みの原因を探すように動いた。そして、世界が誠二の目に映らなくなる刹那。藤間先輩が驚愕の表情でこちらを見ている気がした。
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