第2話 思惑と日常と
*
六畳ほどの板の間に、男が二人静かに座っている。壮年の男性と、二十代半ばに見える青年。壮年の男は着流しの和服に羽織を着ているのに対して、青年の方は、ジーンズにカーディガンとラフな格好だ。和風の板の間に座っているのが違和感でしかない。
空気が動いて、青年の正面の引き戸がすらりと開く。紺色の靴下に、青みがかったプリーツスカート。左手に刀を持った女性が入室する。
「失礼いたします。報告に参りました」
「どうだった」
と聞いたのは年嵩の男の方だった。
藤間綾香は刀を右に置いて正座する。
「落ち人は木原誠二。弓道部の後輩でした。途中魔物と遭遇し戦闘になりましたが無事撃退。彼には他言無用と伝えて、いつも通りに現世に返しました」
小首を傾げて、青年が口を開く。
「アヤ、彼がこちらに落ちたのは偶然だと思うかい?」
「どういう意図か聞いても?」
「そのままの意味だととらえてもらっていいよ」
「私は、今の時点では判断できないと思います」
崩れたスカートの裾をさりげなく直す。青年は綾香が話し始めるのを待っていた。
「ただ、心のどこかで、偶然では無く必然を考えてしまう自分がいます。現世の人を容易に巻き込んでしまうのはどうかとは思いますが」
「そうだよね」
考えないわけがない。彼がこちらに関わりを持ってしまったことで、膠着した状態が動いていく予感と共に、胸の奥はざわざわと落ち着かない。昔の事と思おうとして、失敗して、刀の鞘に括られたキーホルダーを握り込む。
「ありがとう。もう大丈夫だ。あとはお父さんと話し合うよ」
「はい。では、失礼します」
「気にやまないでと、言っても難しいだろうけど、あまり思い詰めないようにね」
「はい」
青年の心配そうな顔を最後に、綾香は部屋を後にした。壮年の男はその間表情を変えることなく、静かにそのやりとりを聞いていた。
*
川辺で男の子が二人遊んでいる。一人は高校生。お兄ちゃんだ。もう一人は小学校に入るか入らないかぐらい。小さな両手には、川辺でかき集めたさまざまな形の石がのっている。上流と中流の中間あたり。川に遊びに来るのは家族連れが多く、大きめの駐車場が設けられている。男の子たちの少し離れたところにはバーベキューの準備をする両親がいる。離れてはいるが、絶えずどちらかが目線を向けていた。
小さな方の男の子が、兄に言う。川の中に魚がいる、と。
動くものになんでも興味を示す年頃だ。兄は弟が川に近づきすぎないよう目を光らせておいてと、母に言われている。冗談のように言い含められたその任務を忠実に実行していた。
兄は弟にこっちの方が面白いと、岸から遠い草むらを示した。
ちょっと立ち止まった弟は、魚と草むらを交互に見て、トンボが居るよと言う声に、兄の方に行くのを決めた。
魚が跳ねる音に聞き耳を立てて満足すると、兄の方を振り向いた。
「お兄ちゃん?」
振り向いた先。弟を見守っていた兄は、どこにもいなかった。
*
季節は秋からすこしずつ冬に変わろうとしている。冬服の制服の下に、学校指定のカーディガンを着込むようになった。まだコートを着る人はいないが、マフラー姿は登下校中にチラチラ見る。学校の帰り道に肉まんを買って帰りたい季節。ほかほかのそれは格段においしく思えるのだ。
誠二の所属する弓道部は一つ大会が終わって、二年生主体の部活に慣れてきた頃だった。秋口に的前で弓を引かせてもらえるようになった誠二は、大会には個人戦で出場したが、八射中二中。予選で敗退という結果に終わった。大会の緊張感だけ味わえたから良かったと思っておこう。味わったと言っても、大会中も不思議な世界のことが脳裏をよぎって、集中できなかったが。
藤間先輩は、八射中四中。彼女も本選には出られなかった。
あの日の出来事は現実だったのだろうかと。季節の巡った今でも思う。しかし、彼女の言うところの『現世』に帰ってきた時、左手のひらに走る痛みで確かに現実だったのだと思った。それは転んで擦ったところだった。
三時間目の授業を受けながら、誠二はぼんやりと傷の治った左手を眺める。用をなしていないシャーペンが、机の端っこにコロリと転がっていた。
教壇には男の先生が立っていて、チョーク片手に話している。生物の授業だ。
窓の外にはちょうど弓道場が見える。誠二の一〇一の教室からは、部活棟二階にある弓道場がよく見える。早く放課後にならないかなと考えて、木曜日だったことを思い出した。木曜日は弓道部が自主練の日なのだ。通常の四射ずつ順番を守ってする練習とは違い、ひとりひとりが好きなように練習して満足したら帰る。来るもよし、来ないもよし。途中で帰っても何も言われない。まさしく自主性に任せた練習だ。一年坊主が休んでもとやかくは言われないが、誠二は弓を引くことが好きだ。退屈な授業が終わって早く弓道場に行きたいなあと思った。
チャイムと共に一日の全ての授業が終わって、掃除、ホームルームが終わったら教室に用はない。授業の内容は半分も頭に入っていなかったが、テスト前に勉強すればなんとかなるかな。
少し弓を引いて帰ろうと弓道場に顔を出した、何人か練習を始めているのを横目に、挨拶を済ませる。制服でそのまま練習する人も多い中、誠二は律儀に弓道着に着替えて参加する。一階の更衣室で袴姿に着替えて、いらない荷物を置くと、二階の道場に戻ってくる。
入り口近くのロッカーに貴重品を収めると、代わりに弽(ゆがけ)とノートを取り出した。自分用に作ったノートには今までの記録が残っている。書き込まれた前日の改善点を眺めて、ノートはそのままロッカーにしまっておいた。
「お、木原。来たんだ」
「安田先輩。お疲れ様です」
「お疲れ様。木原は出席率が高いからよく会うな」
男の先輩が声をかけてきた。短い髪は日に焼けて茶色がかっている。快活そうな笑顔が似合う。そう言う彼も、よく練習には参加している。自主練日だって休んだところを見たことがない。話しかけて満足したのか、安田先輩は練習に戻る。矢を二本持って的前に入った。決してがっちりはしていないが、芯の通った引きをする。引きしぼられた弓が離れて弦が手の甲の方に返ったのを見て、自分もと準備をする。弽をつけると、二本持って的前に入った。
一本目。打ち起こした動作から、肩甲骨を使って引き分ける。肩の力は抜いておく。
「右手力入ってるぞ、木原。矢が曲がってる」
「はい」
呼吸合間に返事をする。矢が曲がっているということは、親指が内側に入りすぎているのか。引きは緩めないで、右手の角度を少し調節する。そのまま離れ。残心。矢は的より少し右下に外れていた。右手ばかり意識して、弓を持つ手が最後に緩んでしまった。
両手を腰に戻す。
「惜しいな」
「ありがとうございます」
コメントして自分の練習に戻る先輩に軽く頭を下げる。
二本目は弓手を意識しすぎて、矢は的の下にずれた。
難しい。
的前を離れ、ノートに記録を取ると、三十分くらいの間、的前で引いて、その後は巻藁での練習に切り替え、射形の確認をした。
的前だと的を意識しすぎて、まだ綺麗な射形が保てないのがもどかしい。狙いをきちんとつけても半分もあたらない。
その間、男の先輩は八割方的中させていた。すごい。一年経てば、自分もあれくらいになっているだろうか。
引き分けに入っている先輩を見ながら、片付けをする。弽を外して、弓から弦を外す。的周辺の矢が多くなってきたので、頃合いを見て、矢取りに入る。
「矢取り入ります」
的の真ん中に先輩の矢が刺さっていた。
矢先についた土をタオルで拭いていると、先輩が話しかけてくる。
「木原は熱心だな」
「そんなことは……。俺は経験者じゃないので、練習しないと」
高校から弓道を始める人は少なくない、とはいえ中学からの経験者も当然いるわけで、練習で同じチームに入る度に、経験の差を思い知らされる。
「確かに経験者は強いけどな。木原は射を良くしようって気持ちが強いからな、絶対に上手くなるさ」
矢立に回収してきた矢を入れるガシャガシャという音。先輩の言葉はかき消されることなく、誠二の心に残る。
「そうだと嬉しいです」
「素直でいいことだ。あとはもうちっと自分の評価をあげられたら満点だな」
にかっと笑った先輩が肩をポンポンと叩く。ぺこりと頭を下げて、お疲れ様でしたと挨拶する。ひらひら手を振っているからもう一度頭を下げて、弓道場から退室した。
足音の響く外階段を降りて、一階の更衣室で制服に着替える。練習していたのは一時間ぐらいで、帰宅するには少し早い。
気になったことがあった事を思い出し、足は駐輪場ではなく、図書室に向かう。
城東高校の図書室は一階にある。十七時までだからあまり時間は取れないが、気になる本を少し眺めるくらいはできるだろう。
中は生徒も少なく、しーんとしていた。学校司書の女性がカウンターの中で何か作業をしている。入って右側に書棚があって、右手壁側は文学系。中央あたりが理系の難しそうな本があって、目当ては日本文化のことだから左側だ。
『神隠し』について、なんてそんな本はあるのだろうか。日本書紀、古事記について。和歌について。日本史。ざっと表紙を眺めてみたが、パッとするものはなかった。思いつきで来てみてもダメか。元々期待していたわけではないけれど、ため息がでる。膨大な本の中で、どうやって自分が知りたいことを探すのか誠二にはわからなかった。図書館初心者が手を出してもどうしようもなかった。
結局眺めているだけで時間は過ぎ、数冊手にとってパラパラしてみたものの、目が滑って内容は入ってこなかった。十七時になって追い出されるように図書室を後にする。
駐輪場一階で自分の自転車を拾う。あの日、返しておくと言った先輩の言は、正しく実行されたようで、月曜日に登校してみるときっちりいつもの駐輪スペースに、自転車は返ってきていた。中学校から使っている銀色の自転車。
どうして置き場所がわかったのかという疑問はある。
タイヤを転がして校門を出る頃には外は真っ暗になっていて、そろそろ冬だなあと当たり前のような感想を抱いた。
今日も藤間先輩には会えなかった。
秋の大会が終わって、藤間先輩は部活をよく休むようになった。元々熱心に部活に参加していたわけではない。他の先輩に聞いたところ、家庭の事情で度々授業も休むことがあるのだとか。
黒髪のポニーテールが揺れている様を思い出す。彼女は今この瞬間もどこかで戦っているのだろうか。境界を挟んだ向こう側で。
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