世界のハザマに落ちてから

桐坂

第1話 はじまり

 心臓が早鐘のように鳴っている。知っている場所なのに、知らない場所のよう。

 その日、その場所は、いつも見る景色より色がなく、人の居ない静かな世界になっていた。

 これは、そんな世界の境界を越えた日から数ヶ月の間に起きた現実の話。


 *


 秋の夕方。夏休みが終わってしばらく経つが、相変わらず気温は下がらず、季節は夏を引きずっていた。

 雨上がりの大きな空には雲がまばらにかかって、隙間から見える空にはオレンジ色が滲み始めている。そろそろ夕焼けが綺麗に見える時間になるだろう。誠二は、そんな時間と友に変わりゆく空の表情が好きだった。


 レザー袋に入れた弓が天を突くみたいに伸びている。背負った矢筒が自転車の揺れにあわせてがしゃがしゃと鳴った。


「もう少し、持って帰りやすいといいんだけど」


 部活紹介で一目惚れして入部した弓道部は、自分によく馴染んだけれど弓具の持ち運びが難しいのが難点だと、入部半年にして思い知った。和弓は大きく、その長さは優に身長を超える。車に入れるのも一苦労だし、自転車で持ち運ぶのにはバランス感覚が難しい。加えて転んではいけないという責任感と緊張感にも襲われる。何もない直線の走行や、信号で止まる数秒がありがたい息の抜ける時間だ。


 さて、ここからは少し気合いを入れないといけない。信号を渡ってすぐ目の前は橋だ。大きく傾斜を上る必要があるけれど、立ちこぎをする訳にもいかない。信号の向こう側でゆっくりと歩き出そうとするおじいさんが、今だけは羨ましい。


 そんな事を考えている誠二の心を読まず、機械的に信号は青に変わる。慎重にペダルをこいで、ゆっくりと坂を上って、そのペダルの重さに苦戦しながらも「ああ、ようやく後は下りだけだ」と気を緩めて空を眺めたところで、誠二は違和感に気付いてしまった。

 見上げた空には色が着いていなかった。


 必死で自転車を漕いで、下を向いていたからすぐには気付かなかった。目を一度瞑って、もう一度開く。自分の目がおかしいのかと思って、瞬きを繰り返すも、その光景は元に戻ってはくれない。モノクロ写真の中に迷い込んでしまったような感じを覚える。


 あたりを見渡すと、そこにも違和感を見つけた。人が居ないのだ。車もない。振り返ったらまだゆっくり信号を渡っているはずのおじいさんの姿を見つけられなかった。


「なんだよこれ」


 色もなく、人もおらず、車も通らず、加えて聞こえるはずの信号の音もない。視界だけがおかしいのではなくて、この周囲の景色そのものが現実から乖離したような気持ち悪さがあった。

 心臓が早鐘を打ち、経験したことのない不快感に、自然と汗が流れる。


 このまま、家に帰ってもいいのだろうか、来た道を引き返した方がいいのだろうか。立ち往生していても改善される気配のない状況に、思考は散在し、誠二はその気持ちを一旦落ち着かせるために立ち止まることにした。


 自転車を欄干近くに寄せると、スタンドをたてて、握っていた弓を立てかける。辺りを見渡してもう一度景色に変化がないことを確かめると、眼下の川をのぞき込んだ。そこに映っていたのは自分と、青い空。


「えっ」


 上を見上げると灰色の空。水にだけ色がついている。もしかしたらこの川に落ちたら全部今見ている事が夢で、現実の世界で目が覚めるかもしれない。そんな考えがふと頭をよぎったが、大きく頭を振ってその思考を打ち消した。そんな度胸はないし、確信もないことを実行できるほど勇気があるわけでもない。


 木原誠二は、どこまで行っても平凡な男子高校生だった。この春一年生として入学したばかり。特に運動能力が優れている訳でもなく、頭がよいわけでもない。とっさの機転で今の状況をどうにかできるほどの策は持ち合わせていなかった。


「どうしよう……」

 そんな言葉が口から出る。

「夢、じゃないよな……」


 小さく腕の皮をつまんでみたが、きっちり痛みがある。

 誠二は欄干から体を離して、足下の水たまりをのぞき込む。雨上がりにできたそこにも同じように青い空が映っていた。途方に暮れて水たまりの青空がうらやましくもあって、そこに手を伸ばしたその時。


「何してんのよ!」

「え! わあ、ごめんなさい!」


 びっくりした。

 突然の大声に肩が跳ね、しゃがんでいた体勢が崩れる。


「いてっ」


 とっさに手をついた右手のひらを、コンクリートで擦りむいて痛みが走る。反射神経がなんとか仕事をして、水たまりに突っ込まなかったからよかった。

 でも、なんで自分は怒られたのだろう。バランスの悪い体勢を一旦地面に座ることで落ち着かせる。覗いた右の手のひらには赤い擦過傷ができていた。血は出ていない。水で流して消毒しておけば、数日の内に消えてなくなるだろう。


 それよりも今は誠二を驚かせた声の主だ。若い女性の焦ったような声だった。


「ごめんなさい。とっさのことだったから、驚かせてしまって……。立てる?」


 鋭いトゲのような声から一転、謝り、こちらを心配する言葉と、差し出された手をたどって顔を上げると、そこには知っている人物がいた。


「藤間先輩……?」

「え、木原くん? なんで……」

「藤間先輩こそ、どうして」


 見慣れた同じ高校の制服のスカート。チェック柄に一方向に向いたプリーツに、青みがかった独特の制服。誠二の通う県立城東高校の制服に間違いない。


 顔を上げるとそこには、先程部活で一緒だった、藤間絢香先輩の姿があった。彼女は一つ上の先輩で、弓道部の部員だ。家の事情もあって部活に毎日参加しているわけではないが、大会前は顔を出すことが多く、最近の練習ではその姿をよく見かけていた。今日は家の都合で休みだったはずだけれど、どうしてその彼女が部活の終わったこんな時間に学校周辺にいるのだろうか。


そして、もっと大きな疑問点は彼女の腰になぜかささった一振りの日本刀。和服ではないのでその鞘はベルトで固定されている。


「どうしては、こちらのセリフよ。なんでこんなところに……」

「こんなところって……」


 誠二はそう言いながら先輩の手を取って立ち上がる。擦った手のひらが少し痛かった。礼を言って荷物を背負い直し、ズボンの土埃も払って怪訝な顔をしている先輩を見た。


 そんな表情をしながらも先輩はこの場所について違和感を持っていないようだった。そう言う表情を読むのは、昔から得意だった。誠二の存在に驚きながらも、彼女の立ち居振る舞いによどみはなく、不可思議な状況に放り込まれた人間のそれではないように思えた。


 先輩のポニーテールが、強く吹いた風になびく。観察しているのは向こうも同じようで、誠二を注視していた目が、ふっと逸らされた。

短く息を吐き出した先輩はスマホを取り出すと、画面をみて、制服のポケットに突っ込む。


「その様子だと、突然こっちに落ちてきたって感じね」

「こっち?」

「そう、ハザマの世界。ここがいつもの場所と違うっていうのはわかる?」

「はい、人も居ないし、車もないし、それにここには色がなくて、なんだか別の世界みたいです」


「そうね。その感覚は正しいわ。ここは現実の世界と重なりつつも現実とは異なった世界。ハザマの世界よ。あんまり説明するつもりもないけれど、ここは現実世界と隣り合わせの別の空間と認識してくれたらいいわ。あなたが生活している『現世』とはまた別の世界なの。たまに自然発生した境界の穴から入ってくる者がいるのよ。あなたみたいにね」


 先輩はすっと、誠二が最初に覗き込んでいた水溜まりを指さす。


「水面なんかは穴が開きやすい。でも、触らないでね。その境界が現世に繋がっているとは限らないから。さっきみたいに手を伸ばすなんて論外よ」


 つまり、今いるところは、彼女のいうハザマの世界というところで、現実世界とは別らしい。そして、誠二は帰宅途中にたまたま世界を跨いでしまった、と。

どういうことだ。


「境界っていうのは……?」

「世界と世界の間にある壁よ」


 簡単にそう説明して、先輩は質問を終わらせた。それ以上は踏み込めないような気がして、誠二も口を噤む。


「さて、あんまりおしゃべりしてる時間はないし、そろそろ移動するわよ。あなたを現世に得返すことが私の今の仕事で、あなたはここから現世に安全に戻ることが仕事だから」


 誠二の自転車を一瞥すると、先輩は少し首を傾げる。


「弓、弦を張っておいた方が良さそうね」


 大会前で、弓は持っているけれど、普段持ち帰る時は弓袋に入れて、弦は弓に軽く巻きつけてある。出しなさいと催促する先輩に従って慌てて弓を取り出し、先輩の力も借りて、弦を張っておく。弦と握りの間は十五センチほど隙間があって、これで引ける状態になった。


「自転車は置いときましょう」


 四苦八苦しながら、自転車のハンドルを握ろうとすると、そう言われた。自転車は後で回収しておくそうだ。スタスタと歩き始める先輩を追って、残してきた自転車を振り返る。中学校っから愛用している自転車だ。しばしの別れと心の中で合掌した。


「どうして弓を?」


 小走りで先輩に追いつくと、誠二は質問する。先輩はなんでもない風に答えた。


「弓を引いて離したときに出る音を、弦音つるねと言うのだけれど、弦音は神事にも使われるわ。その音に魔を祓う効果があるの。いざとなったときは、肩幅くらいまで引いて、離せば少しは効果があるわ」

「あの、何に?」


 そう聞くと彼女は少し考えた。


「悪い物に、よ」


 悪い物とはなんだろう。

 これから何が起こるかはわからない。不安はあるが、あんまり不安に思ってもしょうがないと、波だった感情を努めて心の内側に閉じ込めた。

 先輩は黙々と歩く。誠二はそれについていくが、沈黙だけの空間は長くは続かなかった。


 しばらく歩いていると、空間からぴきりと音が響いたのだ。先輩は学校で見せるクールな表情を歪ませて、舌打ちした。


「やっぱり」


 らしくもない。いや、もしかしたら本来の先輩は、こんな性格なのだろうか? そんな疑問が去来する。

 先輩が、腰の日本刀をすらりと抜き放つ。本物を見るのは初めてだ。真剣が光る。


「何もできないでしょうが、心構えはしておきなさい」


 先輩は何が来るとか言わなかった。ただ、音のした場所を鋭い目で睨みつける。ふた呼吸ほどして、空が縦に割れ始める。太い枝を折ろうとするような不快な音はずっと響いていた。見え始めた向こう側は暗い。電灯のない夜のような暗さに息を呑む。亀裂からは異形のモノが姿を現した。形は獣に似ている。全体的に黒い色。目だけがぎょろりと不気味に光る。赤い色だ。


「魔物よ」


 先輩がそう言った。彼女はその異形――いや、魔物をすでに、敵として認識している。それが当たり前のように刀を構えて臨戦態勢をとる。


 先輩が抜き身の刀を下段に構えて走り出す。魔物はこちらを認識していたのか、空間の亀裂から抜け出すと、地面に降り立った。先輩が切りかかった刀軌跡が、白銀の線を描く。魔物が一歩早くその場所から飛び退いた。しかし、先輩の刃も届いていたのか、黒い靄のようなものが飛び散った。魔物と先輩の背後で、亀裂がじわじわと元通りになり、月のない夜のような空間が、見えなくなっていく。


「かすっただけね」


 すかさず追撃する。次は魔物が反応しきれずに深くえぐる。が、先輩は険しい顔だ。


「かたいわね……」


 誠二は先輩のブレスレットが光るのを見た。先輩が深く息を吐く。魔物が警戒を深めるのを見た。四足の足が、地面を踏みしめている。いや、あれは飛びかかる前触れだ。先輩が一呼吸遅れる。魔物は戦える先輩より、誠二の方に狙いを変更したようだった。赤と視線が合う。身が震えた。


「木原くん!」


 先輩の声が聴こえた。


「弦音を!」


 そうだ。見ているだけじゃなくて、自分にもできること。

 先輩が、視界の端から走ってきて、魔物を牽制している。一直線にこちらにむかってきていた魔物は、ほんの少しコースを変えて向かってくる。その少しの余裕に、誠二は弓を打ち起こした。これで何が変わるのかはわからないけれど。


「ほんとにこんなんで……」


 愚痴のようなつぶやきが漏れる。だが、必死だった。

 打ち起こした弓を引き分ける。いつもより重く感じる弓力。狙いは定めなくてもいい。矢は番えていないから。しかし、目は魔物にしっかりと狙いを定めて、肩甲骨に力を入れる。右手が眉の辺りまで降りてくる。素手で握っている弦が、指に食い込んで痛いほどだ。


「離れ!」


 鋭い先輩の号に、誠二は引く力をそのままに右手を離した。ビィンと音が鳴る。空気を裂くような音。魔物は身を強張らせた。音に怯んだ。

 先輩はその隙を的確に突いた。ブレスレットと同じ光を淡く纏った刀身が、魔物を口から真っ直ぐ横薙ぎにした。まさしく一閃。


「常夜に帰れ!」


 魔物は塵と化して、一閃に吸い込まれ、何事も無かったかのように消え失せた。

 一瞬に緊張感。張り詰めた糸が切れて、誠二は尻餅をつく。弓が地面に転がって、コンクリートの上で鈍い音がした。いつもは絶対に粗雑には扱わないのに、そんな事を気にして至れるほど、心の余裕がなかった。

 チンと納刀した先輩が、よくやったわと、労いの言葉をくれる。


「帰りましょう。現世に」


 見下ろした彼女から手が伸びてくる。すみませんと断って、その手にすがるように立ち上がった。


「大丈夫?」

「なんとか」

「顔色が良くないわね」


 俯いていると先輩が覗き込んできた。気恥ずかしく思いながらも、彼女を見返すと気づく。目線は、彼女の方が少しだけ下だった。その彼女に、今まさに助けられた事を実感した。

 なんだこの世界は。そう思うが、先輩があまりにも普通にしているから、誠二はどう言葉を発していいかわからなかった。


「すみません」

「謝る事ないじゃない。あれだけできれば上出来よ。むしろ一般人に手を出されそうになったこっちが謝らないといけないわ。ごめんなさい」

「いえ、守ってもらったのに、そんな事」

「そう?」


 不思議そうにしながらもこっちよと、先輩は誠二に促した。歩きながら周囲の警戒を怠らない雰囲気に、ここではさっきのことが日常なのだと改めて認識した。またさっきのようなのが襲ってきたらと考えると、少し体が震える。臆病な自分がいた。


「言っておくけれど、あなたのような体験をする人はそう多くないわ。でもいないってほどでもないの」


 先輩は、心配そうにこちらを見ている。


「私たちはあなたのような人のことを『落ち人』って呼んでいて、現世では人が世界を超えてしまう現象そのものを『神隠し』と呼ぶことが多いわ。世界をまたいで、現世から姿を消してしまうから」


 その言葉を胸の内で反芻する。


「そう、大抵落ち人は自力では戻れないから、私たちが現世との出口まで案内するの。だから、こうして私がここにいるってことは、あなたは現世に帰れるわ」


 その言葉に、ああ、と思った。先輩はこの胸にある不安を取り除いてくれようとしているのだと。泣きたくなったけれど、流石にそれは我慢した。代わりにくしゃりと歪んでしまった表情を見て、先輩には笑われた。クールな顔が一変する。


「木原くん、意外と表情が変わりやすいのね。部活では静かな後輩だなって思ってたから」

「いや、人付き合いはあまり得意ではなくて……」

「なら、私と一緒ね」

「はあ」


 嘘だと思った。こんなに優しい人が、人付き合いが苦手なわけがない。先輩の含み笑いに、冗談かどうかはわからなかった。


「ついたわね」


 ポツポツと話を続けていると、どうやら彼女の言う、現世との境界についたようだった。なんでもない建物の側面だ。他と違うのは、壁面に鳥居のマークが書かれている事。神社の鳥居を思い出す。あれは、人の生活圏と、神様の社を分ける物だと聞いたことがある。そういう境界を象徴しているのかもしれない。


「ここを通れば現世に帰れる。短い神隠しも終わりね」


 冗談めかしてそう言った先輩が、境界に手をかざす。


「こちらの世界の事は他言無用よ。まあ、言っても信じる人の方がまれだとは思うけれど。そのままあなたの日常に戻りなさい。そしてできるなら、こちらの世界ののことは忘れなさい」


 先輩がちらりと振り向いて、また部活でと呟いた。真剣な表情だった。

 鳥居は光を放って、空間が歪む。

 何か声をかけたかったけれど、誠二を巻き込んで境界は現世へとつながり、めまいのようなものを一瞬感じた後、目を開けるとそこはすでに元の世界だった。


 耳に車のエンジン音が戻ってくる。建物の間とはいえ、一本出ればそれなりに大きな通りだ。こんなところが別の世界に繋がっているなんて、誰も思うまい。先輩はこちらに来ていないようだった。


 振り返るとなんの変哲も無いグレーの壁がある。鳥居のマークは消えていた。自転車は置いてきてしまったので歩いて帰ることになる。時間は倍以上かかるが、頭の中は違う世界のことでいっぱいで、体感では一瞬だったように思う。忘れたくても忘れられるわけがない。


 だが先輩の真剣な顔が、まぶたから離れなかった。

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