17 I want you to be

 何でもいい。とりあえず彼に会おう。もしかしたら私が兄との記憶を手放していたことに怒って、ああなってしまったのかもしれない。今なら、あるいは。

 彼から逃げていたのは嘘のように、私は彼に会うために走り始めた。

 角を曲がるとすぐに、彼の悲しそうな背中を見つける。

「お兄ちゃん」

 私が呼びかけると彼はゆっくり振り返る。その顔には笑顔。先程までの暗いものではない。悪意も何も感じられない。ただ、嬉しそうな本心からの笑顔。

「思い出して、くれたの……?」

「ごめんね。忘れてたなんて、私最低だね」

「そんなことないよ。ありがとう」

 彼はふわりと笑うと、ナイフを落とした。

「こんなもの、もう要らないね」

 嬉しかった。

 どうして私を殺そうとしていたのかはわからない。けれど、その凶器を捨ててくれたのが、もう二度とそれを血で濡らさないと言ってくれたようで、嬉しかったのだ。

 私もつられて笑う。

「これからはいつでも会える?」

「ふふ、もちろん」

 勢いよく抱き締められて、一瞬息ができなくなる。しかしこれは全く違う。私を困らせようとしているのではない。私の死を望んでしているのではない。心が温かいのがわかる。私を離すまいとしているのが、伝わってくる。

「僕のために、ありがとうね」

 兄の大きな手が頭を撫でる。全てが溶けていくようで、霧が晴れていくようで。

 世界が光になって、すうっと意識が遠のいていく──。




 目を開くとそこは自分の家だった。やっぱりあれは夢だったのか、なんて振り返る余裕もなく、理解も追いつかず、私はただ立ち尽くすのみだった。

 あぁ、そうか。兄のことは受け入れてはいけなかったのだ。私の中に現れた兄は、全てを壊すために動いていたのだ。

 充分に働かない頭で考える。どうしてこうなったのか。たぶん本当はわかっているのだ。私が彼を受け入れてしまったから、それがたったひとつの答え。

 目の前に広がる惨劇を見つめることができずに、私は家を出ようとする。しかし玄関前の廊下にある姿見を見て、心臓がきゅっと縮んだ。

 私は血塗れだった。

 高校から帰ってきたままの制服姿で、大きな料理用のナイフを持っていて、全身が誰かの血で汚れていた。これは私のものではない。それなら誰の──。

 振り向いてリビングを眺める。良い眺めだ、一瞬でもそう思ってしまったのが怖かった。私はもう二度と私に戻ることができない。直感していた。

 母も、再婚相手の父も、それから小さい弟も。それぞれの椅子に着席し、結婚記念日を祝おうとしていた。私も学校から帰ればそれに参加し、みんなでケーキを囲む予定だった。

 それなのに、私は彼を受け入れてしまった。

 料理上手な父の作った豪華な夕食も、真ん中に位置するケーキも、全てが赤一色に染まっている。母の用意した部屋の装飾、弟が気持ちを込めて描いたお祝いのカード、それから私がプレゼントするはずだったキーケース。全てがそのまま置いてある。

 彼が最後に言った「僕のために、ありがとうね」というのはこのことだったのだろうか。

 私にこびりついてしまった罪の色は何をしても落ちることはない。涙がそれを浄化していくなんてあり得ない。どうして私は彼を抱き締めるなんてことをしたのか。

 もう何も要らない。

 私は右手に残っていたそれで、自らの首を切った。


Ending5 『I want you to be』

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