9 Catch and run

 後ろを伺う。と、笑い声が大きく響きはじめた。これは紛れもなく、彼の声。きっと彼はこの状況を、ただの遊びだと思っているのだ。ただ楽しんでいるだけなのだ。

 そうだろうとは思っていたが、それでも確信を持ってしまうのは、嫌だった。狂気が影のように伸びてきて、私の足を掴んでしまいそうだった。

 怖い。ただこの感情だけが私を支配する。

「ねぇ、待ってよ。あは、あはは! 僕、鬼ばっかりじゃつまんないよ?」

 言葉とは反対に彼は笑うことをやめない。つまらないなんて嘘。私を追いかけるのが楽しくて仕方ないのだ。

 しかし、彼の方を向いてしまったのが悪かった。くだらない石ころで私は転んでしまった。ここまで何十分も走ってきたのだ、疲れてしまうのも当然だろう。こんなところで力尽きるなんて、最悪だ。

 後ろに耳を澄ましながら這うようにして進む。少しでも離れなくちゃならない。彼から遠いところへ、逃げなくちゃ。

 目の前には彼の影が伸びてきて、ドス、と背中を踏まれる。

「うぐっ」

「あっはは、つっかまえた! 僕の勝ち」

 彼は軽々と私をひっくり返して、仰向けにさせてから瞳を覗き込んできた。

「ふふ、かわいいね」

 馬乗りになってから、彼は背中に隠していた右手を前に出す。その手には嫌に光るナイフが。

「い、いやっ……やめて、死にたくない」

「ううん、大丈夫。怖くないよ。だからね──」

 私の涙を見て彼は悲しそうに微笑む。どういう感情なのだろう。その表情を浮かべたまま、彼はナイフを両手で握り直し、それから振り上げた。

「僕のために、死んでね」

 ビュン、鋭利な刃物が空気を切る音が耳に届く。

 瞬間、全てが遅くなる。あぁ、これがいわゆる走馬灯なのか。今までの記憶がフラッシュバックして、自分はここまで幸せ者だったと感じる。大変なこともあったが、それでも楽しい人生だった。

 さようなら、ありがとう。

 それから胸に衝撃的な痛みを感じた。ドクドク、心臓が生命を手放すまいと動く。しかしもう直感している、私は死ぬ。

 薄く開いたままの視界に彼の顔が入ってきた。もう霞んでしまって良く見えないけれど、彼はきっと、泣いていた。

 強い力で抱き寄せられて、彼は静かに泣くばかりだった。


Ending2 『Catch and run』

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