8 For him

 するりと夜を抜けるように目の前に現れた彼の笑顔は、悪意という絵の具で塗りつぶされているようで。細められた目から覗くそれは、獲物を狩るときの獣のようで。私は一瞬動けなくなる。

 怖い。怖くてたまらない。けれど、私は生きて帰る。絶対に。

 震える拳に力を入れ直す。手のひらに長い爪が刺さって痛い。けれどそんなもの、なんとも思わない。この状況に比べてみれば、こんなもの、なんてことない。腕を思い切り振り上げて、彼の顔めがけて突き出す。

 パシン。薄っぺらい音が鳴って、拳に痺れるような痛みを感じる。

 ──動かない。私の腕はその場から動かせなくなった。

「ふふふ、怖いねえ。かわいそうだねえ。でも、仕方ないよね?」

 彼の声が身体を這うようにして脳へ入っていく。理解が追いつかない。

 でも私のパンチを軽々左手で捕まえて、また暴れることのないように強い力で握られているということはわかってしまった。どれだけ抵抗してみても、左手で追撃してみても無駄だった。両手を捕まえられて、恐怖で声は出せなくて。完全に私の負けだと理解してしまった。

 足りない頭で考える。どうしたら勝てるのか。いや、勝利なんて要らない。引き分けでも良い。私が生きて逃げられたなら、それで良いのだ。

 右足を思い切り上げ、彼の腹の辺りに蹴りを入れる。

「痛いなぁ」

 少しも怒る様子はない。それどころかこの状況を楽しんでいるようだ。一度私の手を離した彼はふふふと笑いながらこちらへ迫ってくる。

 これがチャンスだとは思わない。たぶんもうこのゲームから逃げることはできない。それでも抵抗は続けなくてはならない。それで諦めてくれれば、良いのだが。

「えへへ、かわいいね」

 後ろから抱き留められ、対面する形にぐるりと回される。

「いや、やめて……助けて……」

 絞り出した声は自分のものとは信じられないくらいか細く、震えていた。

「そっか。助かりたいんだね、君は」

 彼の笑みはずっと変わらない。

「でもね、僕も救われたいんだ──君と一緒に」

 背中に隠していた右手を私に見せびらかすようにして出す。その手にはギラリと鈍く光るナイフが握られていた。

 あぁ、全て終わるのだ。私という人間の全てが、ここで。

「ありがとう。僕のために死んで」

 ひゅっと刃物が空を切る音が聞こえる。それから生暖かい液体の感覚。ドクドクと何かが私から漏れ出して、直後胸のあたりに酷い痛みを感じる。もう全身に力が入らない。身体を彼に預ける。

 意識を手放す直前、彼の体温が私をぎゅっと抱き寄せた。


Ending1 『For him』

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