第十六節 クリスタルダイバー

 野木町の最南端、埼玉県との境目の地点。その利根川沿いで、隻眼の獅子は待っていた。真を腕に抱えながら独り呟く。

「来い、黒い者。貴様に地の利を与えた状態で、我輩が倒す…!」

 名もなき獅子は『ニオイ』でわかった。あのレシーバーズは水を得意とする。ならば川や湖のある領域は奴に一日の長がある。そのうえで超克すればこそ、真に勝利したと言える。

「なぁ、お前らは何がしたいんだ?」

 真が尋ねる。額には冷や汗が溜まっていた。

「あの姉ちゃん、飯食わなかった。一日寝てて、絶対腹減ってたはずなのに。それって、食わなくていいってことだろ?なのに、何で人を襲うんだよ?俺達を…脅かすんだよ?」

「愚問だな、小僧」

 隻眼の獅子は迷わず答えた。

「嗜好品に意味を求めるのか?」

 真は愕然とした。親を殺した種族にとって、人を殺すことはチョコレートを齧ったり、飴を舐めたりするのと同義らしい。

「じゃあ俺の父ちゃんも母ちゃんも、『嗜好品』だったっていうのか…?」

「無論」

 恐怖を通り越して、怒りが増していく。真は拳を作った。

「倫理観どうなってんだよ、お前…!」

「弱きが死に、強きが生きる。物の正否など、その結果論に過ぎん。それが世界の摂理、変えられぬ道理だ」

「ふざけんな!」

 真は獅子の腕の中で暴れた。振りほどこうと力一杯もがいた。しかし、力の差という現実には抗えなかった。

「諦めろ」

 獅子の片眼が鋭く光る。背筋の凍る思いだった。

「今ここで食ってもいいな。その方が、奴も戦う動機が出来るだろう」

 歯茎を剥き出しにする。牙が真に向けられる。だが、頭を噛み砕かれる直前、何かが獅子の頬を打った。対岸から、クリスタルダイバーが水の矢を放ったのだ。

 先日のレッドブレードとの戦闘を含め、体外に放出した水はおよそ2%。既にクリスタルダイバーの意識は朦朧としていた。

「来たか、黒い者!」

 獅子は歓喜に満ちた声色で出迎えた。

「その子を…離してください…!」

 川のせせらぎに混ざりそうな声だった。膝をつき、地面に手をつくクリスタルダイバーを見て、獅子は不満げに声を張り上げた。

「貴様、既に虫の息ではないか!痛ましい限りだ!」

 獅子は真を抱えたまま、対岸を跳び越す。それから、クリスタルダイバーを蹴り飛ばした。無様に転がる。

「そんな貴様を倒したところで、我輩は誇れん!そこの川でも飲んで仕切り直せ!」

「あいにく…そんな便利な身体じゃないんです、私…!それに…!」

 クリスタルダイバーはおもむろに立ち上がる。泥だらけで、黒ずんだ皮膚が白日の下に晒される。そして、弱々しく大声を出した。

「私は虫じゃありません…!アマカゼのクリスタルダイバー、潜明良です…!」

 呆れて物も言えないとばかりに、獅子は笑い飛ばした。

「名で勝てるものか!」

「勝てるんですよ、それが…!」

 獅子の腕の中で、真は叫んだ。

「もういいよ!来んなよ、姉ちゃん!見てて痛々しいんだよ!」

 胸が苦しい。涙がこぼれる。

「俺の家族、レシーバーズに殺されたんだよ!レシーバーズに助けてもらいたくねぇよ!」

 ひどい言葉をぶつける。しかし、クリスタルダイバーは折れなかった。

「ごめんなさい、嫌でも助けます…!」

「何で!?」

 すると、クリスタルダイバーは突如、Vサインを作った。

「疾走(はし)らずにはいられないんです、私…!」

 表情なんてわかるわけもない怪物の顔が、何故か笑っているように見えた。真の目から、違う涙が溢れ出す。安堵、それと希望。手は自然と、インスタントカメラを握っていた。

「待っててください…絶対、助けますから…!」

 腰を落とし、構える。興の乗った獅子は吼えた。

「やれるものならやってみろ、クリスタルダイバー!」

 同時にスタートを切る。爪と水の槍が衝突する。槍でいなし、片方の手で真を捕まえようとするが、高速の獅子を捕らえきれない。

 すかさず次の攻撃が来る。槍で防ぎ、真を助け出そうとするが、またしても獅子を逃す。この繰り返しだった。

 先にガタがきたのは、言うまでもなかった。

「どうした、終わりか?」

 クリスタルダイバーは肩で息をする。もう、視界は闇の方が多かった。それでも立ち、構え直す。

 身体はとっくに限界を超えている。だが、瞳の鋭さ深遠さは反比例的に増していく。獅子は生まれて初めて、進む足を止めた。

「あなたには…ありますか?」

 唐突に問いかける。

「立つ理由が…ありますか?」

 生まれて初めて、獅子の身体は震えを覚えた。落ち着け。目の前にいるのは、立つのもやっとの相手だ。何を臆することがある。

「生きる意味が…名前が…ありますか?」

「…やめろ」

 じりじりと近寄る。ならば何故、奴の身体がこうも大きく見える?

「私には…あります。帰りたい場所、たくさんの音、名前。あなたにそれが…ありますか?」

「やめろ」

「ありますか?」

「やめろ!」

 爪を振り回すが、流れる川のごとく揺らめくクリスタルダイバーには、かすり傷一つ付かない。

 まずい。呑まれる。獅子は生まれて初めて、恐怖を知った。

 クリスタルダイバーは力なく手をかざす。獅子は身動きをとれなくなっていた。

「何をした、貴様!」

 徐々にその手に水の粒が集まっていく。粒の源に気がついた頃にはもう、獅子の身体に含まれる約10%の水分が、クリスタルダイバーの手中に収められていた。獅子は失神した。

 獅子の手を離れ、真はクリスタルダイバーに駆け寄る。

「明良姉ちゃん!」

 クリスタルダイバーはうつ伏せに倒れ込んだ。真の脳裏に死の一文字がよぎりかけたが、穏やかな寝息を聞いて胸を撫で下ろした。

「ありがとう、クリスタルダイバー」

 静かに呟き、シャッターボタンを押した。

 真がクリスタルダイバーを背負おうとすると、遠くから声が聞こえた。

「あそこだ!」

 慎重派そうなレシーバーズと、あからさまに力自慢な人間と、背丈の小さな人間、しめて1体と二人が真めがけて走ってきた。真はクリスタルダイバーを下ろし、身構える。

「やるか!?」

 しかし、慎重派そうなレシーバーズは慌てて変貌を解き、必死に弁明する。

「違うんだ!オレ達はその女の子の知り合いで、迎えに来ただけだよ!」

 いきなりそう言われても、納得はいかない。力自慢が後に続く。

「いいから渡してくれ!急いでんだよ俺達!」

「それじゃ誘拐犯だよ…」

 慎重派が力自慢にツッコミを入れる。小さいのは咳払いをした。

「…私達、アマカゼなんだよねー。その人も同じアマカゼの隊員でー…って、何で黒いの!?」

「うわっ、ホントだ!何でこんな──イカ墨パスタの食いすぎか…?」

「カタツムリのフンじゃないんだからさぁ…」

「そのツッコミ下品ですよリキさーん」

 賑やかな様子を見て真は、とりあえず良からぬことを考えている相手ではないことは確実だと理解した。

 騒がしい音を耳にして、クリスタルダイバーが目を擦る。

「どうしたんですか…?喧嘩ならよそでやってくださいよぉ…」

 あくびをしながら伸びをする。四人一斉に明良を指さした。

「お前のことだよ!」

 大声を出され、クリスタルダイバーの眠気は吹き飛んだ。一連のやり取りが可笑しくなって、みんな腹の底から笑い出した。

「とにかく」

 リッキーはクリスタルダイバーに手を差し伸べた。

「迎えに来たよ」

 クリスタルダイバーは変貌を解き、手を握った。顔がほころぶ。

「言ったじゃないですか。絶対帰るって」

 剛がその手に自分の手を重ねる。

「やっぱ俺達、こうでなくっちゃな!」

 乙は明良に小さく呟いた。

「おかえり…お母さん」

 手を重ねるよう、明良は目で催促する。乙の手の平が剛の手の上に乗った。そして、明良は真の方を向き、

「ありがとうございました。私、あなたに会えてよかったです。またいつか会いましょうね、真」

 と、笑顔を見せた。真はカメラで撮った後、言葉を考えていた。

「あ、私歩けないのでおぶってくれますか?剛さん」

「お安い御用だぜ!」

「あとあちらの犯罪者もいいですか?」

「いいぜ!ゴーカイに運んでやるよ!」

「こういうの、使いっ走りって言うんですよねー」

「表現に悪意がありすぎない?乙ちゃん」

 歩き出すアマカゼの隊員達の背中に、胸の内を明かせずにいた。そんな真の背中を叩く手が一つ。

「行きなよ。役に立てる」

 そう言う奏雨の顔は微笑みを浮かべていた。励まされた真は、

「あの!」

 アマカゼの隊員達を呼び止め、

「俺も…行かせてくれないか?アマカゼの真実ってのを、皆に伝えたい!俺を助けてくれた恩人なんだって、知らせたいんだ!」

 思いの丈をぶつけた。すると明良は剛から下りて、よれる足元で傍に来た。しゃがみこんで、手を軽く出す。

「お願いします。一緒に来てください、真」

 笑顔の明良と手を繋ぎ、真は東京へと続く道を歩いていった。

 五人の背中に、奏雨はほんの少しの郷愁を覚えた。歩みたかった未来が、託したいと思える現在(いま)が、そこにあった。

「…頼んだよ、皆」


 最高裁判所。そこは、人間の善悪を定める規範、法の持てる力の全てを結集した場所。この場所における判決は絶対。それは日本という国が戦後、三権分立という制度を立ち上げた時から変わらぬ鉄の掟である。

「これより被告、志藤仁のパードレ癒着問題に関する判決を行います」

 天井に最も近い席から、裁判長が最高裁の始まりを告げる。審判の時は来た。

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