第十四節 疾走(はし)らずにはいられない

 明良が目を覚ますと、そこは屋内であった。木製の天井と、輪の形をした電灯が見える。身体を起こす。四畳半の部屋に敷かれた布団の中で眠っていた。一体、なぜ?

「起きたんだ」

 乙とそう変わらない歳の少年が襖から入ってきた。手にはお盆、その上には食事。明良は俯く。

「…いりません」

 少年が不思議そうに問いかける。

「お腹…空いてないの?」

「空きませんから、私」

 にべもなく答える明良の傍にお盆を置いて、少年は座った。

「俺は迫田真。あんたは?」

 誰と言えばいいのかわからない。クリスタルダイバーは今や犯罪者の仲間、駒沢明良はもう死んでいる、潜明良は存在意義(いばしょ)を失った。誰なのだろうか。誰であるべきなのだろうか。わからない。

 沈黙の後、真は尋ねた。

「誰に…謝ってたの?」

 多すぎてわからない。自分のせいだ。

 確かに、レッドブレードが事実を歪曲した結果がこの事態である。しかし、甲は身内だ。癒着を否定するのは、甲を見捨てるのに等しい。事実、甲の計画の核は明良にあったのだから。とすれば、甲の暴走を止められなかった明良に責任があるということになる。

 どう言い訳しようと、娘とその仲間が離ればなれにならざるを得ない原因を作ったのは明良なのだ。市民を不安に陥らせてしまったのはクリスタルダイバーなのだ。

 誰に…謝ればいいのだろう。

「どうして、家にあげてくれたのですか?」

 横に座る真に問いかける。真は朗らかに答えた。

「母ちゃんの教えなんだ。困った人がいたら迷わず助けろ、ってね」

 右手側に仏壇が飾られてあることに気づく。二つの遺影と、カメラが置かれていた。

「…生活は?」

「『姉ちゃん』がいるんだ。だから大丈夫」

 真は茶碗の米を平らげて、今度は味噌汁に手をつけた。

「寂しく…ないよ」

 そう呟く真の瞳は物憂げであった。どれだけの悲しみを見て、知ってきたのだろう。察するに余りある。

「お姉さんは今、どちらに?」

 明良の質問と同時に、玄関の扉が開く音がした。真は立ち上がり、

「ちょうどだ」

 と、玄関まで走っていった。

「おかえり」

 声が聞こえる。二つの足音が明良のいる部屋に近づき、止まる。襖が開かれた。素朴な見た目の女性が、真の横に立っていた。何故か、懐かしい気持ちに駆られた。

 女性は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で明良を見る。

「…この人は…?」

 真は両手を軽く上げ、首を傾げた。女性が明良に寄って、屈む。

「名前は?」

「何だと…思いますか?」

 後頭部の中央だけ伸びた髪が目に入り、女性は微笑む。

「まぁいいよ。あたしは田宮奏雨。ここの居候ってとこかな」

 どこかで聞いたような名前だ。呆然と奏雨を見つめる。

「どうした?」

「いえ…前に、会いませんでしたか?そんな気がしまして…」

 奏雨の顔が神妙になる。

「…お腹は?」

 明良は首を横に振る。明良から目を離さないまま、奏雨は真に言った。

「この人と話があるんだ。ちょっと、外してくれない?」

 真は奏雨の語気からただならぬ様子を察し、すかさず部屋を出た。襖が閉められるや否や、奏雨は尋ねる。

「あんた、レシーバーズだね?」

 明良は固唾を呑む。

「どうやら図星みたいだね。それも、アマカゼとかいうのだったりするんじゃ…」

「違います」

 言葉を被せる。アマカゼはもう無いに等しい。間違ってはいない。しかし、胸が痛む。

 奏雨はため息交じりに返した。

「あんた、下手な嘘はつかない方がいいよ。自分が苦しいだけだから」

 畳に手をつけ、質問する。

「あれ…本当?」

 アマカゼと犯罪者パードレの癒着。きっと、そのことだろう。俯く明良を見て、奏雨は自分の髪を掻く。

「変なとこばっかり隠すのは上手いみたいだ」

 天井を見上げ、語り始める。

「あんたの顔見た時、あたしの友達に似ているなって思った。けど、ちょっと違う。不思議な気分だったよ。そこにいるのは一人なのに、まるで二人いる感じがしてさ」

 明良は自分の顔に触れた。この顔には駒沢明良の他に、もう一人の誰かがいる。なら、ここにいる自分は何なのだろう。

「実は、その友達もレシーバーズだった。友達で…恩人だった」

 奏雨の視線が遠くなる。

「昔、色々迷った時期があった。自分は何なんだろうって。他人に気を遣ったら気持ち悪がられて、でも性分だから変えようもない。そんな自分から逃げ出したくて、たくさん迷った。たくさん…迷惑かけた」

 様々な思い出を振り返る。虐げられてきた過去、救われた気になって好きに暴れた過去、そんな生き方に迷い別の道を歩むことにした過去、しかし恋に迷い裏切ってしまった過去、そんな自分を許してくれた過去、そして揺るがぬ一つの決意を持って至る今。

「あたしは今、世界各地で起こる諍いを止めるために旅している」

「何の…ために?」

 奏雨が深く息を吸う。最初は罪滅ぼしだった。消せない罪を、せめて0にするために旅していた。けれど今は、

「疾走(はし)らずにはいられないんだよ、あたし」

 再び視線が明良に向く。

「風(ともだち)が教えてくれた。口じゃないけどね。難しい理屈で言い訳しない。逃げないでちゃんと向き合えば、見えるものがある。最近、少しずつわかってきたことだよ」

 罪や罰で隠していた。本当は逃げたかっただけなのかもしれない。自分が誰か、どうあるべきか。そんなこと、考えなくていいように。

「あんたはどうか知らないけど、とにかく、迷ったらあたしを頼ればいいよ。道を照らすぐらいはするから」

 奏雨が手を差し伸べる。その手を握る明良の口角は上がっていた。窓辺から風が吹き込んできた。晩夏の涼しげな風だった。


 リッキーは橋の下で、川の流れを眺めつつ膝を抱えていた。砂利が足元に広がる。素足で冷たさを直に感じる。雨の臭いが鼻につく。

「逆戻りだなぁ」

 かつての貧乏暮らしを彷彿とさせる状況に、リッキーは力なく笑った。

「お腹すかないのが幸いに感じるなんて…」

 レシーバーズは核命(コア)と呼ばれる生命力が他の生物より強く、活動源としている。加えて言えば、コアは消耗するものではない。そのため死者、つまりコアの無いものを摂取しなくとも、生命維持を続けられるのである。

「『せをはやみ』じゃないけど…」

 再びの逢瀬を誓った和歌に想いを馳せ、リッキーは石を川に投げた。そして、数km先にある科学研究棟のことを思う。

「やっぱり離れたくないよ。仁兄さん…皆…」

 目が潤む。誰が見るわけでもないのに、必死に隠そうと両膝に顔をうずめる。

 しばらくすると、何かに身体を揺すられた。

「おい、何寝てんだよリッキー」

 聞き慣れた声で目を覚ます。剛だった。ぼやけた意識が明確になる。

「何で離れなかったんだよ、剛君!」

 剛は強引に肩を組んだ。

「ダンナはああ言ってたけどよ、俺の居場所はアマカゼ─あそこ─しかねぇ。オメーもそうだろ?リッキー」

 リッキーは微笑み、頷いた。

「強いな、剛君は」

「たりめーよ。ぜってぇ真相暴いてやる。こっからリベンジだ!」

「もー、大声出したらバレますよータケさーん」

 対岸から声が聞こえる。乙だった。リッキーは感極まり、名状しがたい言語で叫びながら号泣した。

「だからバレますってーリキさーん。…私も、嬉しいですけどねー…」

 乙は目を擦って川を渡る。10mも無い川幅。しかし、疾走(はし)らずにはいられなかった。乙は二人に抱きつく。胸元で泣く乙を撫で、剛は言った。

「あとは明良だな」

 リッキーが提案する。

「乙ちゃん、一緒に大学病院にいたんだよね?なら、そこの排水口のルートがわかれば居場所を特定できるかもしれない」

「でも、アマカゼの機材はもう使えませんよー?」

 三人が考えあぐねていると、二つの足音が近づいてきた。

「お前ら、匂いは消しておけ。動物変異型には嗅覚の鋭い奴もいるからな」

「あなたのように、ですね」

「それほどでもないぞ!」

 星牙が皐姫を背負い、尻尾を振り回して現れた。蕩けきった顔の星牙に対して、リッキーが咳払いする。星牙の表情が元に戻った。

「話は理解した。あの病院の排水口なら、おそらく栃木まで通っているはずだ。同系列の大学病院が栃木にもあるからな」

 星牙から降りて、皐姫が三人にトランクと人数分のチケットを渡した。

「新幹線で行ってください。御三方とも、人としての顔は割れていませんから。それと着替えです。汚い身なりでは不審がられますし、何より公の方々に御迷惑をおかけします」

 その甲斐甲斐しさに、三人は感謝しきりだった。リッキーが代表して言う。

「じゃあ…行ってきます」

「いってらっしゃい」

 勢いよく立ち去る三人の背中を見て、星牙は呟いた。

「子供…欲しくなるな」

「何人ですか?」

「そんな、お前…直球で聞くな…」

「あら、あなたが言い出したのでしょう?」

「勘弁してくれ…」

 星牙は赤くなった顔を覆う。川が光で煌めいた。


「しかしまぁあれだな、レシーバーズは阿呆ばかりだな」

 死屍累々の山の上に、笠を被った隻眼の獅子が悠々座り込んでいた。口についた血を拭う。怯える兎が一羽。

「食わずに済む身体など、そこにあるだけでしかなかろうに」

 コアの膨張を感じる。全身に力が漲る。死体の骨で爪を研ぐ。

「我輩は食うぞ。生きるとは、そういうものだ」

 感覚が訪れるよりも先に、兎は身を貫かれた。爪で串刺しにした兎を食らう。新鮮なコアを食し、力は更に増強される。

「足りん。やはり、人のコアこそ至高か。さて…」

 死体のポケットからスマートフォンを取り出し、地図を確認する。

「最も近い人里は…」

 隻眼の獅子はスマートフォンを投げ出し、一目散に駆け出した。泥だらけの画面に表示されていたのは、『栃木県 野木町』。明良のいる場所だった。最高裁まで、あと2日。

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