第十二節 打たれ水

 赤い表皮が筋肉で隆起し、岩さえ噛み砕けそうなほどの大顎を持つ鬼。全長は目測でも5メートルは下らず、頭部に生えた3本の角だけでも流奈の身長に迫る長さをしている。その体躯よりも遥かに巨大な剣を担ぎ、遥かに長大な髪を垂らす。鬼の名はレッドブレード。混沌に支仕える四騎士の一体。

「表舞台に出るつもりは無かったんだがなッ…!」

 気だるげな態度でさえ、息が詰まる威圧感を発している。何だ、これは。

 レッドブレードが一歩ずつ甲に近寄る。明らかに穏やかでない事情を抱えているのは確かだ。しかし、明良も乙も流奈も、体長では勝るはずのシャットシェルまでも、脚を動かせなかった。金縛りの類ではない。単なる恐怖。ただそれだけで、脚は動き方を忘れてしまったのだ。

「根回しは終わったッ…!後始末、しとかねぇとなッ…!」

 甲の眼差しは抵抗の意思を示していた。レッドブレードのこめかみの血管が浮き出る。

「なんだその目はッ…!組織はマトモに運営できねぇ、三種の神器も奪えねぇ、挙げ句それかッ!テメーに援助してやったのはどこのどいつだ、言ってみろッ!」

 血まみれの甲の身体を握りしめ、地面に何度も叩きつけた。

「テメーがすがりついたんだろッ!嫁を連れ戻してぇってよッ!」

 虫の息となった甲はその場に投げ捨てられた。まるで押し潰された害虫でも見るかのような目で、レッドブレードは見下ろした。

「つくづく気持ちワリィ奴だぜッ…!死んだ嫁の歳下げて甦らせるってよッ!趣味がワリィにも程があらぁなッ!」

 涙ながらに、かすれた声で甲は言い返した。

「お前に…何がわかる…!」

「何もわかんねぇなぁッ!」

 大剣が振り下ろされる。その光景を上目に、甲は過去を振り返った。

 思えば、こんなことばかりだった。昔から生きることに精力を持てなかった。周りの大人は『夢を持て』と強制し、いざ取って付けた夢を語れば同世代の奴等は『気持ち悪い』と蔑んだ。

 蔑まれ、泥を被せられる度、涙した。口に出す勇気すら無かったが、よく思ったものだ。『お前に何がわかる』と。

 しかし、大剣は甲を引き裂かなかった。間一髪、クリスタルダイバーが身を挺したのだ。受け止めきれず、クリスタルダイバーの右肩から血が流れ出る。

「そいつを庇うか、亡霊がッ!」

 刃が傷口に押し込まれる。

「なぜ庇うッ?そのボロ切れが何をしてきたかわかってんだろッ!」

「はい…!命を、くれました…!」

 刃の進行を、クリスタルダイバーの手が食い止める。

「おかげで、素敵な仲間に…そして、大きくなった子供達に、会えました…!」

「だがそいつの罪は消えねぇッ!テメーがどう思おうと、救う価値もねぇクズに変わりはねぇよッ!」

「それでも…!」

 クリスタルダイバーは体内の水分の1%を大剣内部に染み込ませた。急速に酸化が進む。異変を察したレッドブレードは大剣を退ける。

 ふらつく身体で1%の水分を体内へ戻し、放っておいてもよれそうな足で踏ん張りを利かせ、甲に振り向いて笑った。

「ありがとう、甲さん…生かしてくれて」

 これだ。甲は思い出した。誰とも交われなかった甲を、いつだって明良は受け入れてくれた。初めて会った時も、顔を伏せて泣く甲にハンカチをくれた。

「でも…不思議ですね」

 窮地にいながら、クリスタルダイバーの声音はどこか明るさを感じさせた。

「何故か、甲さんを見てるとあったかくなるんです」

「記憶も…無いのにか?」

 クリスタルダイバーは頷く。忘れていた。そういえば、あれには続きがあったんだ。

「この時に出会えていたら、もっと幸せだったのかな」

「違いますよ、甲さん。いつ出会っても最高に幸せなんです。だって、甲さんに会えたから」

 甲の頬が緩む。

「そうか…もう…」

 幸せだったんだ。だって、君に会えたから。

 歌を口ずさむ。

「僕らは皆…生きている…生きているから…笑うんだ…」

 うつ伏せのまま、太陽を見上げる。あんなに光るものを、今まで知らなかった気がする。

「黙れッ!」

 大剣が甲を斬り裂く直前、レッドブレードの手には大剣の代わりに小さな木片が携えられていた。微かな歌を励みに恐怖を振り切り、シャッフルタクトは甲のもとへ駆け寄った。

「まだ何も言えてない、何もできてない!死なないでよ…『お父さん』…!」

 甲の頬が緩む。何年ぶりに聞いたかな、その言葉。

「じゃあ…歌って、くれないか…?歌を…聴きたいんだ…」

 乙は変貌を解き、口を開こうと努めた。しかし、声が出ない。出したいのに。出るのは涙ばかり。嗚咽ばかり。

「小細工すんじゃねぇッ!」

 レッドブレードの拳が二人を潰さんとする。が、クリスタルダイバーの構築した水の壁─空気中の水分一粒一粒を、他の物質の水分と衝突させることで発生する、擬似的な不可視防壁─によって、その鉄槌は落とされずに済んだ。

「『目覚め』が近いってぇのか、それとも既にッ…!」

 それでもレッドブレードは、無理矢理拳を突き出そうと筋を張る。水の壁を構築するにあたって、クリスタルダイバーの精神力は尋常でないほどに磨耗する。意識を失う瀬戸際だが、眼光は鋭く輝く。

「邪魔しないでくれますか…?親子水入らず、ですよ…!」

 これは本気を出すしかない。レッドブレードが事を起こそうと構えたその時、胴に一太刀浴びせる影二つ。帯刀したスーツ姿の銀狼と、両目の閉じた男だった。

「無線が繋がらないと仁に聞いて来てみれば…」

「このプレッシャー、7年前を思い出すぜ…!」

 仁。憎きホワイトライダーの言っていた友とやらの名前か。レッドブレードは胸に抱えていた苛立ちを煮えたぎらせた。

「テメーら全員、仁って奴の仲間かッ…!」

 星牙が切っ先をレッドブレードに向ける。

「だったらどうした」

「ここで全員ブッ潰すッ!」

 レッドブレードは大地を踏みしめた。すると山が揺れ、山頂から土砂が降り注いできた。

「足踏みで土砂崩れを作るか…!」

 星牙の視線は上方に行く。しかし、止める術は無い。

「…お前に懸けるぞ、遊月」

 遊月は頷き、静かに呟く。

「力を貸してくれ、日向…!」

 遊月はフェイトスコープへと変貌する。左目が開く。現実を夢に還す力『朧』。まるで立体映像が消えるかのごとく、土砂崩れはあっという間に霧散した。

 刹那、フェイトスコープの左目に激痛が走る。

「大丈夫ですか!?」

 クリスタルダイバーが援護に向かうが、フェイトスコープは後ろを見返ることなく手を伸ばした。

「俺に任せろ…!」

 漂う覇気を前に、クリスタルダイバーは乙と甲、流奈を連れ出す決意を固めた。だが、クリスタルダイバーの視界に、倒れ伏す流奈が映った。

「流奈!?」

 クリスタルダイバーが抱きかかえるが、流奈は目を閉じたまま、高熱でうなされていた。アルビノ。生まれつき体内で色素が生成されないばかりに、紫外線をはじめとする外的要因の影響を過敏に受ける。

 鍵のかかっていた記憶が、よりによってこんな時に甦ってきた。

「お子さん、もって数年ですね…およそ7年。申し訳ありませんが…それ以降は、こちらでは保証できません」

 流奈は何歳だ?体格は乙とそう変わらない。タイムリミット、なのか?

 いや、させない。首を横に振る。

「せっかく会えたんですから…!」

 流奈を背負い、クリスタルダイバーは乙と甲に呼びかける。

「ここを離れますよ!」

 乙は顔を伏せたまま変貌し、力なく横たわる甲を背負った。水の車に乗る。動かない甲とうなされる流奈に囲まれながら、シャッフルタクトは呟いた。

「…歌えなかった」

 すかさず山を下る。

「…歌ってほしいって、言われたのに…」

 焦土が遠のく。レッドブレードがどこかへ去るのを見た。だが、安堵する余裕は無かった。

「そういえば、お父さんがきっかけだったなぁー…歌ったりピアノ弾いたりすると笑ったんだよー?」

 平静を装うシャッフルタクトの声は震えていた。

 そろそろ街が見えてくる。天候は曇り。モノクロのガラス窓は妙な胸騒ぎを促す。

 大学病院へ直行した。車を停め、人の姿に戻る。明良と乙は、甲と流奈を背負って院内へ入った。甲を背中に感じる明良は、その心臓が止まっていることから逃げ出すかのように叫んだ。

「すみません!急患です!」

 切羽詰まった状況だ、大声を張るのもやむを得ない。だが、患者や看護士からの視線は冷ややかであった。口には出さないが、言いたいことは大体わかる。

 根回し、か。明良の胸に痛みが走った。

「どうして…助けてくれないの…?」

 乙のか細い声が、静かな院内に響いて消える。

 立ち往生していると、やがて院長が現れた。すかさず乙は頼み込んだ。

「お願いします、助けてください!」

 院長は渋い顔を見せたまま、何も答えない。

「酷いよ…何で無視するの…?」

 乙の瞳が潤む。耐えきれず、明良は院長に言った。

「今は患者を救ってください。お医者さんなんでしょう?」

 院長は深呼吸をし、

「わかりました、患者は預かります。ただ…お見舞いはお避け願えると助かります。残念ですが、患者の素性も、あなた方も、信じきれませんから」

 と告げた。冷たい視線があちこちから刺さる。悪者を見る目だ。今すぐにでも逃げ出したい気分だったが、明良は一礼して甲と流奈を医員に預けた。

 病院を出る。自動ドア越しに見える人々が、明良には怖くて仕方なかった。

 突然、緊急用の無線通信が入る。

「繋がったか」

 仁の声と、別の環境音。

「明良、乙。今、オープンチャンネルでリッキーや剛とも同時に連絡を取れるようにしている。大事なことを話すぞ。…全員、離れて行動しろ。ここには戻るな」

 剛が怒鳴る。

「どういうこったよダンナ!俺達の見つけたやつ公表すりゃ、くだらねぇ噂なんてすぐ消せんのに!」

「仮に発表したとして、信用される確率は限りなく低い」

「謂れの無いことでも…ですか」

 リッキーの沈痛な声。

「…だからだよ」

 音が消える。しばらくして、明良は口にした。決して取り消せぬ言葉を。

「わかりました。今すぐここから離れます」

 いくつもの音が一度に流れ込む。

「おい、明良!」

「君はそれでいいのか?明良ちゃん!」

 その場から離れようとする明良の手を、乙が掴んで引っ張った。

「行かないでよ…約束したじゃん…」

 明良は手を振りほどき、乙を見て言った。

「…お元気で」

 クリスタルダイバーへと変貌し、排水口に潜り込んだ。オープンチャンネルの無線から、明良の音が消えた。後に続くようにして、一つ、また一つ、音が消えた。

 仁は手錠を持つ警察官を尻目に、最後の一言を誰にも繋がらない無線に乗せた。

「ごめんな、皆…」

 夜。ニュースはアマカゼと犯罪者パードレとの癒着問題でもちきりだった。数十メートルのビルの屋上からでも、不安が伝わる。

 雨が降ってきた。音が掻き消されるほどの大雨。やっと泣ける。明良は泣いた。子供のように、声を上げて。

 何もできなかった。駒沢明良も、潜明良も、クリスタルダイバーも。求められていない。誰を助ければいい?何を守れば、自分でいられる?

 雨風に吹かれ、天に吼える。

「教えてください!私って…誰ですか?」

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