第十節 約束したのに

 長い眠りから目を覚ます。シャボン玉が視界に入った。緩やかに揺蕩う球体を生むのは、隣に座る一人の少女。少女は歌を歌った。

「シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで 壊れて消えた」

 歌が終わると同時に、少女の更に隣に座る男の頭上でシャボン玉が弾けた。少女と男は笑う。自然と微笑みがこぼれた。

 少女は膨らんだお腹をさすりながら尋ねる。

「お名前は?」

 太陽に照らされるシャボン玉の残像が、瞼に焼きついて離れない。その球体の放つ輝きは、まるで月のようだった。

「流奈(るな)っていうのはどうでしょう?」

 男は頷く。

「いいんじゃないか?」

 少女は朗らかな表情を浮かべ、ハンドバッグに入れてあったスマートフォンを取り出した。音楽視聴アプリを起動し、再生ボタンを押す。

「ホント好きだなぁ、それ」

 男が少女に笑いかける。画面に書かれてあったタイトルは、『ピアノソナタ・月──

「アキちゃん!」

 長い眠りから目を覚ます。明良は病床に伏していた。

「私、どうして…」

 戸惑う明良に、リッキーが説明する。

「一連のプロミス騒動の首謀者、つまりパードレの正体なんじゃないかって挙げられた人の名前を聞いた瞬間気絶したんだよ、明良ちゃん」

「確か、名前は宇佐美…」

 剛が口走りかけたのを、乙が背中を叩いて咎め立てる。

「それ聞いて気絶したんですよー?」

「けどよ、どのみち知らなきゃなんねぇことだろ…」

 正論である。任務をこなす以上、犯人の名前を避けて通るなどということはまずあり得ないし不可能な話だ。ならば、

「任務を外れるって手もあるけど…どうする?」

 リッキーが問うが、明良は返答に迷わなかった。

「やります。なんとなくですけど、私が知らなきゃいけないことだから」

 記憶、元プロミス、気絶、夢の景色。全ての謎の核心に今、確実に近づけた気がしているのだ。逃げたくない。

 病室に仁が入る。顔が曇っていた。

「わかったんですか?宇佐美のこと」

 仁はリッキーへの返事を躊躇った。どう伝えればいいのかわからない。そんな雰囲気を漂わせていた。

「だーもう!じれってぇなぁダンナ!」

 剛が頭を掻きむしる。乙は眉を潜め、

「病室ではお静かにー…!」

 と注意する。それに構うことなく、剛は仁に詰め寄った。

「俺達のやるこたぁ守ることだろ!明良だって理解して腹括ってる!迷う必要ねぇよ!」

 剛に押し切られ、仁は口を開いた。

「…実はな、宇佐美には配偶者がいる。いや、正確にはいたんだ」

「それがどうしたんだよ?」

「宇佐美は婿入りしていてな、子供は母親姓なんだ。名字は…」

 仁の瞳が乙に向く。

「『駒沢』」

 部屋全体に緊張が走る。乙が尋ねた。

「…名前はー…?」

 喉の渇きが著しくなる。唇がパサつく。ようやく、仁は意を決した。

「…『明良』だ」

 明良の肺が酸素を求め、膨らんだり萎んだりを繰り返す。何かが胸を圧迫する。忘れていた記憶。その断片が、ナイフのように刺してくる。

「宇佐美…です」

「好きなんですね、音楽」

「君の傍にいたい」

「乙?甲だけに?面白いなぁ、明良は」

「流奈…アルビノだって。このままだと、長くは生きられないらしい。でも大丈夫だ。僕がいる。何より…君がいる」

「もう、おしまいだ…君のいない世界なんて…」

 頭が痛い。全身の関節が軋む。まるで、オイルの切れたロボットみたいに。

「偶然ですよ、偶然!だってほら、明良ちゃん15歳ですよ?持っていたカードに書いてあったじゃないですか。あり得ませんって!」

「…とにかく、宇佐美を止めねぇとな」

 動悸。指の痙攣。皮肉にも、そんな身体の警鐘が、明良の意識をその場に留めてくれてしまった。

「私も…行きます。何となくじゃない。私が行かなきゃ…私が立ち向かわなきゃ…いけないことだから」

 かくして、アマカゼ一同は宇佐美がラジオを配信した場所と思われる廃墟の近隣に赴いた。

「静かですね…皆さん」

 寂れた建物を遠目に、明良が呟く。リッキーが聞くだけで息も詰まるような声で返事する。

「喋る気分になれないよ」

 知っている。騒ぐのは気を紛らせるため。痛い、怖い、死にたくない。心の弱さを隠したいから。強いと思い込みたいから。けれど今は、思い込める余裕も無い。

 荒れ野を歩く。真夏の暑さでひび割れている。

「…どうして、名字が違うんでしょうか」

 堪忍袋の緒が切れたとばかりに、先頭のリッキーが足を止めて叫んだ。

「君じゃないからだろ!」

 振り向き、明良の両肩を掴む。

「やめなよー…リキさーん…」

「じゃあ乙ちゃんはこの子がお母さんだって信じるのか?宇佐美の奥さんだって!全部偶然じゃないか!何もかも全部!そんなのに振り回されて、バカみたいじゃないか、オレ達!」

 息を荒くするリッキーに、剛が語りかける。

「とりあえず、手をどけろよ」

 震える指が明良から離れる。

「こんだけ色々ありゃあよ、偶然で済まされねぇのはバカな俺でもわかるぜ?」

「当然だろ!わかるよ!偶然なんかじゃないことぐらい!本当じゃないにせよ、何かしら繋がりがあることぐらい!薄々勘づくよ!でも信じたいんだよ、出来すぎた偶然だって!だって…」

 リッキーが膝から崩れ落ちる。溝を涙の粒が潤す。

「怖いんだよ…今が壊れそうな気がして…認めちゃったらさ…明良ちゃんが、消えそうな気がしてさ…」

 肩を揺らして泣くリッキーに、明良は目線を合わせて抱きしめた。

「大丈夫です。どこにも行きません。だって私は、アマカゼの潜明良ですから」

 その姿はまるで、幼子をあやす母親のようだった。

 通信機から、仁が呼びかける。

「今、警察から寺の方にレシーバーズがいると連絡が入った。二手に分かれて動いてくれ」

 と言っても、移動手段は明良もといクリスタルダイバーの変形した車しか無い。これから向かう先は廃墟なだけに、シャッフルタクトの能力は機能しづらい。必然的にメンバーは決まっていた。

「じゃあ、お願いします」

「必ず…戻ってきてね」

 リッキーの言葉に答える代わりに、クリスタルダイバーはシャッフルタクトを乗せて寺まで走っていった。轍を消すように、砂煙が覆い被さった。


 寺に向かう甲の面持ちは芳しくなかった。無精髭の生えた顎を掻く。

「ホント、面白いことしやがる…」

 脳裏をよぎる光景。入り組んだ山道を進めば、嫌でも思い出してしまう。

「甲さん」

 見える、聞こえる。妻の顔、妻の声。

「音って好きです。どこにでもあって、独りにさせない。優しいじゃないですか、音って」

「うるせぇ!」

 音波で雑木林がへし折られる。甲は頭を抱えて呻いた。

「じゃあ、何で俺は独りなんだ…」

 何もかもが消え去った。学会が自分の研究方針を理解しなかったことなど、どうでもよかった。細胞培養──つまりクローン生成など、いつか生きる意味を知れればいいと思ってやってきただけの、いわば『暇潰し』だったのだから。

 必要なのは音だけだった。その音だけが生きる意味だった。

「何で謝るんですか?むしろありがとうです。貯金─甲さんの頑張ってきた証─のおかげで、生活には困らないんですから。今はゆっくりお休みしてください」

 音。一年後、この世を旅立つことを知らない者の、慈しみに満ちた音。突如謎の怪物が落とした雷は、そんな音を出す瞬間さえ奪った。流奈が産まれた、ほんの一ヶ月後のことだった。

 小さな薬局の面接から帰ってくると、我が家は全焼していた。

「明良!流奈!」

 焦げた瓦礫の中から二人を探す。乙は学校に避難している、きっと大丈夫。だから、二人も大丈夫。言っていたから。音は独りにさせないと。だから…

「明良──」

 瓦礫の下に潜っていたのは、泣きもしない赤子を抱きかかえた、母親の死体だった。人間とは不思議なもので、世界が終わるその時、泣き叫ぶよりも沈黙を選ぶ。圧倒的な暗闇の中で立ち止まってしまう。

「もう…おしまいだ。君のいない世界なんて…」

 甦ってほしい。もう一度笑ってほしい。もう一度…生き甲斐になってほしい。

 気づけば明良と流奈の髪を手に、古びた寺へ足を踏み入れていた。ここなら静かに研究ができる。二人を甦らせて迎えに行くから。待っていてほしい、乙。

 細胞培養剤の効果は絶大だった。蘇生させた明良は、寸部違わず元の形を保っていた。成功したのだ。そう思っていた。しかし、

「私は誰ですか?」

 すっかり記憶が抜け落ち、流奈のような赤子になってしまっていた。流奈はそれでもよかった。クローンでもアルビノは変わらなかったが、愛情は変わらず注いだ。

 だが、予想外の事態が起きた。レシーバーズが寺に近寄ってきたのだ。立つことも困難な震動で、あろうことか流奈を手離してしまった。連れて戻ろうとしたが、果てしなく巨大なレシーバーズを前に、そのような勇気は消え失せてしまった。明良の手を引き、命からがら逃げた。

 それから、悪夢にうなされるようになった。流奈の霊が囁くのだ。

「どうして見殺しにしたの?」

 と。毛髪さえ得られなかったのだから、いくら細胞培養剤の製造法を知っていようと意味を成さなかった。

 どうしてこうなった?決まっているじゃないか。レシーバーズだ。何がアマカゼの奇跡だ、何が英雄だ。明良も、流奈も助けてくれなかったくせに。

 不幸は重なった。甦った明良は寿命が著しく短かった。一ヶ月でももてば御の字、といった具合で、共に暮らすなど不可能に等しいことだった。

 自分の身にも異変が生じた。精神的な憔悴が身体にも影響を及ぼし、著しい体力低下を招いていた。タイムリミットは一年と無い身だった。

 解決法は無いわけではなかった。レシーバーズの細胞だ。悔しいが、その生命力を利用するしか、自分と明良が生きられる道は残されていなかった。とはいえ、都合よくレシーバーズの細胞を採取できるほど状況は甘くない。

 そう思った矢先、初めてレシーバーズに人間と大差ない意識があることを知らしめた事件を、百獣村の戦いのことを思い出した。あの時、ミストゲイルの周囲には血が落ちていた。血痕はそう簡単に消えるものではない。これだ。

 こうして、ミストゲイルの血痕から得た細胞を融合させ、新しい明良を造った。それでも記憶は戻らない。何度過去の出来事を教えても変化は無い。

「違う、お前じゃない!」

 新しく得た力で何度も脳細胞を破壊しては培養してやり直した。根本的な記憶を呼び覚ます方法がわからなかった。鍵のかかった部分を解錠できなかった。

 いつしか、7年が過ぎていた。何もかもから逃げ出したくなって、酒浸りになっていた。酔いの誘う眠りに落ち、夢を見た。他愛も無い会話で、どうしようもなく心が救われた頃のこと。

「明良見つけた」

「高校のアルバムじゃないですか!恥ずかしいですよ、もう」

「ごめんごめん。でも、この時から出会えていたら…」

 この時から出会えていたら、もっと違う人生だったのかな。学会を追放されることもなく、あんな面接することもなく、明良の傍にいられたのかな。

 目を覚ますと、髪の毛の持つ情報から15歳の肉体を作れるように調整をはかった。まず、失敗作を粉々に壊した。『明良』になれないのなら、それはただの肉塊だ。

 次に、調整した細胞培養剤を溶かした液体に肉塊を浸し、15歳の肉体に生まれ変わらせた。細胞培養液から出てきた明良は、アルバムの姿そのままだった。

 とはいえ、明良はもう駒沢でも宇佐美でもない。レシーバーズの身体を得てしまった以上、完全に同じとは言えない。あくまで肉体は器でしかないといえど、その線引きはしなければ。

 奥底に潜ってしまった記憶が、幸せだった日が帰ってくることを祈ろう。カードにアルバムの顔写真を貼りつけ、造り直してきた数と新たな名前を書いた。『潜明良(もぐり あきら)』と。

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