第四節 形なき芯をもって
明良とリッキーは仁に言われ、とある場所へと向かっていた。さほど遠くはない、積もる話もある、といった事情なので徒歩を薦められた。
「ごめんなさいでした」
明良は目を伏せる。夏の日差しが目元に暗い影を生む。
「私、『パードレ』って言葉を聞いて、何故か怖くなって…怖いの、嫌だから…殺すつもりもなかったし、あんなに怒るつもりもなかったんです」
リッキーは前を向いたまま返事した。
「全部わかってたよ。君が怖がっていたのも、それを誤魔化そうとしたのも」
反射的に明良の顔が上がる。淡々とリッキーは続けた。
「でも、オレが怒ったのはそんなことじゃない。最初に君は言ったよね?オレ達から色んなことを学びたいって。なのに突っ走って、先走って。それで何を学べるんだ?」
リッキーの足が止まる。明良の顔を覗いて言った。
「記憶が無いんならさ、せめて今の自分の芯ぐらい、曲げないでいようよ」
明良は立ち尽くした。今の自分が見えない。学びたいとは言った。しかし、何を学びたいのかわからない。今の自分の形を、具体的な言葉にできずにいた。
顔のこわばる明良の手を取り、リッキーは微笑んだ。
「大丈夫。見つかるよ、これから」
明良は歩いた。胸に温度を感じた。
しばらく歩いた後、二人が入ったのは端麗な造りの呉服屋であった。店の上には『いとが屋』と書かれてある。
障子を開ける。絢爛なものから洗練されたものまで、多くの服や生地が一面の景色を彩っていた。提灯の明かりが嫋(たお)やかに照らす。糸の一本一本まで見えそうなほどの精緻さだった。明良は息を呑み、言葉も出なかった。
真向かいから人が現れた。
「いらっしゃいませ。何か御探しでしょうか」
その女性を一言で形容するなら、大和撫子以外には無いと断じることができる。そんな風貌を漂わせる人だった。リッキーの顔が綻ぶ。
「久しぶり、皐姫姉さん!」
糸ヶ谷皐姫(いとがや さつき)も笑顔を返した。
「優柔不断は直りましたか?リッキー」
会って早々リッキーは視線を逸らし、愛想笑いを浮かべる。
「痛い所を突くなぁ…」
皐姫はぼやくリッキーを見て、悪戯好きの子供のように笑った。
「ごめんなさい、少し意地悪でしたね。それより、そちらの御嬢様はどなたでしょうか?」
「潜明良ちゃん。昨日からアマカゼの一員になったんだ。記憶が無いから、そっち方面でも面倒を見ようかなって」
皐姫は明良の風貌をまじまじと見た。確かめた後、やおら呟く。
「本当によく似ている…」
感慨を誤魔化すようにして、皐姫はリッキーの方を向き直す。
「仁様は御元気で?」
「会ってもう6年になるけど、風邪ひいたとこすら見たこと無いよ」
「頑丈ですものね」
世間話にひとしきり花が咲いたので、リッキーは話題を切り替えた。
「今日来たのは明良ちゃんのことなんだ。色々教えてほしいんだよ、オレにやってくれたみたいに」
真剣な眼差しは皐姫が意図を汲むには十分だった。リッキーの時は仁がほとんど面倒を見てくれたけれど、などと口を挟む気さえ起きなかった。実際、リッキーがしてほしいことを思えば、仁より『彼』が適任だろうから。
「…わかりました。では、少し席を外しますね」
皐姫はその場を離れ、出てきた部屋へ入っていった。階段を昇る音と話し声が聞こえてくる。間もなく、足音が二つに増えて戻ってきた。明良は皐姫の後ろにいる、着物姿で二足歩行の銀狼を見て身構えた。
「ラバーズ!?」
「いいえ、違います」
「じゃあ…親御さん、ですか?」
滑稽に思ったのか、皐姫は不意に吹き出した。銀狼が眉を潜める。
「…失礼な奴だな、お前」
「ごめんなさい」
「俺はまだ14だ」
たくわえた髭をさすり、銀狼は不満を露にする。銀狼の皺の寄った眉を、皐姫が背伸びして撫でながら言う。
「ですが星牙(せいが)、狼の14歳は人間で言うと還暦に近いのですよ?御父様とほぼ同齢でございます」
「じゃあ何か、俺は幼妻を迎える不届き者じゃないか」
「不貞腐らないでくださいよ、もう」
とは言うが、お互い顔が弛緩していて到底怒っているようには見えない。明良は微かに思考し、大声を上げた。
「二人は夫婦!?」
皐姫は紅潮し、頬に手を当てる。
「そんなにはっきりと仰られては照れます」
星牙は皐姫の肩を抱き、得意気に胸を張る。
「ご名答!この見目麗しい美女の夫、それが俺だ!」
「新婚さんなんだよ、あの二人」
リッキーが小声で補足する。
突如、星牙と皐姫は神妙な顔で語り始めた。
「ここまで長かった…!」
「プロポーズはあなたからでしたね」
「幾度のアタックが功を奏し、OKをもらえた時は有頂天になったものだ」
「しかし立ちはだかる両親の許可!」
「家の中じゃ飼い犬のフリしていたからなぁ、正体を明かすのさえ心労が尽きなかった!」
「ですが、運命の赤い糸は私達に味方しました」
「さすが皐姫のご両親、器が広い!俺の正体を知るや犬神様の化身と崇め、結婚の許可までいただけた!」
「絶滅したニホンオオカミに勝るとも劣らないこの毛並みを見て、両親は私達が神に見初められたのだと言っていました」
「俺はこんなにも生きていて嬉しいと思ったことはない!出会ってくれてありがとう、皐姫…!」
「星牙…!」
「皐姫…!」
「星牙…!」
愛の劇場が堂々巡りを始めると感じたリッキーは、すかさず咳払いをした。
「お二人さん、本題はこっち」
明良を指さす。皐姫と星牙は我に返り、全身を上昇する羞恥心に火照る。
「…では明良、星牙に習いましょうか。あなたの教わりたいものを」
「よし、何を知りたいんだ?明良。何でも答えてやろう」
背筋を伸ばし、硬直しながら互いに指を絡ませる二人に、リッキーは冷淡な眼差しを向ける。何とも言えない空気をよそに、明良は言った。
「私、知りたいんです。今の自分の形を。何を目指すべきか、どうあるべきか。何もわからないから、せめて何か一つでも持っていたいんです。自分の芯、というものを」
それを聞くと一変、皐姫と星牙の瞳は真摯に明良を見据えた。途端に張り詰めた空気の中、星牙は話を切り出す。
「一度、手合わせをしよう」
皐姫の姿が変貌し、桃色の糸がどこからともなくスーツと刀を取り出してきた。星牙は瞬く間に着替え、久方ぶりの感触を確かめた。
「やはり良いものだ。身も心も引き締まる」
「夏仕様に仕立て直しました。涼しいでしょう?中に着ても大丈夫ですよ」
普段、星牙は分厚い毛の中にスーツを着込んでいるが、夏の時期はさすがに脱いでいる。また、戦闘用の一張羅でもあるため、みだりにスーツ姿になることは無い。そうした事情ゆえ、星牙がスーツを着るのはアマカゼの奇跡以降、実に7年ぶりのことなのであった。
星牙は鋭い牙を見せてニヤつく。
「さすが、俺の妻だ」
明良は身震いした。目の前に立つ髭を生やした狼は、先刻の愛妻家ではなく、戦士の佇まいをしていた。
「裏庭に来い。相手をしてやる」
固唾を呑む。
「…お願い、します」
裏庭に出てすぐ、星牙は抜刀して構えた。土をすり足で滑る。ただそれだけの動作なのに、威圧感が毛の一本一本から放たれていた。
「どうした、変貌しないのか?」
星牙に促され、明良はクリスタルダイバーとなった。
「水のような青…いい色だ」
「ありがとうございます」
礼を言った直後、目にも止まらぬ速さでクリスタルダイバーは背後をとられた。刀の頭(かしら)で押され、クリスタルダイバーは転ぶ。立ち上がる隙もなく、頭による突きが連続して行われる。
「何もしないのか!」
「できないんですよ!」
すると星牙は攻撃をやめ、仁王立ちをした。
「なら、好きにしろ」
息も整わないまま、クリスタルダイバーは突進した。だが、寸前で星牙の膝に弾かれる。何度試しても、全て同じ方法で妨げられる。
「手ぐらい使わせろ」
「できたら苦労しませんよ」
星牙は深いため息をついた。
「こちらから押せばできない、受け身になってやってもできない。お前は何なんだ?」
それを知るためにここに来たのに。クリスタルダイバーは反論したかったが、肩で息をするので精一杯だった。容赦なく星牙は言葉を続ける。
「『できない』というのは、頭を使わない奴の発言だ。そういう奴に限って闇雲に先走り、仲間を危険に晒す。自分のしていることの重さもろくに知ろうとしない」
おもむろに歩み寄り、クリスタルダイバーを見下ろす。
「強者は頭を使う。諦めを知らず、常に疾走(はし)り続け、不可能に対して工夫し、風穴を空ける。その背中は世界さえも変える」
「そんな…偉くないですよ…私…記憶だって…無いのに…」
「ならばなれ!弱さに逃げるな!自分の芯ぐらい、自分で掴んでみせろ!」
星牙は7年間姿を見ない友と、7年間疾走(はし)り続けた友を脳裏に浮かべた。
クリスタルダイバーの瞳に空が映る。青い。まるで海が浮かんでいるみたいに。海。水。そうか──
クリスタルダイバーは身体を起こし、天に向かって叫んだ。記憶喪失がなんだ、自分が見えないからなんだ。それならいっそ、空(から)になってやる。
「吼えて強くなるなら苦労はしないぞ!」
星牙は楽しげに構え直した。クリスタルダイバーは突進する。だがぶつかる直前に液体となり、星牙を取り囲む形で散開した。
拡散した水が一斉に星牙を襲う。変幻自在に攻めるクリスタルダイバーを前に、星牙は刀を振った。土がめくれるほどの激しい風圧で、水が吹き飛ばされる。
「まさかこれで終わりじゃないよな?」
ふらつく脚でクリスタルダイバーは立ち上がる。
「当然!」
クリスタルダイバーの脚がジェット噴射口に変形する。キャタピラのような足裏が地面を捕らえて離さない。噴射口から勢いよく水が飛び出た。高速で突進し直したかと思うと、今度は足裏をバネに変えて上空へ跳ぶ。
星牙の頭上をとったクリスタルダイバーは腕をボウガンに変えて、星牙めがけて発射した。星牙は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「嫌な思い出だ、全く」
刃を前にしかけたがすんでのところで踏みとどまり、峰で矢を弾いた。明良は着地した直後、崩れるように倒れた。人体は1%でも水分を失えば著しく運動機能を損なう。ジェット噴射、ボウガン。最低でも5%は放出した。要するに、水分を使いすぎたのである。
すかさず星牙が介抱に向かう。
「大丈夫か!?」
明良は力なく、しかし強く口角を上げ、震える手を太陽にかざした。
「透けて見えます。手の平。水みたいに。これになります、私」
水、か。形は無い。だから何にでもなれる。何でも受け入れられる。
星牙は柔らかく微笑み、眠る明良に呟いた。
「あるじゃないか。立派な芯が」
鹿威しから、ゆっくりと水が滴り落ちる。竹の音が鳴り響いた。
某所にて。
「子羊達は皆アマカゼの手に落ちた…と」
電話口から聞こえる慌ただしい声。煩わしい。せっかくの年代物ウイスキーがまずくなる。
「心配するな。じきに『かの世』の宝も見つかる。その時は我々『プロミス』が覇者となる」
「しかしスポンサーにはどのようにご説明を…」
口ごたえをするな。電話越しに『波』を送る。断末魔が耳をつんざく。最期までうるさい奴だった。電話をポケットにしまい、ウイスキーをボトルから直接飲み干した。そして、巨大なケージの中で眠るいくつものレシーバーズを一瞥する。
「待ってろよ、明良。パードレが迎えに行ってやるからな」
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