第二節 記憶の無い少女
「…それで、連れてきたのがこの子ですか」
アマカゼ一同、取調室を借りて、記念公園で出会った少女と顔を突き合わせていた。
「ダンナ。コイツの名前、何てぇんだ?ダンベル何キロ持てんのかな?」
剛が力こぶを作る。
「タケさんそればっかだねー。それより、好きな曲の方が大事でしょー」
乙は片側のワイヤレスイヤホンを外し、『今日』聴いていたとあるジャズを垂れ流す。
「いや今一番大事なの、この子の名前だから。ですよね?指揮官」
リッキーが困った顔で尋ねる。仁は袋に包まれたカードを、机の上に置いた。カードには目の前の少女の顔写真と名前──潜明良(もぐり あきら)、そして不規則に並べられた番号が印刷されていた。
「君は、自分で持っていたこのカードのことも知らないんだね?」
明良は相槌をうった。横に広がることなく、後頭部から真っ直ぐ伸びた奇妙な髪型は、正面からはショートヘアーに見える。仁の目には架純が重なって仕方なかった。黒いショートヘアーというだけだろうに。
突拍子もなく、明良が問いかけた。
「ところで私、何されているんです?」
取調室に連れてくる際、仁は説明したはずだった。君のことを少し知りたいから、一緒に来てくれと。記憶がすぐに飛ぶのか、あるいは認識能力に問題があるのか。
すると、剛が身を乗り出した。
「取調だよトリシラベ!色んな話聞いたりカツ丼食ったりするんだよ!」
「食べるならもっとさっぱりしたヤツの方がいいですよねー。蕎麦とか」
「何でだよ?カツ丼の方がうめぇだろ、ゴーカイだし!」
「食べ物も事件も、スルッといきたいですからねー」
乙が無表情に頓珍漢な物言いをする。物静かな所は皐姫がよぎるのに、言うことは剛と同次元。どうも調子が狂う。
「そういうのはドラマの中だけだから。ホントはダメだからね、取調室で飲食するの」
リッキーのツッコミが入り、ようやく会話を前に進められる。かと思いきや、明良が恐ろしいことを口走った。
「トリシラベは色んな食べ物の話をするんですね!なるほど、勉強になります!私の好きな食べ物は…何でしたっけ?」
事態の着地点がまるで見えない取調に、仁が痺れを切らした。
「何のコントだこれ!…とにかく、君は本当に自分のこと、何も覚えていないんだね?」
「はい。全く」
あっけらかんと答えられる。いっそ清々しいほどだ。
「取り敢えず、今のやり取りで君が自分のことは知らない、でも言語能力に支障は無いってことは理解できた。じゃあ君に聞くけど、」
仁は目を伏せ呼吸を挟んだ。これから聞くことは、誰にとっても一番大事なことだから。
「…これから、どうしたい?」
空気が静まる。記憶喪失ながら、身の丈より大きなヘビ型のレシーバーズを瞬く間に殺してしまった少女だ。計り知れない実力を持っていると見ていいだろう。となると、この少女、潜明良の行く末はアマカゼにとって無関係とは言えなくなる。
「特に無いですけど…私、皆さんといてもいいですか?」
「どうして?」
明良は目を伏せ、胸に手を当てた。
「よくわかんないですけど、今、すっごくここが温かいんです。こんなの、初めてで。とっても良いなって思いました」
仁は胸を締めつけられる思いだった。大学生の頃、心と記憶に関する研究論文を見せてもらったことがある。人は正確に言うと記憶を紛失するのではなく、記憶に鍵をかけてしまうらしい。だから、昔のことを詳細に覚えていなくとも、記憶喪失であろうとも、感覚的な部分──例えば胸が熱くなるだとか──では、決して忘れることがないのだそうだ。
そうなると、彼女は生まれてこの方、胸が温かくなるような出来事に一度も巡り会えたことがないということになる。こんな子を無くすためのアマカゼだろうに。握り拳から血管が浮き出る。
「お願いします。私を、あなた達の仲間にしてくれませんか?」
この嘆願を聞き入れないわけにはいかない。認可しようと口を開きかけた仁の背後から、剛が言った。
「その前に、俺達の出すテストを受けてもらうぜ」
仁は剛の方を向く。何故か自信ありげな顔をしている。どういうつもりなのだろうか。
「おい、剛…!」
すると、剛が大きくニヤつき耳打ちした。
「心配すんなダンナ。俺達、アイツのこと、もっと知りてぇだけだから」
こうして、取調室を出たアマカゼ一同と明良は、アマカゼ本部のある防衛省近辺に設置された体育館に移動することとなった。
剛が倉庫からトレーニング器材を運び、得意気に宣言する。
「まず、オメーのマッスルを見せてもらうぜ。俺達アマカゼの仕事は、人を襲うレシーバーズを捕まえることだ。そのために欠かせないのは、何つってもマッスル!ってなわけで、第一テストはマッスルテストだ!」
『第一』ということは、何回かに分けて行うのだろうか。そんなことを考えている仁をよそに、明良は空手家さながらに気合いを込めた一礼をした。
「はい、頑張りマッスル!」
かけ声について多くは言及しない。
ところでこの第一テストだが、仁含めその場にいる全員が唖然とした。明良が涼しい顔で、最高重量のトレーニング器材を使いこなしていたからだ。
「こんな感じですか?」
と、バーベルを持ち上げながら剛に尋ねる様子は、剛がいたたまれなくなるほどだった。
「そ、そんな感じだ、マイブラザー!」
剛が声を震わせ虚勢を張る。見ているこちらの心痛が尽きない。憐憫と同時に、ますます仁は明良の素性について知りたくなった。華奢な腕から、人間変異型屈指の怪力を誇る剛さえ超越する少女か。
「じゃあー、次は第二テストですねー」
乙が提示したテスト内容は、音感テストであった。明良に楽譜を数枚渡し、乙は説明する。
「今から曲を流すんでー、どれがどの楽譜か当ててくださーい」
「記憶喪失なのに読めるのかな?楽譜」
リッキーの質問に答えづらかったのか、乙は口笛を吹いて知らんぷりをした。
「え、ちょっと、乙ちゃん!?」
仁は戸惑うリッキーの肩に手を置いた。
「今までのやり取りからして、明良は多分記憶が無いだけで知識はあるはずだ。でなけりゃ、まず言葉を使えない」
言わんとすることを察し、リッキーは改めて仁に確認をとるべく明文化した。
「つまり、記憶云々は関係なく、元から楽譜を読めるかどうかの問題でしかないってことですか」
「そういうこと」
記憶喪失にも程度がある。言葉や運動方法がわからない状態ならともかく、そうでもないのなら、大抵は詳細な情報を『封鎖』されただけの状態である。
要するに、余程でもないなら言動の優劣や善悪は、元の人間の出来不出来によるのである。裏を返せば、どれだけ記憶を消しても善人は善人で、悪人は悪人と言っているようなものなのだが。歯痒いが、それが現段階で確認されている記憶に関する研究結果なのだ。
曲が流れる。ブラームスの次はヴィヴァルディ、モーツァルト、シューベルト。クラシック音楽の巨匠達の曲が次々に奏でられる。
「気持ちいい音ですねぇ」
瞼を閉じ、明良が呟く。三角座りで小刻みに揺れる様子は、全くの畑違いだが、幼い頃の架純によく似ている。架純もこうやって音楽にノり、気づけば勝手に踊り出していた。
一通りの曲が流れ、乙は明良の前にレコード盤を並べた。
「じゃあ今の曲全部、どれがどの曲の楽譜か当てはめてくださーい」
リッキーが仁に恐る恐る囁く。
「やっぱりこれ、潜在能力の域を飛び越えているんじゃ…」
「いや、そうでもないぞ」
即座にレコード盤の上に楽譜を置く明良を見て、仁は息を呑んだ。いくら潜在能力に依るとはいえ、ここまで俊敏に判断できるものだろうか。記憶喪失自体が嘘という可能性も否定しきれない。
だが、嘘の確証も無い。つまり、信じがたいが、今のところ明良は潜在的に驚異の身体能力と音楽的素養を持つレシーバーズの少女ということになる。
「全問正かーい…凄いですねー…!」
顔色一つ変えずに、乙が驚嘆の息を漏らす。仁の心臓も鼓動を速めた。この少女、本当に何者なんだ?
「あ、最後はオレなのかな?」
リッキーが挙手する。
「じゃあ明良ちゃん、こっち来て」
「はーい!」
リッキーのもとへ天真爛漫に駆け寄る姿は架純を彷彿とさせる。それだけに、尚更心を掻き乱されるのだ。本当に…何者なんだ、君は。
「オレは考えてなかったけど…指揮官がやりたそうなこと、やってみようかなって思う。だからオレからの第三テストは、価値観テストに決めた」
潜めていた仁の眉が緩んだ。リッキーは周りの目を気にしがちだが、それ故に気配りが上手だ。彼の慮りにどれだけ救われたことか。
「これを見てほしい」
そう言って、リッキーはスマートフォンを明良に見せた。画面に書かれてあるのはラバーズ──一般に浸透した凶暴なレシーバーズの総称。rob(奪う)が由来の造語──の記事であった。内容は知っている。ラバーズを『駆除』するアマカゼを称賛するものだ。仁の顔が険しくなる。
「ここに書かれてあるのは嘘なんだけどね、皆信じてる。オレ達アマカゼは英雄ミストゲイルの意志を継いで、悪い奴等をやっつけるヒーロー集団なんだって。そういう漫画やゲームも山ほど出ている」
リッキーは次々に関連メディアの画像を見せた。架純が──いや、ミストゲイルが悪のラバーズ軍団を倒す物語の数々。ゲームキャラクターとして、性能だとか何だとかで語られる様子。7年経つが、未だに仁は慣れない。架純がしてきたことは、そんな軽いものじゃないだろう。見得を切れるものじゃないだろう。
「何だか、まるで良くないことみたいですね。悪者をやっつけているのに」
明良の言葉は、仁の撃鉄を打ちかねなかった。リッキーが話を続けなければ、怒鳴っていたと思う。無邪気と無神経は紙一重なのだ。
「違うんだ。問題の本質はそこじゃない。物事を善と悪で単純化していること、ラバーズなんて呼び方で過度に恐れや憎しみを増やしていることなんだ。確かに、被害者の気持ちは察するに余りあるけど、だからってこんなやり方してちゃ何も変わらない。向き合わなくちゃ、何も見えない」
仁は三人と出会ったばかりの頃を思い出した。三人とも、行き倒れていたところを警察に保護され、当時から指揮官として推薦されていた仁と数年にわたり関わり合ってきた。最初の頃の、凍りついた瞳を一生忘れることはない。幼い子供達がそんな目をできたのか。架純と無邪気に遊んでいた仁と同じ年頃の子供に、そんな目をさせた周囲はどうなっているんだ。
だから、全力で向かい合った。架純が命懸けで守ってくれた世界を恨まないように。何より、この子達の瞳を輝かせたかった。自分が生きていることを、素直に喜べる子でいてほしかった。
「指揮官の──仁兄さんの率いるアマカゼって組織は、そういうチームなんだよ」
明良は呆然としていた。記憶が無いなりに、思考を巡らせているのだろう。真剣に考えてくれている。
「…私、今はよくわかりません。何でダメなのか、どうするべきか。だから、皆から教わりたいです。マッスルの使い道も、音の楽しさも、色んなものとの向き合い方も」
ようやく仁は悟った。この子は水だ。まだ何の色も無い真水。物事を素直に受け止め、真摯に向き合う。これから、潜明良はどんな色にも染まれる。
こんな話を聞いたことがある。コップ一杯の水に、ほんの一つまみでも泥を入れてしまえば、それは汚水と呼ばざるを得ないのだと。
「明良。君に、レシーバーズとしての登録名をつける。本当は自分で決めてもらうんだけど、俺の願いを込めさせてほしい。いいかな?」
明良は頷いた。
「君には透き通る水晶のように、何の濁りも無く、深く物事を見つめてほしい。今日から君は、本質の探求者─クリスタルダイバー─だ」
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