チャプター18 「システムテスト」
このチャプターは、エンジンに興味がある人じゃないと、読むのが辛いと思います・・・。
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エン制部実験グループのシステムテストチームに配属され二日目。初日は電子制御スロットルバルブの仕様書を読むだけで終わってしまった。二日目の朝、俺は柴田主任に今日の業務内容を確認しに行った。
「柴田主任、今日は何をすれば良いでしょうか?」
「お前の担当は豊光自動車に決まったから、今日はまず豊光自動車から借りているQQっていう開発名の実験車両を使って、エンジンの始動繰り返し試験をしてくれ。」
「分かりました。その始動繰り返し試験のテスト方法等が書かれたテスト仕様書はありますか?」
「は?そんな仕様書なんてない。サーバーに過去に誰かがやった同じ試験の報告書があるからそれをみてやってくれ。」
う〜ん、これは酷い。過去の報告書を参考にするという部分は分かるが、テスト仕様書がないというのは実験グループとしてはあまりにもお粗末だ。前職場のインジェ部実験グループにはきちんと各種テストのためのテスト仕様書が揃えてあった。エン制部実験グループのQMS (品質マネジメントシステム)は一体どうなっているんだろうか?
「あの、前にいたインジェ部実験グループではテスト仕様書が整備されていたのですが・・・。」
「はぁ?ここをインジェ部なんかと一緒にすんな。俺たちのやってるシステムテストっていうのは、そんな決まりきったようなテストなんてせんのや。毎回毎回その都度テストの内容を自分たちで考えて、どうやったら不具合を見つけられるかを考えながらやるんやっ。お前も過去の報告書を参考にして自分で考えろ。」
とかなりキレ気味に言われてしまった。流石に瞬間湯沸器を拝命するだけはある。
”どうやったら不具合を見つけられるか考える”という考えには賛同できるが、テスト仕様書も整備されていなければ、テストをする人によって内容と質にかなりバラツキが生じることになる。
「テストの内容や結果に不備があったら報告書を見てこっちが指摘して、追加の必要があったらまた指示するからとにかくやってみろ。」
この発言もおかしい。経験の浅い人間にまず好きなようにやらせてみて、あとにからそれをチェックして必要があれば追加でまたテストをやらせるなんて、無駄と手戻りの温床だ。
まずはテストの計画書を作成してそれを上司がチェックをして、この時点で不足があれば追加を指示するのが無駄がない。でも、この柴田主任には正論を言っても通用しないし、これ以上反論しても湯を沸かす光熱費の無駄だ。
俺は仕方無しにサーバーに保管されている過去のエンジン始動繰り返し試験の報告書を印刷し、それを参考にテスト計画をたてることとした。
この過去の”エンジン始動繰り返し試験”の報告書の作成者は隣の席の田中くんだった。この報告書によると、この試験は実験車両を使ってエンジンの始動をとにかく何回も繰り返す試験らしい。その回数はなんと3000回。田中くんはひたすら自らの手でエンジン始動を繰り返したらしい。一体どれだけの時間をかけたのだろうか?
しかしこのテストの報告書は表紙の1枚しかない。エンジン始動の回数とその結果は問題なし。ただそれだけだ。あとはどの試験車両を使って、いつやったか程度しか書かれていない。インジェ部実験グループの報告書と比較してあまりにも質素で粗末だった。
インジェ部実験グループでは報告書の書き方もきちんと規則が決められてあって、表紙1枚だけで終わることなど皆無だった。表紙にも最低でもそのテストをする目的やテスト方法やテストで使用した各種計測器や設備の名前、テスト結果についてもどのような結果を見てどういう結論に至ったのか、その理由まで記載するように決められている。また、表紙だけではなく、計測器から得られた各種データも印刷して解説を追記して添付することも求められている。
この報告書がそのままサーバーに保管されているということは、この報告書は柴田主任と東野係長と玉田課長のチェックを通ったということだ。報告書の表紙にはその3人がチェックしたことを表すサインも残っている。エン制部実験グループに対して非常に不安になってしまった・・・。
田中くんの報告書だけでは”エンジン始動繰り返し試験”の参考にはならなかったため、他の人が作成した報告書も探してみたが、結局、どれもこれも似たようなものだった。他のテストの報告書の中には、非常に詳しく結果が残されているモノもあったのだが、エンジン始動繰り返し試験は酷いものだった。
テストをした人も若手が多く、ベテランは全くやっていなかった。察するにこのエンジン始動繰り返し試験は新人用のシステムテストに慣れるためのテストなのだろう。これまでのこのテストの結果も問題なしがずっと続いている。
ここは一つ、柴田主任の言うとおり”どうやったら不具合を見つけられるか”を考えてテスト計画をしてやろうと思った。
まずは目的だ。今回試験するのは豊光自動車の新型開発車両の試作車である開発名”QQ”という車両だ。この新型車両だが特に目新しい技術が使われているわけではないが、エンジンだけは豊光自動車が外部のエンジン開発会社「ダンディ」と共同して開発している。
このダンディは日本の”豊光自動車”と、ドイツの大手カーメーカーである”カール自動車”と、韓国の大手カーメーカーである”未来(ミレ)自動車”の三社が共同出資し設立された合弁会社だ。基本設計は共通化しており、各カーメーカー毎に独自の付加価値を追加できる設計となっている。
”QQ”はこのダンディエンジンのうち、1.8Lの排気量を持つエンジンを搭載している。直列4気筒エンジンでアルミシリンダーブロック、アルミシリンダーヘッドを採用している。とは言え、構造が新設計というだけで新たに特別な新技術が搭載されているわけではない。
吸気システムには電子制御スロットルバルブを搭載しているがそれ以外は至って普通だ。気筒判別にはエンジンのクランク軸の角度位置を知るための”クランクアングルセンサ”と、エンジンのカムの位置を知るための”カポジションセンサ”を組み合わせて行われている。これも特になんの変哲も無い。
普通のエンジン制御ではあるが、エンジンそのものは新型ではあるので、今回のテストの大きな目的としては従来のエンジンと比較して、エンジンの始動性に違いがないかの確認になるだろうか。いや、これでは問題ないという確認であって、不具合を見つけるためのテストになっていない。エンジン始動テストにおける不具合といえば、やはりエンジン始動が出来ないという事態が発生することだろう。
俺はこのテストにもっと付加価値をつけられないか考えてみた。まずエンジンが止まっている状態から回るためにはスターターによって回されないといけない。スターターによって回されたエンジンは前述のクランクアングルセンサーとカムポジションセンサーの信号によって、現在どの気筒が”吸気→圧縮→膨張(爆発)→排気の4サイクルのどの状態であるかを判別し、それぞれの気筒で最適なタイミングでインジェクターによる燃料噴射と点火コイルによる点火を制御する。
そもそも最初にスターターが回るためには、ドライバーがイグニッションキーを回す必要がある。イグニッションキーをまず一つ右に回すと”イグニッションオン”という状態になる。
この時エンジンルームに載せられている12ボルトのバッテリーの電圧がECUをはじめとした自動車に搭載されている各コンピュータに供給される。次にイグニッションキーをさらに右に回すと”クランキングオン”という状態になり、バッテリー電圧がスターターに供給されスターター内のモーターが回ることでエンジンを回すことになる。
このスターターモーターがエンジンを回す力はバッテリーの充電状況に依存する。バッテリーが十分に充電されていればスターターモーターは元気よく回るし、充電が少なければスターターモーターの力は弱くなる。
過去の田中くんたちのエンジン始動繰り返し試験では、バッテリーは常に十分に充電された状態で試験をしていたようだ。俺は今回のテストはバッテリーの充電状態に変化を与えることにしてみた。
バッテリーへの変化の与え方はこうだ。自動車はエンジンが回るとエンジンとベルトで接続されているオルタネーター(発電機)も回され、オルタネーターが発電することで常にバッテリーに充電されることになる。
過去の始動繰り返し試験では、バッテリーが充電不足にならないように、エンジンを始動してから約2分間はエンジンを止めずに回しっぱなしにしていた。これはオルタネーターによるバッテリーの充電時間を確保することと、連続でスターターを動かしすぎるとスターターが壊れてしまう恐れがあるからだ。
今回もスターターが壊れることを防ぐためにも始動から次の始動までの時間の2分間は確保することにした。だが、このままではオルタネーターによる発電と充電で、バッテリーはいつまでも元気なまま。
そこで俺はオルタネーターとバッテリーを接続している間のケーブルを取り外すことにした。こうするとオルタネーターによる充電ができなくなり、エンジン始動繰り返しを続けると、バッテリーは徐々に充電不足になっていき、最終的には電圧不足でスターターが回らなくなりエンジンも始動ができなくなる。”バッテリーあがり”と言われる状態だ。今回、俺はこれを付加価値として追加することにした。
しかし、このやり方をするとしても”バッテリーあがり”はそう簡単には起きない。そのためにはエンジンの始動を何十回、何百回と繰り返さないといけない。俺は田中くんのように、全てを手動でやることはしたくなかった。できれば手動ではなく自動化をしたい。そこで俺は一考した。
エンジンが回るためには前述したようにスターターを回す必要がある。そのスターターが回るには人の手でイグニッションキーを回す必要がある。
イグニッションキーをオンの状態から更に回すと、イグニッションキーシリンダーの中にあるクランキングスイッチがオンとなる。それによってバッテリーとスターターを繋げるためのリレーがオンとなり、バッテリーの電圧がスターターに供給されることになる。
ようするにこのリレーを動かすためのクランキングスイッチのオンとオフを自動でできるようにすればいいわけだ。
更にこのオンとオフの時間を任意に設定・変更できる尚の事良い。そこで俺はスイッチのオンとオフをさせるためにタイマーを使うことにした。
エン制部実験グループの実験場には様々な電子部品やハーネス等が容易されており、社員はこれをテストのために自由に使うことができるようになっている。俺はその中からポメヨン社製のソリッドステート・タイマーを使うことにした。
このポメヨン社製のタイマーは非常によくできていて、スイッチのオンの時間とオフの時間をそれぞれ個別に変更することができるようになっている。大学の研究室でも使ったことがあるので今回も使うことにした。
通常、エンジンの始動にかかる時間はドライバーがキーを回してから1秒以内に完了する。バッテリーの充電が不十分であがりかけている場合は、2〜3秒くらいかかることもある。そこで俺はタイマーがクランキングスイッチをオンにする時間を1.5秒とした。このオン時間をあまりに長くすると、エンジンがかかっているのにも関わらずスターターを回し続けることになり、スターターにもエンジンにも余計な負荷がかかってしまう。
本当であれば、人の手の操作のようにエンジンがかかったと判断したら、キーを回す手を離す (クランキングスイッチをオフにする)ということを機械的にできるようにしたいところだが、今回はそこまでの装置を作る時間がない。これはそのうち改良することにしようと思う。
そして人の操作と同じように、イグニッションスイッチオン→クランキングスイッチオン→クランキングスイッチオフ→イグニッションスイッチオフという一連の流れを実現するために、ポメヨン社製のタイマーを2つ使うことにした。
まず1つ目のタイマーでイグニッションスイッチのオンとオフを設定することにする。オンの時間は2分間でオフの時間は10秒間だ。
次に1つ目のタイマーがオンすることに連動して2つ目のタイマーにも電源が入るようにする。2つ目のタイマーはクランキングスイッチのオンとオフを設定する。2つ目のタイマーはオフから始まるように設定し、オフ時間は1秒間、オン時間 (クランキング時間)を1.5秒間とした。
また、このままだと2つ目のタイマーは1秒のオフと1.5秒のオンを連続で繰り返すようになってしまうため、一回の電源投入時にはオフとオンを1回しか実行しないようにも設定した。こういう細かい設定ができるのもポメヨン社製のタイマーの素晴らしいところだ。
俺はこれらのタイマースイッチを”QQ”の実験車両に持っていき、早速取り付けることにした。
キーシリンダーの中のどこの配線がイグニッションスイッチで、クランキングスイッチであるからは、自動車の整備解説書を見れば知ることができる。
エン制部実験グループには豊光自動車だけでなく、国内外で販売されている全ての市販車の整備解説書が完備されている。これは自社製品のテストで使うためだけではなく、時には他社製品の調査「ベンチマーク」をするためでもあるからだ。
自動車のキーシリンダーなどの基本的な構造と配線は各カーメーカーごとに異なるが、同じカーメーカーであれば車種が違ってもほぼ同じに作られている。これはなるべく部品を共通化して調達・製造コストを下げるための企業努力だ。
”QQ”はまだ開発車両であるため、当然ながら整備解説書は存在しない。そのため俺は豊光自動車の中でなるべく新しく、同じ1.8Lエンジンの車両の整備解説書を持ってきてキーシリンダーの配線確認をした。案の定、市販車と”QQ”ではキーシリンダーの構造もそこに繋がるコネクターの形状と配線も同じだった。
俺は2つのタイマーをキーシリンダーのコネクターに配線されている、イグニッションスイッチとクランキングスイッチにそれぞれ配線し、簡単にきちんと動作すること確認した。
これで自動でエンジンの始動を繰り返す仕掛けは完了だ。手動で何百回・何千回もキーを回すなんて全くナンセンスだと思う。一番ナンセンスなのは新人に仕事を経験させるためとは言え、キーを回してエンジンをかけるだけという単調な繰り返し作業をやらせる教育の仕方だと思う。こういうくだらない伝統はいつか廃止しないといけない。
さて、テストの仕掛けが出来上がった次は、テストにおいて何を計測するかというところを考えなければいけない。田中くんの過去の報告書ではテスト結果だけが記載されており、試験で計測したデータがなにも掲載されていなかった。俺はまず経験者の田中くんに当時のテストの様子を聞いてみることにした。
”QQ”の実験車両が置かれている車両実験場から事務所に戻ると、田中くんも別の実験場から戻ってきたところだった。どことなく顔色が悪い。何かあったのだろうか?少し心配にはなったが、俺は過去に田中くんが行ったエンジン始動繰り返し試験について聞いてみた。
「田中くん、俺、いま”QQ”でエンジンの始動繰り返しテストをする準備をしてて、前に田中くんがやった時のことで教えて欲しいことがあるんやけど。」
「あ〜、あのテストね。あれは新人にやらせることが恒例になっているらしいよ。テストも別に不具合を見つけようという目的じゃなくて、とりあえず実験車両を使ったテストを経験させるためだけのテストだよ。」
「なるほど、やっぱそうなんやね。ところで、前に田中くんがテストした時の報告書は表紙しかなかったんやけど、データ計測とかってどうしてたん?なにか計測な必要なデータとかってあるんかな?」
「いや、僕がやった時はエンジンをひたすら繰り返してかけるっていうだけで、計測器とは何も繋げなくてデータなんて何も取ってなかったよ。」
まじか・・・。それってテストでもなんでもなくてただの”作業”だ。
「そうなんや・・・、わかった。ありがとう」
ある程度予想はしていたが、ちょっと酷いと思った。俺の絶対記憶の中にあるインジェ部実験グループのエガちゃんからかつて言われた言葉が浮かんできた。
「高坂、実験グループは計測してデータを残してなんぼだ。データを取らない実験グループはエンジニアじゃない、ただの作業者・ワーカーだ。データも計測するだけなくそれをよく読み取って、解析して良否判断までするのが実験グループとしてのエンジニアの仕事だぞ。」
こう言われながら、エガちゃんの右の鼻の穴から長い鼻毛が一本はみ出していた映像まではっきり思い出すことができる。
まぁそれはおいといて、俺はエガちゃんに日々そう言われながらインジェ部実験グループで過ごした日を思い返した。エガちゃんはマラソン命・飲み会命で、時には無茶なことも言うけども、実験グループのエンジニアとしての基本はきちんと持っていたんだということを離れてみて初めて理解した。
”切らして知る有り難さ、電池と石鹸、トイレットペーパー”
某ホームセンターのCMのキャッチコピーがなぜか頭に浮かんだ。
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このチャプターを最後までお読みいただきありがとうございます!
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