チャプター17 「電子制御スロットルバルブ」

 俺は柴田主任に渡された電子制御スロットルバルブの制御仕様書を読み始めた。この制御仕様書はA4で約200ページほどある。と言っても絶対記憶のある俺にとってはこの程度の資料を読むことなど造作もないことで、パラパラと素早くページをめくるのみだ。その様子を見ていたのか隣の席の男性が俺に話しかけてきた。


「高坂くんって言うんだ。僕は田中って言うんだ。よろしくね。その資料だけど、あんな渡され方したら読みたくなくなるとは思うけど、ちゃんと読んで理解していないと後でまた確認テストをされて、答えられなかったらグチグチ言われるよ。」


 この田中という人物は23歳で月座電機の正社員ではなく派遣社員とのことだ。今年の春から新卒で派遣会社に入社してそのまま月座電機に派遣されたらしいので、年齢は下だけどエン制部実験グループでは数ヶ月だけ先輩だ。なんかすごくおどおどした印象を受ける。まるでひまわりの種をもらったけど誰にも奪われないように一生懸命すぐに隠そうとしているハムスターのような感じだが、決してハムスターのように愛嬌があるわけではない。


 そんな失礼な思考など表に出すわけもなく俺は、

「ありがとうございます。俺、文字を読むの早いんで、こう見えてもちゃんと読んでるんで大丈夫ですよ。」

「そうなんだ・・・。すごいね。あ、あと僕の方が年下なんて敬語使わなくてもいいよ。それに僕は派遣社員だし・・・」

それになんか卑屈な性格なのかもしれない。


「そう。分かった。こっちこそよろしく。何かわからないことがあったらいろいろ教えてくれると助かる。」

「僕なんてまだ数ヶ月しか経験がないから、教えられるようなことなんてほとんどないけどね。」


 そんなことはないだろう。実験グループでの業務の作法や、あの嫌な上司たちとの付き合い方なんか教えてもらえるとありがたい。そんな軽い会話を終えて、俺は再び資料をめくり始めた。



 ここで電子制御スロットルバルブについてのうんちくです。チャプター4で電子制御スロットルバルブについて軽く説明していますが、もうちょっと説明を付け加えたいと思います。


 この電子制御スロットルのシステムは別の言い方で「ドライブ・バイ・ワイヤ」(Drive By Wire)とも呼ばれている。このシステムは元はと言えば航空機の操縦制御システムである「フライ・バイ・ワイヤ」(Fly By Wire)からきている。


 それまでは操縦桿やアクセルペダルと機械的に接続され、そこから油圧などをつかって各種操作をしてきたシステムに対し、人が操作する部分にセンサーを搭載し、操作量や操作速度を電気的に読み込むことで、機械的ではなく電線で接続された操作対象のモノを動かすという仕組みだ。


 このフライ・バイ・ワイヤだけど、自動車で積極的に使われ始めたのは市販の乗用車ではなく、F1レースの世界だ。F1マシンのエンジンは馬力が出るエンジン回転数のゾーンが非常に狭く、そのゾーンにつねに入るように綿密にスロットルバルブを操作する必要性から重用されるようになった。


 その後、そのシステムが乗用車にも使われるようになっている。なのでレース業界ではドライブ・バイ・ワイヤのことを未だにフライ・バイ・ワイヤ、もしくはスロットル・バイ・ワイヤと読んでいる人もいるくらいだ。



 このドライブ・バイ・ワイヤこと電子制御スロットルバルブのシステムは、制御が難しい反面、多くのメリットがある。いくつか代表的なメリットを並べるとこんな感じだ。


・エンジンの吸入空気量を常に最適にコントロールすることにより、燃費に寄与できる。

・ATやCVTなどのトランスミッションと協調することで、余計な変速ショックや加速ショックを減らすことができる。

・機械式に比べスロットルバルブの配置の自由度があがる。

・定速走行装置(クルーズコントロールシステム)の実現が容易である。


 メリットがあるということはデメリットもあるということだ。代表的なデメリットはこんな感じだ。


・電子制御スロットルを動かすための各コンポーネント(ECU・センサー・モーター)が故障や誤動作を起こすと、意図しないエンジン出力のアップやエンストが発生する恐れがある。


 この点、機械式のスロットルバルブの場合は、アクセルとスロットルをつなぐワイヤが切断されたとしても、スロットルバルブはバネの力で閉じる方向に動作するため暴走には至らず、バネの力でバルブが一番閉じた状態になっても、予めわずかに隙間があるように設計しているのでエンストになることもない。


・エンジンの暴走やエンストを防ぐために、多重の故障検知やフェールセーフシステムを組み込む必要がある。これらの制御は複雑であり、開発・テストするための工数(時間とお金)が余計にかかる。


 これらのデメリットがあるにも関わらず、昨今の燃費向上の要求や、乗り心地の向上のために各カーメーカーやサプライヤーは苦心しつつ電子制御スロットルバルブの開発をしている。


 俺が柴田主任からもらった資料にはこんなメリット・デメリットなどは書かれていない。これらの知識は当然ながら学生時代に読み漁った書籍によるものだ。柴田主任は学生時代の勉強なんて大して役に立たないと言っていたが、そんなことはない。こうして立派に業務に直結している。

 

 ちなみに、この「なんとか・バイ・ワイヤ」という言い方は、電動パワステや電動ブレーキシステムでも疲れている。電動パワステなら「ステア・バイ・ワイヤ」で、電動ブレーキなら「ブレーキ・バイ・ワイヤ」といった感じだ。 



 これらの知識はチャプター4でも紹介したモンキーズ出版発行の「猿にはわからない自動車工学」に書かれている。この本は本当にオススメなので是非読んでもらいたい。



 一通り資料を読み終わった俺は、落ち着いて自席の周りを観察してみた。ソフトウェア・システムチームは全部で60人ほどの所帯で、そのうち半分づつくらいソフトウェアテストチームとシステムテストチームになっている。


 しかし事務所内を見てみると意外と空席が多い。俺の右隣は先程声をかけてくれた田中くんだが左隣は空席だ。事務所フロアの真ん中や東側に陣取っている適合チームとハードウェアチームの方も、ポツポツと空席がある。インジェ部にいた頃は、空席などほぼなかったのだがエン制部実験グループにはなぜか空席がよく見られる。


 ECUは言わば自動車におけるコンピュータの花形だ。それに相応しい利益も実績もあるので開発現場は常に多忙なはずだ。にも関わらず空席があるということは、単にスペース的に席があまっているか、人が集まらないかだ。だが、花形製造部であるエン制部に人が集まらない(配属されない)ということはありえない。とすれば考えられるのは入ってくる人よりも出ていく人(辞めていく人)が多いということだ。


 システムチームの柴田主任のような人がいれば、耐えられずに辞めていくというのもありえるかもとは思ってしまった。


 そうこうしている間に昼休みの時間になったので、俺はひとまずトイレに行くことにした。その俺の後ろから同期の鷹村が声をかけてきた。


「おい高坂、お前ヤバいところに入れられたな。」

「どういう意味や?」

「お前知らんのか?」

と鷹村は言って俺を人気のない廊下の隅っこへ誘った。


「エン制部実験グループは基本的にブラック職場っていうのは若手の間じゃ有名やねん。その中でもシステムテストチームは、ナメクジの東野に瞬間湯沸器の柴田で更に有名なのを知らんのか?」

「いや、聞いたことないな。そのナメクジに瞬間湯沸器ってのはなに?」

鷹村はさらに声を潜めて俺に教えてくれた。



「東野係長のナメクジってのは一つでもミスをしようもんなら、いつまでもネチネチと説教をすることから来ているらしい。柴田主任の瞬間湯沸器ってのは何かあると瞬間的にカーっと頭に血がのぼってキレることからきてるらしいで。」

「うわ〜それは聞いたことないけど、午前中のちょっとした会話だけでも少し察することができるわ・・・。」

「あと、お前も気がついたと思うけど、事務所にやたら空席があるやろ?あれは

仕事のハードさと人間関係のキツさから辞めていく人が多いからなんやで。」

なるほど、やはりそうだったか・・・。


「そういう鷹村のハードウェアチームはどうなんや?そこもキツイ人おるんか?」

「いや、幸いハードウェアチームは比較的温厚な人が多い。それに俺には憧れの玉ちゃん課長がおるからな。ちょっとやそっとじゃへこたれんぞ。」

「お前、玉田課長を狙ってるのか?変わった趣味してるな・・・。」

「お前には熟女の良さがわからんやろ。熟女を知らんなんて人生の半分は損しているで。とりあえず、昼飯行こうか。」

 俺は鷹村の力説する”熟女論”を聞きながら昼食をとることとなった。




**********


すみません。

うんちくだけになってしまいました・・・。

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