チャプター16 「ソフトウェア・システムチーム」

 俺は東野係長のあとに続いて、会議室を出た。エン制部実験グループの事務所フロアはエン制棟の2Fだ。そこに約200人の社員が在籍している。フロアは適合、ハードウェア、ソフトウェア・システムの各チームごとに簡易パーティションで区切られていて、フロアのほぼ中央に玉ちゃん課長の席がある。

 俺が配属されたソフトウェア・システムチームはフロアの一番西側に位置しており、メンバー約60人が在籍している。


 東野係長は俺を空いている席まで連れていき、

「ここが自分の席な。自分はうちのなかでもシステムチームに入ってもらうからな。ちょっとまってて主任読んで来るわ。」

そう言って席を離れると、小柄な男性を連れてきた。


 エン制部実験グループのソフトウェア・システムチームは更にソフトウェアテストチームとシステムテストチームに別れているらしい。ソフトウェアテストチームはソフトウェア設計が作成したソフトウェアのデバッグをメインで行っており、システムテストチームはそのソフトウェアをECUに書き込んだ状態のものを使って、各種テストを行っている。同じソフトウェア・システムチームではあるが業務内容はかなりの違いがあった。


「柴田主任、彼が今日からうちに来る高坂君や。じゃ、あとはよろしく頼むな。」

「わかりました。先週までいてた使えない新人みたいなんじゃないですよね?」

「相変わらず辛辣やな。まぁ、ええとこの大学出てるみたいやし、カスじゃないやろ。」


 二人共なんともキツイ物言いだ。先週までこの実験グループに配属されていた同期はどんなやつだったんだろうか・・・。


「俺が柴田や。ここのシステムチームの主任をやってるからよろしくな。先週までのヤツとは違うことを期待してるから頑張ってな。」


 う〜〜む・・・ハズレの部署に配属されてしまったかもしれない。個性はかなり特殊だったが、前のインジェ部実験グループのメンバーの方が既にまともに思えてきた。



「最初に業務内容について説明するな。ウチらの仕事はエン制部の製品がお客さんであるカーメーカーに出ていく前の最後のチェックポイントになる。ええ加減な仕事をして不具合を流出させてしまったらとんでもないことになる。その為には常日頃から目に見えるものを疑ってかかって、ホンマに問題がないのかを問い続けることを習慣づけなあかん。」

しゃべりはアレだが言っていることは的を得ていると思った。


「それとウチの仕事は特に合うヤツと合わんヤツがはっきりしてる。合わんと思ったら時間の無駄だからさっさと言ってくれ、こっちも合ってないなと思ったらすぐに対処するから。」

ここで言う”対処”とは他部署で飛ばすということなんだろうな・・・。



「分かりました。私もエンジンについては学生時代に少し勉強してきましたので、早くお役に立てるように頑張ります。」


「ほぉ〜、学生時代に勉強してきたか・・・。学生時代の勉強なんて大して役にたたんで。会社に入ってしまえば中学卒だろうが東大の大学院卒だろうが、スタートラインは一緒や。会社に入ってからどれだけ仕事ができるかが問題やで。」


 言いたいことはわからないでもないが、学生時代の勉強が全く役に立たないということはないだろう。今まで学生時代に遊びすぎて勉強を疎かにしてきた人間ばかり相手にしてきたのではないだろうか?


 確かに、旧帝国大学や有名私立大学に入ったからといって、在学中に全ての学生が等しく学業に専念しているわけではない。良い大学に入学できただけで人生の目標を達成したかのように、入学後は遊び呆ける人間が一定数いることも確かだ。


 だが、月座電機のような大手企業に入社するには、基本的に大学教授からの推薦がないと入社試験すら受けられないのが現実だ。せめて教授の目に留まる程度に勉学をしていないと推薦などもらえない。柴田主任が学生時代に遊び呆けた人間ばかりを相手にしてきたとは思えない。


「高坂がどれだけエンジンのことを知ってるか簡単にテストしたるわ。」

余計なお世話です。


「美作自動車が筒内直噴エンジンの車を作っているのを知ってるやろ?テレビCMでもよく”かあちゃんカッコイイ”のフレーズを言ってるやつな。直噴エンジンは燃費が良いって言われているけどなんで良いか知ってるか?」


 人気女優の飯田鮎子が出演しているテレビCMのことを言ってるんだな。あのCMはキャリアウーマンの人妻を飯田鮎子が演じており、主夫役の男性がそんなできる女房が颯爽と車に乗り込む姿を見て、「かあちゃんカッコイイ」と情けない顔でつぶやく姿がある意味話題となっている。女性にとっては強い女性の代弁で気分がよいかもしれないが、男性にとってはあまり気分が良いとは思えないだろうな。おっと思考が明後日の方向に飛んでしまった。


「エンジン筒内の点火コイルの近辺に、直接効率よく燃料を噴射させることで超希薄燃焼をすることができるからです。ガソリンエンジンにおける理論空燃比1:14.7に大して、美作自動車の直噴エンジンは最大で1:50までできると聞いています。」


「ほ・・・ほぉ〜、ある程度は勉強してるようやな。まぁこの程度くらいは知っておいてもらわんと使いもんにならんわ。」

そうは言っているが明らかに面白くなさそうな顔をしている。



「美作自動車の直噴エンジン用のECUはウチで開発してるんや。開発初期段階から東野係長と俺が関わってるんやで。」


 美作自動車の直噴エンジン搭載車は、世界初の直噴エンジンの量産車だ。その世界初の業績に関わったのだから、相当に自分の仕事に自信を持っているようだが、それにしてもこの柴田主任は相当にやっかいな性格をしていそうだ。今後長いこと付き合っていかないといけないだろうから、いろいろ気をつけないといけないな。


「わぁ、そうなんですか、すごいですね。世界初の量産ですもんね。難しい技術ですから苦労されたんですよね?」


 こういう人には不本意ながら必殺”よいしょ”が有効的だ。それに苦労自慢を促す合わせ技を組み入れた。


「そうやな、直噴自体も難しかったんやけど、それより苦労したんは電子制御スロットルバルブの方やな。あれには量産後の今でも苦労させられとるわ。」


(電子制御スロットルバルブについてはチャプター4で説明しているので読み返してみて欲しい)


 案の定、柴田主任は気分良く話はじめた。


「電子制御スロットルバルブは制御も難しくて、安全性を高めるためにスロットルバルブの位置検出するためのセンサーを2つ付けて二重系にしてるんや。で、もしそのセンサーを使った制御が誤動作をしたら、最悪、車が暴走する危険性があるから、ガッチガチに故障判定ロジックを組んでフェイルセーフを固めてるんやけど、その故障判定の誤検出問題が出てるんや。まだ原因が完全につかめてないねんけど、俺は故障判定の感度が高すぎるんやと思ってる。でも安全上そう簡単には故障感度を緩めるわけにもいかんのや。」


 フェイルセーフとは機器に何らかの異常や故障が発生したとしても、制御対象物が必ず安全方向に動作をするようにする仕組みのことだ。


 自動車のエンジンの場合、車が走行中に起こってはならない挙動として大きく2つある。一つは異常なエンジンの吹け上がりと、もう一つはエンスト (エンジンストール、エンジンが止まること)だ。


 走行中にエンジンがドライバーの意図に反して異常に吹け上がった場合、当然車両は暴走状態となり、重大な事故に繋がる危険がある。そしてエンストの場合はなぜ危険なのか?それは自動車のブレーキと油圧式のパワーステアリングは、両方ともエンジンの回転を利用しているからだ。


 まずブレーキだが大きく2つの形態がある。自動車はドライバーがブレーキペダルを踏むとブレーキがかかるが、これはドライバーの足の力だけでブレーキをかけているわけではない。人の足の力だけでは自動車のブレーキに十分な制動力を働かせることができない。そのためドライバーのブレーキペダルを踏む力を増幅するための装置が必要になる。一つが油圧式でもう一つがブレーキブースター (倍力装置)というものだ。


 油圧式の場合はエンジン回転を利用して油圧ポンプを動かすことで油圧を発生させブレーキを働かせている。当然エンジンが止まれば油圧ポンプも止まることになる。


 もう一つのブレーキブースターはエンジン回転によって発生する吸気管内の圧力 (負圧)を利用している。このブレーキブースターの詳しい構造までは割愛するが、こちらもエンジン回転が止まると吸気管内に負圧が生まれなくなり、ドライバーは自身の足の力のみでブレーキをかけないといけなくなる。


 このブレーキブースターがどれだけよく効いているか分かる簡単な方法がある。自動車が止まっていてエンジンも止まっている状態 (イグニッションキーをオフにしていればよい)で、ブレーキペダルを2,3回踏んでみて欲しい。すると3回目くらいにはブレーキペダルがとても固くなり奥まで踏めなくなるはずだ。走行中にエンジンが止まるとこれと同じ状態になってしまう。とてもじゃないが走っている車にブレーキをかけることなどできない。


 走行中にエンストが起こると非常に危険なことがわかってもらえただろうか?走行中のエンストはある意味、意図しないエンジンの吹け上がりよりも怖い。エンジンの吹け上がりが起こってしまっても、ドライバーがギアをニュートラルにさえしてしまえば、車の加速を止めることができるからだ。


 自分で車を持っていない俺がなんでこんな知識を持っているかって?それは当然これまでに読んだ本からだ。このブレーキについての知識は大学の学生図書館の分類“産業”の書架番号ルの9の上から8段目の左から7番目にあるので読んでみて欲しい。ちなみにこの本を俺の前に読んでいたのは、俺より2年先輩の医学部の前田という人だ。また医学部の学生だが、医学部の連中は医学書ではなくて自動車関係の本ばかり読んでいるのだろうか?もっとしっかり医学書を読んでもらいたいものだ。



 少し話がそれてしまったが、柴田主任の話は続く。


「高坂、お前にはいずれその電子制御スロットルバルブの仕事をしてもうつもりや。大して期待はしてへんけど、せいぜい頑張れ。じゃ、早速やけどこの制御仕様書を読んで理解しろ。初日の業務はそれだけや。」


 そういうと柴田主任は俺の机にどさっとA4サイズで200ページはあろうかと思われる分厚い冊子を放りなげた。



 う〜〜ん・・・なかなかにキツイ上司だ・・・。制御仕様書を読むこと自体は俺にとっては何の苦痛もないが、仕事のさせ方がよくない。資料だけを渡して読ませるだけで何の説明もない。確かにこのようなやり方だと、合う人と合わない人がはっきりするだろうな。いや、合う合わないではなく、このブラックなやり方についていけるか、ついけいけないかの違いだろう。



 人を育てるには「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」という有名な格言がある。これは大日本帝国の海軍第26,27代連合艦隊司令長官を務めた山本五十六の言葉だ。柴田主任の言動はこの格言のどれにも当てはまらない。



 こんなことを柴田主任に言ってもろくなことにならない。俺は良くも悪くもサラリーマンだ。そう自分に言い聞かせながら俺は渡された資料を読み始めた。


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