チャプター15 「エンジン制御装置製造部」
ほぼ、新しい部署の説明回です。
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ツクツクホウシの鳴き声が響く中、俺は少ない荷物を持ってインジェ棟を出て次の部署であるエンジン制御装置製造部 (略称:エン制部)へ向かった。エン制部があるのは専用棟であるエンジン制御装置製造部棟で、略称は「エン制棟」だ。
インジェ棟を出てから徒歩で約10分かかってようやくエン制棟までやってきた。残暑の厳しいこの9月に徒歩で移動するなんて大失敗をしてしまった。エン制棟に着いた時には俺はもう汗だくだった。
流石に月座電気 淀川製作所を代表する製造部の専用棟だけあって、エン制棟の威容はすごかった。インジェ棟は2階建てだったがエン制棟は5階建て。しかもワンフロアの大きさがとんでもない。1Fにはオフィスはなく、全て実験車両のための駐車スペースと、整備ゾーン、車両を走らせて試験ができるシャーシダイナモが10台もあり、そのうち半分が温度を高低温に変化させることができる全天候型となっている。
さらにはエンジン単体での試験ができるエンジンベンチが10台あり、各種電波試験ができる電波暗室が5部屋ある。その電波暗室のうち1つは自動車ごと入れることができるサイズだ。2Fより上は2Fが全て実験グループの実験室となっており、3~5Fは全て設計グループの事務所だ。これを一つの製造部が持っているのだから一体どれだけ稼いでいるのだろうかと思ってしまう。
軽くため息をつきながら俺は1Fのロビーに足を踏み入れた。ロビーはエアコンがよく効いており、汗だくだった俺は一息ついた。ロビー自体はそれほど広くはないのだが、入ってすぐ右側には外部からやって来る人たちと打ち合わせをするためのブースが広がっていた。朝早い時間帯であるため、まだ外部からの人はやってきていないようだ。
ロビーの一角にはガラス張りのショーケースがあり、そこには過去から現在までのエン制部が開発してきたエンジン制御のためのコンピュータのサンプルが並べられていた。そのショーケースの上の壁にはこれまでどのような自動車に搭載されてきたのかが分かる、開発年表のようなものが掲示されていた。
これによるとエン制部の作ってきたエンジン制御コンピュータは、豊光自動車の全てのエンジンに採用され、他の国内カーメーカーの約3分の1にも使われていることが分かる。さらには海外カーメーカー向けにも多数輸出されているようだ。これだけの売り上げが規模あるのならばこのエン制棟の威容にも納得ができる。
俺は階段を上がり実験グループのある2階に上がった。2階は大まかに実験グループのオフィススペースと、シミュレーターを使ってテストをする実験場と、ハードウェア関連の試験する試験場とに別れている。オフィススペースだけでもかなりの広さがあり、約200人分ほどの机が整然と並んでいた。
俺はオフィスに入るとすぐ近くにいたおばちゃんに声をかけた。
「すみません。今日からこの実験グループに異動となりました高坂といいます。実験グループの課長はどちらの席になるでしょうか?」
「あ~、新人さんね。あなたの他にも何人かいるからね。もうすぐあそこの会議室でまとめて説明があるからそこで待ってて。」
俺はそのおばちゃんに軽くお礼をいうと、少ない荷物を抱えて会議室に向かった。会議室には俺の他にも5人ばかり新人が待たされていて全員同期なのだが、同期だけで1000人くらいいるので、ここにいるメンバーはこれまで顔すら会わせておらず初対面だ。一度でも顔を見ていれば俺の絶対記憶でわかるのだが、俺の記憶にも彼らの顔はない。
エアコンのよく効いた会議室で汗がひくのを待ちながら一息ついた。
「実験グループだけで新入社員が5人もいるのか。」
バブルが弾けたあとの就職氷河期においても、一つの課だけでこれだけ新入社員を確保できるとは、それだけでこの会社の規模の大きさがわかるというものだ。いや、これだけの人数が必要となるだけ多忙なのだろう。
製造業というものは生産は景気の影響を大きく受けてしまうが、実は製品の開発現場の忙しさは世の中の景気にあまり左右されない。なぜなら景気が悪いからと新製品開発を遅らせてしまうと、次に新しい製品を世に送り出すことが遅れてしまうからだ。製造業は常に新しい製品を作り出していかないといけない。逆に言うと景気の影響が開発現場まで来るということは、その不景気は相当に悪いということだ。
今回のバブルが弾けたことは当然ながら深刻な不景気を日本にもたらした。ここ月座電機においても今年の新入社員の数は激減している。ピーク時には約1万人近くはいた新入社員が今年はたったの1000人だ。エン制部実験グループにおいても、今年は5人だけだが以前は10人以上は新人がいたらしい。
しばらくすると会議室にさきほどのおばちゃんが入ってきた。
「皆さんお疲れ様です。私がエン制部実験グループの課長をしています玉田です。」
なんとさっきのおばちゃんが実験グループの課長さんだった。
「皆さんは昨日までは研修先の部署で働いてもらっていて、少しは月座電機での会社生活に慣れてきたものと思います。今日からはここエン制部の実験グループで活躍してもうことを期待します。」
このおばちゃ・・・いや、玉田課長はインジェ部実験グループのバーコードとは違い、なんというか覇気を感じさせる。女性で課長まで上り詰めるのにも相当苦労してきたに違いないだろうが、まったく疲弊感を感じさせない。バイタリティの塊といった感じだ。
「今日から私は皆さんの上司であり、家族であり、彼女です。私のことは玉ちゃんと呼んでくれてもいいですよ。」
とグチャっという音が聞こえて来そうなほど下手くそなウインクをしてきた。いや、百歩譲って家族っていう表現まではありえるとしても、彼女はないだろう・・・。
この玉ちゃんは見た目は40代後半で、目の光が強く強烈なバイタリティを感じさせるが、我々5人とは20歳は離れているだろうし、さすがに彼女の守備範囲に入れるのは厳しい。と思っていたら・・・。
「はい!玉ちゃん!自分は鷹村です。エン制部実験グループに配属されて光栄です。自分こそ玉ちゃんの家族・恋人にふさわしいように頑張りますので、ご指導よろしくお願いします!」
どうやらこの鷹村にとって玉ちゃんは守備範囲に入っているようだ・・・。この鷹村の発言に玉ちゃんはご機嫌な様子だが、俺を含めた残りの4人はドン引きだ。
ご機嫌な玉ちゃんは俺たち5人にエン制部実験グループの説明を始めた。
「我々エンジン制御装置製造部 実験グループはその名の通り、エン制部の製造する製品の実験評価をするグループですが、中身は3つのチームに別れています。」
そう言ってホワイトボードにつかつかと書き始めた。
「エンジン制御の適合チーム、ハードウェアチーム、ソフトウェア・システムチームの3つです。」
玉ちゃん課長の説明の概要はこうだ。
■適合チーム
実際のエンジンを用いて燃費等のマッチングをしたり、車両を使って排ガス性能を計測したりするチーム。
エンジンの基本性能を作り込み、燃費という一般消費者にとってもっとも気になる数値を決定付ける重要な業務を司る。
この他にも車載故障診断装置であるOBD (On Board Diagnostics)における排ガス悪化に繋がる故障に関する診断の判定しきい値 (スレッショルド)を決めることもしている。
業務はエンジンベンチや実際の車を走らせられるシャーシダイナモやテストコースで行われる。
■ハードウェアチーム
エンジン制御装置であるECU (Engine Control Unit)の筐体と制御基板の文字通りハードウェアに関する評価を行うチーム。
ハードウェアの耐久性や耐環境性、EMCなどの評価を行う。
EMCとは端的に言うとノイズ・電波に関する評価のことだ。EMC評価の中身はEMI (Electromagnetic Interference)とEMS (Electromagnetic Susceptibility)に別れている。
簡単に言うとEMIは製品が周囲に余計なノイズや電波を出してませんか?ということと、EMSは逆に周囲からノイズ・電波を受けても誤動作しませんか?というのを調べることだ。
業務はテストベンチや電波暗室などで行われる。
■ソフトウェア・システムチーム
ソフトウェア設計グループが作成するソフトウェアのデバッグをしたり、そのソフトウェアとECUのハードウェアを組み合わせた状態で様々なシステムの制御動作の確認をしたりするチーム。
ソフトウェアテストはソフトウェアが仕様書通りに動作しているかソフトウェア単体でテストをする。システムテストはECUが製品としてカーメーカーの要求やシステム設計仕様書のとおりに動作するかをテストする。
業務はシミュレーターや場合によっては実際の車両で行われる。
さて、ここでうんちくのお時間です。
OBDとは先にも書いたとおりOn Board Diagnosticsの略で、日本語だと車載故障診断装置のことだ。このOBDの歴史は結構古く、始まりは1960年代の後半になる。
それまで自動車の各部品に何らかの異常や故障が発生した場合、それがドライバーが認知できる程度まで自動車の挙動に変化起きないと故障として検出することができなかった。
1960年代ごろから燃料噴射が従来のキャブレター式または機械式の燃料噴射装置から、電子制御式の燃料噴射システムが出始めてきた。
電子制御式燃料噴射システムは従来までとは違い、より繊細な燃料噴射コントロールをするために様々なセンサーを搭載することになる。それらのセンサーなどの故障を検出するための仕組みとして始まったのがOBDだ。
当初OBDは各カーメーカーが自分たちの好きなような作り方をしており、故障情報の読み取り方法や故障発生部品や故障の種類を表すための故障コードであるDTC (Diagnostic Trouble Code)の表記もバラバラだったが、1990年代のOBD2仕様のころになると、各社統一されたDTCや故障情報の読み出しができるようになる。その後OBD2仕様をベースにアメリカ、ヨーロッパ、日本と独自にアレンジをした仕様が作られるようになり現在に至っている。
このOBDのDTCを読み出すためのツールは、スキャンツールと呼ばれており、汎用のスキャンツールは現在ではどのカーメーカーの車であっても接続してECUの情報が読み取れるようになっている。
スキャンツールはDTCの読み取りだけでなく、エンジン回転数や車速、水温情報など様々な情報を見ることができる。このスキャンツールを接続するためのコネクタも規格で統一がされており、だいたいどの車も運転席のハンドル下や足元あたりにコネクタが隠されている。台形っぽい形をしているので、是非探してみて欲しい。
ちなみにこのOBDに関する情報は当然書籍に纏められており、一番分かりやすいのは日本道路社による「自動車工学と次世代整備技術」だ。当然俺は大学時代に読破している。大学の学生図書館の分類“産業”の書架番号リの2の上から3段目の左から18番目だ。俺の前にこの本を読んだのは俺より3年先輩の医学部の沢田という人だ。この人は前にも「猿にはわからない自動車工学」を読んでいる。医学部だがよほど自動車が好きなんだろうな。
俺たち新人5人は、適合チームに2名、ハードウェアチームに1名、ソフトウェア・システムチームに1名に分けられた。
鷹村はハードウェアチームで俺はソフトウェア・システムチームに配属されることになった。俺は密かに適合チームは面白そうだと思っていたのだが、ソフトウェア・システムチームになった。まぁ、どのチームに配属されてもよかったのだが。
チーム配属が決まったところで各チームを取りまとめている係長たちが会議室に入ってきた。適合チームは黒山係長、ハードウェアチームは塩田係長、そしてソフトウェア・システムチームは東野係長だ。
適合チームの黒山係長は名前だけでなく体まで黒い。38歳だ。まるで歌手の松崎○げるのようだ。精悍な顔つきでいかにもバリバリ仕事できますっていう雰囲気を醸し出している。
ハードウェアチームの塩田係長は黒山係長と反対に、肌が真っ白だ。ややふっくらした印象で柔和なイメージを感じる。37歳らしい。
俺の配属されたソフトウェア・システムチームの東野係長は一見温厚そうな顔なのだが、目の奥の光が少し怖い。まるで獲物を前にした猛禽類のようだ。エン制部実験グループの3人の係長の中では一番の年上で40歳らしく、次期課長と目されているそうだ。
「君が高坂やな。じゃ行こうか。」
東野係長はにこやかに俺に声をかけるが、目が笑っていない。恐らく立ち居振る舞いから俺という人物の品定めをしているんだろうと思う。前のインジェ部実験グループのエガちゃんも相当に変わり者だったが、この東野係長もひとくせもふたくせもあるかもしれない。俺は気持ちを引き締めて、荷物を持って東野係長のあとについて行った。
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こんな退屈なチャプターを最後までお読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m
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