チャプター9 「レンタカー」

 木曜日 ーー 月座電機・豊光自動車・皇電装の3社によるテレビ会議の翌日 ーー 朝から駅前のレンタカー屋にエガちゃんと一緒に来ています。目的は豊光自動車ゼータをレンタルするためだけど、俺はまだ新人なんで社用で車を運転する許可を持っていないから、エガちゃんと来ているのだ。


「どうせなら一番装備の良いやつにしようぜ。」

というエガちゃんは、試験の目的には全く意味のない最新カーナビやETCが装着され、エアロやリアウイングなどゴテゴテにオプションがつけられている車を選んだ。


「それってレンタル代が高くなるんじゃないですか?」

「いいのいいの、どうせ会社の金なんだから。」

本当にいいの?いいわけないでしょ。


 バブルが弾けてあらゆる予算が削られているこのご時世、可能な限り経費を削減しなくちゃいけないが、エガちゃんにとっては無関心ネタであるようだ。


「しかし、レンタカーでエクステリアをこんなにフルオプションで揃えている車なんて、一体だれが借りるんですかね?」

「それはあれだよ。可愛い女の子にかっこいいところを見せたい、その辺りの若造だろ。」

なるほど。お金のない大学生や新社会人にとっては大事なことだな。


 そう言えば、俺はそんな色恋沙汰とはここのところ全く無縁だ。見かけは全く普通で身長も日本人の平均値プラスアルファ程度しかない俺だけど、そこは普通の日本人男性のように、そこそこ普通に恋愛も経験しているんだよ。残念でした~。何が?だけど、最後に恋人と別れたのは大学3年の時だから、もう3年以上が経過していることになるな。


 当時の彼女は俺に相応しく、これまた見た目普通の子だった。類は友を呼ぶっていうやつ。同じ研究室に在籍していたんだけど、俺は自分の好きな研究ばかりしていたんで彼女のことを殆どかまってあげられなかったんだよね。結果、自然消滅に近い形で俺たちの仲は終わってしまった。当時の俺は本当にどうしようもないヤツで、自然消滅したことすらしばらく気がつかなかったくらいなんだよね。本当に申し訳ないことをしました。この場をお借りして深く謝罪いたします。


 レンタカー屋から会社までは車で10分程度しかなく、俺とエガちゃんはレンタルした車に乗って、すぐに会社に戻った。ゼータの乗り心地は悪くない。というかかなり良い。このクラスの車だと、内装がちゃちなプラスチック一辺倒で、シートも布張りでいかにも普段使いの街乗りカーが多いんだけど、このゼータは違う。内装はプラスチックが基本なんだけど、目につく要所は本革貼りのインテリアになっていて、シートも布張りなどではなく革製だ。ただし、さすがにシートは本革じゃなくて合皮だけど、布張りとは一線を画している。聞けばこのインテリアは標準装備なんだそうだ。これで250万円台であれば、良い買い物なのではないだろうか?2年間で20万台も売れているというのも納得だ。


 会社に戻った俺とエガちゃんは、みみちゃん先輩とハカセも加えた特別調査班4名で試験方法のすり合わせと確認を行った。みみちゃん先輩なぞは折角再現試験が終わって飲みに行けると思っていたのに、また追加試験をしないといけなくなってしまったので、ぶーぶー文句を言ってくる。


「だいたい高坂くん。なんで終わりかけた仕事をまた振り出しに戻すかなぁ?余計なことしてくれちゃって。あとで虐められたいの?」

はいっ!いかんいかん。俺は思わず返事しそうになった。俺はアホな思考を振り払い、

「いえ、会議の場で高橋部長に俺の意見を言うように促されてしまって、仕方なく・・・。」

「まぁ、淳ちゃんがそう言ったのなら仕方ないわね。」


 淳ちゃん???高橋部長の名前は高橋淳二だが、みみちゃん先輩は高橋部長のことを淳ちゃんと呼んでいるのか?二人は一体どんな関係なんだろうか・・・。


 俺たちの会話を遮るようにハカセが口を出してきた。

「宇垣さん。それでレンタカーまで借りてきて、一体どんな試験をするんですか?」

「え?」

急に試験内容を聞かれてエガちゃんが固まった。

「こ、高坂。教えてやれっ」

この人なんも考えてなかったんか~い。また関西人の一人のりツッコミが心中で炸裂した。


 俺はてっきり詳細はエガちゃんが考えているだろうと思っていたので、寝耳に水だ。だけど俺の中ではすでに試験内容は昨日の時点で決まっているんだけどね。


「今回のレンタカーでの再現試験ですが。何もしません。」

「え?」「え?」「え?」

3人の声がハモった。お見事です。


「今回の試験は基本的に“放置”することです。車を駐車場に停めた状態での放置です。」

「おい、ただの放置で何がわかるんだよ?」

とエガちゃんが聞き返す。アンタ、昨日のテレビ会議の場での俺の説明を聞いてなかったのかよ??


「車は放置しますが、最低限の測定は行います。バッテリーの電圧・インジェクターのソレノイドの端子にかかる電圧・燃圧は必ず計測が必要です。あと可能であれば燃料ポンプの中にあるモーターの駆動電圧波形も欲しいですが、これは燃料ポンプ製品の内部なので、製品を分解しないと計測は難しいでしょうね。これらを計測しながらの放置をして、数時間おきにインジェクターからの燃料漏れの有無をチェックします。」


 3人はこれで何がわかるのかと訝しげな表情をしていたが、俺が昨日説明した仮説を話すと納得してくれた。というかエガちゃんは2回目なんだから・・・・。俺の中でちょっとエガちゃんの位置づけが下がったかも。


 俺とハカセは二人でレンタカーでの計測の準備を進めた。ハカセと一緒に作業中に、ハカセの制服の下に来ているTシャツが “おジャ○女どれみ”のキャラクターものだったことに気がついたことは俺だけの秘密だ。


 今回使用するモノはシンプルだ。まずは当然レンタカー。これをインジェ棟の裏手にある駐車場に停めた状態で試験をする。本当はキチンと設備の整った屋内の車両試験室でするのが望ましいけど、残念ながらインジェ部にはその設備がない。他の部署の建屋にはあるけど、今回は数日間試験し続ける必要があるので、他部署の設備を長期間占有することが困難であったため断念した。そして車両の助手席にレコーダーを設置する。このレコーダーでバッテリーの電圧・インジェクターのソレノイドの端子にかかる電圧・燃圧を計測する。


 話は少し脱線するけど、今回の試験で用いるレコーダーは、国内大手の計測器メーカーである縦海(たてうみ)電機社製だ。縦海電機は国内の計測器メーカーではトップシェアを誇っており、欧米へも輸出展開をしているため海外での知名度も結構高い。

 電圧や電流などを計測する計測器の種類として代表的なものは、オシロスコープとレコーダーがあげられる。他にもマルチメーターやパワーメーターなども挙げられるけど、計測した電圧などを波形として画面上に写したり印刷したりする機能を有している、オシロスコープとレコーダーが一番活躍しているだろう。


 俺の通っていた大学の研究室にも当然ながら、オシロスコープとレコーダーがあったんだけど、いかんせん機種世代が古かった。インジェ部実験グループには、流石に最先端の開発現場を支えるために最新式の計測器が多数揃えてある。ちなみにこのオシロスコープやレコーダーは非常に高価で、安いものでも数10万円からで、高いものだと400万を軽く超えるものまである。そんな高価な計測器が実験場にゴロゴロ転がっているのだから、恐ろしいものだ。


 はい、ここでいつものうんちくが入ります。

 オシロスコープとレコーダーは二つとも同じように電圧や電流などを計測するための装置だけど、試験の目的によって使い分けをする必要がある。両者の簡単な違いはこんな感じ。


・オシロスコープ

 計測できるアナログチャンネル数:2~4チャンネル

 計測できるデジタルチャンネル数:0~8チャンネル

 サンプリングレート:最高100MS ~ 数GS (MS=メガサンプル、GS=ギガサンプル)

 電圧分解能:8bit


・レコーダー

 計測できるアナログチャンネル数:8~32チャンネル以上

 計測できるデジタルチャンネル数:8~32チャンネル以上

 サンプリングレート:最高1MS ~ 10MS

 電圧分解能:14bit


 他にも各チャンネル間の基準グランド (アース)が各チャンネルで共通しているか独立しているかなんて違いも諸々あるけど、ここでは割愛しておきます。


 これらを並べるだけだとピンとは来ないと思うからさらに簡単に言うと、オシロスコープは短い時間に変化する波形を計測するのに適しており、レコーダーは長時間ずっと計測し続けるのに適していると言える。ただし、最近ではオシロスコープでもチャンネル数が増えてきていたり、レコーダーもサンプリングレートが早くなってきていたり、両者の機能の差が徐々に狭まってきている。


 あとオシロスコープはアナログ式とデジタル式もあるけど、現在ではデジタルオシロスコープが主流となっているから、前記の説明はデジタルオシロスコープを基準に話している。


 サンプリングレートは1秒間に何回サンプリングができるかを表している。

1MS(メガサンプル)だったら、1秒間に1メガ回の電圧計測をしているという意味だ。1メガ回とは、1,000,000回のことで、要するに1秒間に100万回も電圧を計測していることになる。1秒間に100万回だなんて、高橋名人も真っ青。これが1GSともなれば、1秒間に1ギガ回=1,000,000,000回 = 10億回も計測することができるということだ。


 途方もないような数字に思えるかもしれないけど、計測器の世界では普通に出てくる数字だ。これくらいのサンプリングレートがないと、一瞬のノイズなどの波形を計測することができないのだ。


 次に重要な要素である電圧分解能だが、これは呼んで字の如しで、電圧を分解する能力を表している。電圧を分解するということはどういうことかと言うと、電圧はV(ボルト)という単位で表すけど、Vの変化を最小でどこまで細かく検出することができるかということだ。


 8bit分解能で説明すると、例えばオシロスコープの電圧軸を0Vから10Vの範囲に設定したとする。これを8bitという精度で分解し計測できるという意味だ。では8bitの精度とは何者かというと、この8bitは2進数の桁数を表している。8bitであれば8ケタだ。


 2進数で8ケタというと、「0000 0000」というように表される。この8ケタの2進数の最大数「1111 1111」は10進数で表すと255になる。これに0を合わせると8ケタの2進数で256段階を表すことが可能となる。


 これを先の0Vから10Vまでの電圧範囲に適用すると10V÷256 ≒ 0.039となり、最小で約0.039Vの細かさで電圧計測ができるということになる。


 サンプリングレートの数字が大きくなるほど早く計測でき、計測漏れが少なくなり、分解能の数字が大きくなるほど、より細かく詳細に計測することができるということだ。


 ちなみに、このサンプリンレートと分解能だが、生活に身近なものでも良く目にすることができる。オーディオCDだ。オーディオCDの規格ではサンプリンレートは44.1kHz 分解能は16bitだ。つまり1秒間に4万4100回音を計測し、その音を16bit=1111 1111 1111 1111 = 65,535段階で分解して録音しているということだ。この数字をすごいと思うのかそうでもないと思うのかは人それぞれだ。


 昔からのオーディオマニアによれば、オーディオCDには録音されない部分があるため、レコードなどのアナログ音源に比べて音が悪いと主張している人もいる。果たして一般の人にその違いが聞き取れるのかどうかは甚だ疑問ではあるが。


 さらに補足情報だけど、音のプロであるミュージシャンや録音スタジオのスタッフの中には、録音する際にわざとサンプリングレートを落として録音することもある。サンプリングレートが高いほど高い周波数の音の録音ができるのだが、これが高すぎると高音ばかりが強調された音となり、聴く人にとって不快となるらしい。逆にサンプリングレートを下げると、高音が抑えられるためマイルドな音に聞こえる。このためプロの録音エンジニアは録音する音によりサンプリングレートを使い分けているのだ。


 なんで俺がこんなことまで知ってるかって?それはオーディオのプロ御用達のマニアックな雑誌である、“ヤングオーディオ”の1989年10月版に、著名な日本人ギタリストである日光 晃氏と、国内最高峰録音スタジオ「DIO」のチーフエンジニアである重松 俊樹氏との対談で述べられていたからさっ。


 なぜ俺がこんなマニアックなオーディオ雑誌まで知っているかだけど、当然、こんな雑誌は図書館にはない。俺の中学時代からの親友であった杉本良一という人物がいるのだが、ある日、彼の家に遊びに行った時に、彼の兄の部屋をのぞくと壁一面にありとあらゆるオーディオ関連の書籍が並んでいたんだ。その中の一角に“ヤングオーディオ”の創刊号から最新号まで全て揃えてあったんだ。


 ヤングオーディオは創刊1969年5月で、俺が高校1年の1990年当時ですでに創刊から21年も経っていて、本棚には240札以上がずらっと並べられていた。俺は彼の兄の部屋にある本を隅々まで記憶させてもらった訳だ。


 ちなみにヤングオーディオは創刊当時は主にフォークソングなどの歌謡曲の紹介などをメインに掲載していたんだけど、次第に国内だけでなく海外の音楽シーンも取り扱うようになり、ジャンルもフォークだけでなく、ロック・ジャズ・クラシックなど幅広く扱うようになってきた。さらに音楽シーンだけでなく最近ではオーディオ機器やレコーディング機材にまで食指を伸ばしており、果てにはオーディオ機器の自作のための回路図まで掲載しだしており、まさしくマニアのゾーンに突入している。


 さて、話がかなり脱線してしまいました。オシロスコープやレコーダなどの計測器の話をしだすと、それこそ分厚い専門書が出来上がるくらいになってしまうため、これくらいにしておきましょう。


 というわけで、今回のレンタカーの試験は長時間の放置試験であるため、俺とハカセはオシロスコープではなくレコーダーでバッテリーの電圧・インジェクターのソレノイドの端子にかかる電圧・燃圧を計測する準備をした。あとはレコーダーでの計測をスタートし、4時間ごとにインジェクターからの燃料漏れが起きていないかを確認するだけだ。


 まぁ、このインジェクターの燃料漏れを確認するだけと言っているが、この作業もかなり手間がかかる。本来であれば燃料のデリバリーパイプを外し、インジェクターを一本ずつ丁寧に取り外さないといけないわけだけど、いちいちそんなことをやっていられない。そのため俺たちはファイバースコープを突っ込むことで確認することとした。世の中いろいろ便利なものがあって助かります。


 4時間ごとにレコーダーの計測データとファイバースコープでの燃料漏れ有無を確認しないといけない訳だけど、さすがに徹夜はできないので、夜は22時までであとは次の日の朝8時に確認することにした。だけどやっぱり土日は出勤が必要だ・・・。そしてそれは一番下っ端の俺の役目だ・・・。今回は大したデータ整理作業もないため、土日出勤は俺だけ。そんな俺にエガちゃんは、

「がんばれ高坂! 終わったら打ち上げが待ってるぞ!」 

だそうだ。それが嫌なんだって・・・。

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