チャプター4 「調査初日」

 エガちゃんの言う通り、量産品のi-97インジェクター100本が昼イチで届いたので、俺は早速最初の4本を漏れ流量測定用の専用試験機にセットし試験をスタートさせた。


 この漏れ流量試験機は、インジェクターを可能な限りエンジンに搭載されている環境と同じにして、温度・湿度・振動・供給燃料圧力などの各パラメーターを自動で変化させることができるマシンだ。

 ちなみにこのマシンはエガちゃんの自信作だ。と言っても、まったくのゼロから作り上げたわけではなくて、高低温度試験機・振動試験機と汎用のポンプを組み合わせて同期をとってパターン運転できるようにしてあるだけだ。まぁ、その"だけ"をするだけでも普通は簡単ではないわけで、エガちゃんの能力の高さがうかがえるというものだ。

 ここは流石に係長まで出世するだけはあると言っておきましょう。


 ちなみに月座電機における出世は、係長、課長までは実力で出世できるが、それ以上は運が必要だと言われている。

 いくら実力があったとしても、上司や会社側に気に入られて更に運良くポストが空かないと課長以上には上がれないからだ。

という事情もあり、月座電機内では派閥争いが盛んだ。派閥争いについてはまた機会があれば触れるとしよう。


 このマシンは一度スタートさせると、あとは4時間ほったらかしだ。

各種計測データはマシンに備え付けてある計測器で自動計測され、所定のサーバーに自動保存される仕組みであるため、試験者はインジェクターの取り外し以外は基本的には何もすることがない。新人でも扱えるわけで、特別調査班に新人の俺が抜擢されたのも、このマシンが存在するからだろう。


 さて、マシンが自動で動いている間は何もすることがない。 特別調査班ということで、他の通常業務も免除されているし。

だけど、土日なしで毎晩25時まで拘束されるのはマジできつい・・・。 

 暇を持て余すのもなんなので俺は試験が終わるまでの間、豊光自動車ゼータについての資料に目を通してみた。


 目を通してみたと言ったが、実際に資料を見たのはほんの30秒ほど。

 その資料はA4サイズで10枚程度。俺にとって30秒でも記憶するには十分な時間だ。記憶した資料を脳内で簡単にまとめてみる。


・豊光自動車ゼータ

新車発売年月:1997年4月

新車販売累計台数:210,147台

エンジン:新型J4NA 直列4気筒 1600cc

トランスミッション:5MTまたは5速AT

駆動方式:FF    あ~、俺はFRの方が好きだな~。


トピック:豊光自動車にとって約5年ぶりとなる新型車。これまで大型の4WDに軸足を置いていた豊光自動車が満を持して市場投入する正統派の街乗りセダン車である。エンジンはこの車両のために開発した新型で、超微細噴射が可能となる新型インジェクター及び高圧燃料ポンプを搭載している。


 この“超微細噴射が可能なインジェクター”がi-97ってこと。

 ちなみに高圧燃料ポンプは月座電機製ではなく、ライバル会社である皇(すめらぎ)電装(でんそう)社製だ。

 この高圧燃料ポンプは従来までは0.9メガパスカル程度だった燃圧を、一気に3メガパスカルまで引き上げている。


 単純に圧力を上げるだけだったらそれほど難しいものではないけど、コストを抑えつつ高圧力に耐えられるだけの強度を保つというのは、簡単なことじゃない。このことからも皇電装の技術力の高さが分かるというものだ。


 高い圧力をかけた燃料をi-97の極小噴射口から噴霧することで、非常に微細な燃料の霧を発生させることが可能になっている。燃料が微細になればなるほど空気との混ざりがよくなり、よく燃焼することになって、少ない燃料でより大きなパワーを得ることができるようになり結果として燃費を抑えることができるというワケだ。


 ちなみにエガちゃん自慢の漏れ流量試験機では、車両仕様に合わせて初期の燃圧を3メガパスカルに設定しているけど、今回の試験では燃圧をさらに高圧に変化させるパターンも追加している。


 この他のトピックとして電動パワーステアリングと電子制御式のスロットルバルブの採用がある。

 電動パワーステアリングは皇電装製で、電子制御スロットルバルブは月座電機の淀川製作所製だ。豊光自動車は月座電機と皇電装の製品を同じくらいの割合で採用しているようだ。



 電動パワーステアリングとはその名前のとおり、電気で動かすパワーステアリングのことだ。


 はい。ここで電動パワーステアリングに関するうんちくのお時間です


 自動車におけるステアリングというと二つに大別される。油圧や電気の力でドライバーのハンドリングをアシストするパワーステアリングと、アシストのない俗にいうところの重ステ(おもすて)である。重ステはアシストがないため、純粋にドライバーの腕の力だけでステアリングを操作しなくてはならない。非力なドライバーではなかなか大変だけど、昔の車は全部重ステだったんだけどね。


 一方、パワーステアリングは油圧もしくは電気を使って、ドライバーのステアリング操作をアシストしてくれる。現在では新規開発車両でパワーステアリングを採用していない車などほぼない。


 油圧式のパワーステアリングはエンジンの回転力を利用してオイルポンプを動かすことで油圧を発生させ、その油圧でステアリングをアシストするものだ。


 次に電動パワーステアリングだが、一口に電動パワーステアリングといっても、さらに二つに大別できる。電気の力でオイルポンプを動かし油圧でアシストをする機構であるか、またはモーターの力でアシストするかだ。


 前者の場合は構造的に油圧アシストのパワーステアリングと大差がない。それまでエンジンが回転する力を利用し油圧ポンプを回し油圧を確保していたものを、電動オイルポンプに切り替えているだけだからだ。

 一方、後者はセンサーでドライバーのステアリング操作の量や速度を検知し、それに応じてモーターの力でステアリングをアシストするというものだ。

 このモーターアシスト方式は制御が複雑で難しく、ドライバーの操作感が油圧方式に比べ滑らかではないなどの弱点があるけど、もちろんメリットもある。それについては後述。


 はい、続いてスロットルバルブと内燃機関についてのうんちくのお時間です


 次に電子制御スロットルバルブだけど、まずスロットルバルブとはエンジンに吸入される空気の量を調節するためのものだ。


 エンジンが動くためには、内燃機関の三大要素というものが必要となる。空気・燃料・点火の3つのことだ。


 簡単にエンジンの動かしかたを説明しよう。止まっているエンジンを動かすには、まずはスターターと呼ばれる電装品でエンジンを低速で回転させる。エンジンが回転を始めるとエンジンの燃焼室に空気が吸い込まれるようになる。その吸い込まれる空気の量をセンサーで検出し、その空気量に最適な燃料量をコンピュータが計算し、その燃料量をインジェクターより噴射させる。インジェクターより噴射された燃料は空気と混ざり、混合気となって燃焼室に吸い込まれる。燃焼室に吸い込まれた混合気はエンジンのピストンの動きにより圧縮される。混合気が圧縮されたタイミングで点火プラグにより混合気に火がつけられる。


 点火された混合気は燃焼・膨張し、ピストンを押し下げる。そのピストンを押し下げる力をトランスミッションを介しタイヤを回し車は動くのだ。


 燃焼した後の混合気は排気ガスとなるけど、まだいくらかの燃料成分や、燃焼によって発生する環境にとって有害な成分が残っているから、三元触媒というモノを通して無毒化したのちに大気に排出される仕組みになっている。


 この三元触媒の仕組みは・・・・、これはまた別の機会にしましょっ


 この空気量の検出・燃料噴射・吸入・圧縮・燃焼・排気を繰り返すことでエンジンは回っている。エンジンを回す仕組みについてはもっと詳しく言えば気筒判別とか他にもいろいろあるんだけど、これも話すと長いからまた機会があれば触れることにしましょう。


 じゃあエンジンの出力を上げ、エンジン回転数を高くするためにはどうすればいいでしょうか? 分る人挙手!!



 答えは簡単、吸入する空気の量を多くすればいいんですねぇ。


 吸入空気量が多くなると、それに合わせて多くの燃料を噴出し、混合気の量も増える。多くの混合気を燃焼させるとそれだけ爆発力も大きくなり、結果としてエンジンの出力が上がり、回転数も上がるというわけ。


 このようなパワーステアリングやエンジンの仕組みなんて、よほどの車好きか、大学や専門学校で自動車工学の勉強をしてきたのでなければ、新入社員で知っている人間はいないだろう。


 俺は知っているが、もちろんこれも図書館で読み漁った書籍からの知識だ。

 詳しくは、モンキーズ出版発行の「猿にはわからない自動車工学」に書いてある。

大学の学生図書館の分類“産業”の書架番号ラの5の上から2段目の左から8番目においてあるので読んでみてくれ。

 ちなみに俺の前にこの本を読んでいるのは、俺より3年先輩の医学部の沢田という人だ。

 なぜ医学部生がこんな本を読んでいるんだろう?暇なのかカーマニアかのどちらかだろうね。



 さて、前述の通りエンジンにとって吸入空気量が重要であることがわかってもらえただろう。そして、吸入空気量を調節するための部品であるスロットルバルブの重要性も察してくれたものと思う。


 このスロットルバルブは従来から使われている機械式と、ゼータに採用されているような電子制御式とがあって、機械式は運転席足元にあるアクセルペダルとスロットルバルブが、ワイヤーで物理的に接続されていて、ドライバーがアクセルペダルを踏めばそれだけスロットルバルブも開くという仕組み。

一方、電子制御式はアクセルペダルとスロットルバルブがワイヤーで接続されていなくて、アクセルペダルに取り付けられたペダルの踏み込み量を検知するセンサーからの信号をコンピュータが読み取って、それに応じてコンピュータがスロットルバルブに取り付けられたモーターを動かしバルブを開閉するという仕組みになっているんだ。



 電動パワーステアリングもそうだけど、電子制御スロットルバルブもなぜ電子制御化していくんでしょうか?それは制御の高度化と部品点数の削減とレイアウトの自由度確保のため。


 パワーステアリングを電動化すると油圧機構を削減することができる。また、ステアリングハンドルの位置の自由度も増し、極論を言うと後部座席にハンドルを置くこともできるし、そもそもハンドルすらなくし、ゲーム機のコントローラーのようなものにすることも出来る。

 また、スロットルバルブの場合もアクセルペダルとスロットルバルブを繋ぐワイヤーを削減できることにより、エンジンルーム内のエンジンや吸気管のレイアウト性が格段に良くなるワケ。制御の高度化については今回は割愛。



 おっとつい話が脱線してしまったけど、要するに豊光自動車ゼータは先端技術をふんだんに盛り込んだ最新車両ということだね。

 エンジン排気量1600ccという中型車でありながら、新車販売価格は250万円からという少し高めの設定であるのも頷ける。


 こういう細かいけど大事な技術は残念ながら自動車のカタログなどには出てこない。カタログはインテリアやエクステリアがメインで、技術的なところはせいぜいエンジンの諸元が載っているくらい。

 もっと細かい技術要素が載っているカタログをつくってもらいたいもんだ。カーメーカーの皆さん、よろしくお願いします。



 さて、そんな決して安くない車が燃えてしまっているのだから、ユーザーにとっては悪夢だったろう。幸いにもこれまでの車両火災は車に人が乗っていなかった時だけでしか起きていなかったけど、もし車内に人がいたとしたら最悪の結果になっていたかもしれない。。。



 こんな長い独り言を言っている間に次のインジェクターへの交換の時間が来た。


 取り付けておいた4本を外して、目視による外観確認とデジタルカメラによる写真撮影をする。この時点でこの4本には目視できる燃料漏れの発生はなくて、ちょっと安心した。会社には愛着はないなんて言ってるクセにね。


 俺は慎重にこの4本を専用の密閉容器に保管し、容器の外部に油性ペンでインジェクターの開発名称と製造年月日そして試験を実施した日付と時間を記載した。こうしないと、どのサンプルをいつテストしたのか分らなくなってしまからね。


 続いて次の4本を漏れ流量試験機にセットして、試験開始ボタンを押す。時計を確認するとほぼ予定通りの16:04。順調な滑り出しです。


 蛇足うんちくです。

 この外観撮影に使用したデジタルカメラだけど、1999年当時はまだそれほど普及していなくて、性能もまだまだフィルムカメラには遠く及んでいませんでした。

 市場にデジカメが出始めたとき、性能を表す指標の一つである画素数はまだ30万画素程度でしかなかったけど、前年の1998年についに100万画素を越える製品が発売されて、翌年の1999年には早くも200万画素を越える製品が発売された。その進歩の速さには凄いものがある。

 その後デジカメの画素数競争は熾烈を極めて、今では4000万画素を越えるカメラも市販されるに至っているのはみんなも知ってるよね?


 俺が試験で使っているカメラは1999年3月に発売されたばかりのネコム社製の230万画素を誇る最新製品だ。当然ながら発売直後だったから標準価格としてはかなりの値段だ。実はあまり知られていないけど、月座電機とネコムとは同じ月座グループに属するグループ会社で、そのルートを使って実験グループではこの最新デジカメを市販品よりも安く入手できたんだ。


 ネコム社のロゴは眠っている猫がモチーフになっている。どうも創業者が大の猫好きで、猫が“ごめん寝”をしている姿が可愛くてそれをそのままロゴにしてしまったんだって。同じく猫好きの俺にとってこのロゴは癒されるんだよね~。俺の“絶対記憶”を猫だけで埋め尽くしたい気分だ。



 更なる蛇足うんちくです。

 月座グループは戦前は日本四大財閥の一つだった”月座財閥”に端を発している。

 戦後、月座財閥は非常に多くの企業に解体をされてしまったんだけど、その中の一つが月座電機であり、国内のカメラ売り上げトップ誇るネコム社というワケ

 月座グループには筆頭会社の一つである月座電機の他に、月座銀行・月座不動産・月座重工業・月座商事などがあって、あまり知られていないけど、ライオンビールやコンビニエンスストアのカーサンなども月座グループ企業なんだ。


 そのグループ規模は月座グループだけでGDP世界10位程度の国家に匹敵すると言われているんだけど、一体どれだけの力だあるんだろね? 


 はい。蛇足は終わりです。おつきあいありがとうございました。



 この日俺は、計画通りに合計で16本試験を完了させた。最後の4本を試験機にセットしたのは日付が変わった25:10で、試験機をスタートさせたあと、俺は簡単に実験場の整理をした後、生あくびをしながら事務所に戻った。事務所には当然ながら誰も残っていない。 


 新人をたった一人で残すなんて、いったいどんな安全管理をしてるんでしょうねぇ?? まったく上司の顔が見てみたいもんですわねぇ。イケメンロマンスグレーとバーコードとマラソンバカですが、なにか?



 実験グループが入っている事務所はインジェ部だけが入っている専用棟で、建物名はそのまま製造部の名前をとって、燃料噴射装置(インジェクター)製造部棟で略称「インジェ棟」と呼ばれている。鉄筋コンクリート製で、地上2階建てだ。一階は俺たち実験グループの実験場と事務所になっており、二階は設計グループの事務所となっている。


 インジェ棟は月座電機淀川製作所の広大な敷地のなかにおいて、一番北側の山際にあって、近隣の住宅街から離された位置にある。その理由は、インジェクターの実験などでガソリンを大量に扱うため、その臭いや有害な成分が近隣住民に影響を与えないように配慮されているからだ。山の近くで自然に対する配慮は?というツッコミはなしでお願いしますね(汗)


 俺はだれもいない事務所の自分の席に座って、スリープ状態になっていたパソコンを立ち上げメールチェックをした。大して意味のない未読メールばかりだったが、その中にエガちゃんからのメールがあって、タイトルが「i-97特別調査班に告ぐ」だ。なんだか物々しいタイトルだけど、メールの内容はこうだ。



 i-97特別調査班の皆さん、お疲れ様です。

 さて、予定ではこの特別調査も来週水曜日の客先報告をもって終わりとなります。

つきましては皆さんの慰労のために打ち上げを行いますので、来週金曜日は時間をあけておいてください。

 なお場所につきましては、別途連絡します。



 なんやねん、このメールは!?

まだようやく調査初日が終わっただけなのに、もう打ち上げの話をするなんてっ。しかも、実際に調査で動いているのはまだ俺だけだし。エガちゃんの能天気なメールのお陰で疲れが一気に増幅してしまった。


 しかも憂鬱な気分になる理由はもう一つある。特別調査班で飲み会をするということは、それはあのみみちゃん先輩も必ず飲み会に来ると言うこと。

 みみちゃん先輩が大食いであることは前述しているけど、彼女は酒の方もとんでもなく強いのだ。


 俺が実験グループに配属されてすぐに催された歓迎会でのこと。場所は会社近くの大手居酒屋チェーン店であった。普通こういう宴会は飲み放題をセレクトするもんだけど、店長がみみちゃん先輩を見たとたん飲み放題を拒否してきたんだ。


 店側が拒否するなんてことがあるの??と回りの先輩社員に聞いてみると、過去にこの店でみみちゃん先輩が店のビールの在庫をすべて飲み干してしまうことがあったとのことで、それ以来この店でみみちゃん先輩がいるときは飲み放題が出来なくなってしまったとのことで、出入り禁止にならなかっただけマシなんだそうな・・・。


 いったい彼女はどれだけの量を飲むのだろう?? 焼き肉食べ放題の店も出禁をくらっているとのことだが、それだけの量を飲み食いしているのにあのスタイルを維持しているのは矛盾していないか??


 ちなみに俺の歓迎会の時は、飲み放題ではなかったが、遠慮せずにどんどんお代わりしていたため、エガちゃんからいい加減にしろと怒られていた・・・。あの時の飲みっぷりと言ったら常軌を逸していた。ジョッキの中身を床にぶちまけてるんじゃなかろうかと思うほどの速さで酒が消えていく。それを見るだけで飲む気持ちが萎えてしまうのだ。そして、一番の問題は周りの人間に自分と同じペースで酒を強要することだ。俺自身は酒は好きで自分では強い方だと思っているが、みみちゃん先輩の強さは次元が違う。とてもじゃないがついていけない。


 という感じで特別調査の初日はこうして終わり。俺は倍増された疲れを感じながら事務所を後にしとさ。


 頑張れ俺!!

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