チャプター2 「社会の洗礼」
俺は大手の電機会社の研究所に入れば、最先端の知識や理論を得られるし、様々な最新装置を使えるようになって、楽しく研究ができるだろうなと意気込んでた。入社後の配属希望面接でも、大学での研究成果や研究所に入りたいなどの希望を熱く人事担当に説明したんだけどが、世の中そんなに甘くはなかった・・・。
「なんでやね~~ん!!??」
俺は希望した研究所には配属されず、なぜか自動車関連部品を開発製造する製作所に配置されてしまった。新入社員に配属を拒否できる力もあるわけもなく・・・。
「やっぱ、これからは自動車も電子制御の時代やで~。」
「そんな最先端の開発部署にいけるなんて、俺達ラッキーやなぁ。」
と能天気な同期たちがまわりで会話をしているのを聞くと、絶望感もさらに深くなるってもんだ。
なぜ関西弁なのか?それはこの製作所が関西にあるからで、会社の配属は社員の地元を基準に配置しているらしい。そのため関西出身の俺も関西にあるこの製作所に配属されてしまったみたいだ。
「なんていい加減な人事やねん・・・」
俺は毒づきながら配属初日を迎えた。
俺の配属された淀川製作所は大阪府箕面市の北部に位置している。
淀川製作所というから淀川の近くにあるわけではなくて、実際は大阪市の北に位置する箕面市にある箕面川の近くにあり、少し山を北上すると箕面大滝という景勝地がある。
ちなみにこの箕面大滝周辺には野生のニホンザルが生息していて、訪れる観光客にサルに餌を与えないように警告する看板が並んでいるけど、餌を当ててしまう観光客が後を絶たなくて地元の人たちは困っているらしい。観光客のみなさん。どうか観光先でのルールは守ってくださいね。
淀川製作所は月座(げつざ)電機における自動車関連部品の開発製造を担っている製作所で、自動車のスターターやオルタネーターなんかの電装部品や、エンジンやトランスミッションをコントロールするコンピューター、各種モーターやアクチュエータなど、さらにはカーオーディオやカーナビなど、自動車に搭載されるものであればなんでも作っている。その気になったらカーメーカーなしで自分達で自動車を作れるんじゃないだろうか?
社員の制服はエンジニアらしくブルーカラーだった。
なぜ過去形かというと、俺の入社する年度にちょうど制服の一新があって、ブラックをベースにしたものに変更されたらしい。つなぎタイプのものと上下別れているタイプがあって、どっちでも好きな方を選べるようになっている。ちなみに俺は制服はつなぎではなく別れたタイプのものを選んだ。なぜならつなぎだとトイレの大きい方に行く時に面倒くさそうだったから・・・。
箕面製作所は敷地面積約150万平方メートルで東京ドームでいうと30個分もある広さだ。工場の端から端まで徒歩で移動するのは困難で、製作所内にバスの定期便が走っている。
各製造部ごとに開発棟と量産棟が隣接して建っていて、それぞれの部署間の建物は近くても100メートルは離れているので、自分の関係する部署の人以外と出会うことは、出退勤時と昼飯時に大食堂に行く時以外には滅多にない。
敷地内には大食堂の他に、小食堂と呼ばれる食堂が5か所あって、他にもコンビニが3件。広い運動場やテニスコート、体育館、あげくの果てには病院まである。 自動車関連の部品を製造する製作所にふさわしく、敷地内になんとテストコースまである。1周約4キロメートルもあるオーバルコースで、コーナーにはバンク(傾斜)がついている。毎年このテストコースを使ったマラソン大会があるらしいけど、俺は出場は遠慮しておこう・・・。従業員数は約3万人で、まさにマンモス製作所だ。
俺が配属された部署は、自動車のエンジンに燃料を噴射する装置であるインジェクターを開発製造する部署で、燃料噴射装置(インジェクター)製造部、通称 “インジェ部” だ。
「なんていい加減な人事やねん。。。」
はい、本日二度目の同じセリフです。
俺はインジェ部のなかでせめて設計部門にしてほしいと配属希望を出していたんだが、なぜか設計部門でなく実験部門に配置されたのだ。この会社の人事は一体何を見て配属を決めてるんだろうか?。 この淀川製作所だけで毎年数100人の新入社員がいるから、人事部ももう適当に割り振ってそうだ・・・。
この納得いかない配属だけど、そこは俺はサラリーマン。会社の命令には従いましょ・・・・。というかもういちいち文句を言うのも面倒くさい。俺はいい加減・・・いや、能天気・・・いや、おおらかな性格なのだよ。受け入れようじゃないかっ。こんな性格していないと、“絶対記憶”の情報量で頭がおかしくなってしまう。
さて、インジェ部の実験グループはどんな仕事をするところかというとだけど、試作または量産された製品の燃料吐出量などを計測して、設計期待値通りの性能を有しているか?とか、 耐久性は十分か?など、機械的な計測をする部署だ。まぁ、かろうじて出身学部の工学には関係はしていてよかった。これで営業とか総務とかに配属されていたら、流石の俺も怒るででしかしっ。
ただし、月座電機では新入社員は仕事の適性を見るために、数カ月に一度、配置転換をすることもあるそうなのだから、俺はそこに一縷の望みを託したのだ。
「ふつ、プロは自分を慰める術を持っているのさ。」
なんてどこかの漫画に出てきそうなセリフが頭に浮かんだことは内緒だ。
俺は退屈な初期研修を終え、実際の実験業務を始めた。
実験グループは名前はグループとなっているが、実際はインジェ部の中の一つの課だ。
課長は近藤課長。年齢は44歳らしいけど、もうすでに頭がかなり禿げ散らかっていて、頭頂部には見事なバーコードが浮かんでいる。いつかバーコードリーダーで読み込んでみたいな。
課の中ではチームが2つに分れていて、二人いる係長がそれぞれに15名ほどいるメンバーを指揮している。実際の実験業務はこの係長が取り仕切っている感じで、課長は大体いつも事務所に木彫りの熊のように鎮座している。
そして、入社してから3ヶ月経過した7月。なんとか職場にも馴染み始めたその日、インジェ部に衝撃が走った。
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その日、インジェ部の全社員は部長である高橋淳二部長に大会議室に集められた。
高橋インジェ部部長は年齢50才、絵に描いたようなイケメンで、トレンディードラマに出てきてもおかしくない。壮年ではあるが髪はフサフサと生えておりいい感じに白髪が混ざっている、いわゆるロマンスグレーというやつだ。
身長が高くほっそりとした体躯で、中年太りなんて言葉は彼の辞書にはないんだろうな。
当然ながら女性社員の間では大人気で、「部長となら不倫してもいいわ~。」という女子社員もいるくらいだ。
さらに仕事はできるわ、社員にも気配りはできるわで男性社員からの人気も高く、将来は少なくとも製作所所長になることは間違いないだろうと噂されるほどの人物だ。いるところにはいるんだね、こんな人が。俺は無意味な嫉妬をしてみた。
そんな高橋部長が真剣な表情で部員たちに話し始めた。
「皆さん。今日は大事な話があります。 我々の製品であるi-97はご存じのとおり、豊光(とよみつ)自動車のゼータに採用され搭載されていますが、市場でそのゼータで車両火災が散発しているのは、皆さんもニュース等で知っていると思います。」
そう、国内中堅カーメーカーである豊光自動車は、2年前にニューモデルのゼータを新発売して、結構な人気車種になっているんだけど、最近、駐車中の車が突如炎上するという現象が起きていて、それをマスコミが報道し始めていた。
その車両火災の発生件数は1年間で4件で、カーメーカーにとっては無視できる数字ではないけど、放火の可能性もあることから、1件目が発生した時点では豊光自動車は最初は静観していた。
ところが2件目が発生し、それがテレビ局の社員の車だったらしい。直後から報道が加速して、豊光自動車も即座に調査を開始せざるを得なくなってしまった。
その後、3件目・4件目も発生してしまい、豊光自動車からはサプライヤーである月座電機にも調査協力依頼が届いたらしい。
車両火災には様々な原因が考えられる。
・放火
・電装品やハーネスのショート
・エンジンのオーバーヒート
・燃料漏れ
などなど他にも多数ある。
ゼータに搭載されている月座電機製のインジェクター「i-97」は1997年に開発完了した、次世代型と言われるインジェクターだ。
ここでインジェクターについて少しだけ説明しておきましょう。うんちくのお時間です。
インジェクターとは自動車のエンジンに燃料を供給するための装置だ。
自動車の燃料供給装置としてはこれまではキャブレターと呼ばれる装置がメインで使われていたけど、キャブレターは温度や湿度といった環境要因での供給量変化が大きくて、かつ決められた一定量ずつしか供給できないという欠点があった。それにとって代わって出てきたのが、電子制御式の燃料噴射装置(インジェクター)というモノだ。
インジェクターは燃料ポンプにより吸い上げられさらに圧力をかけられた状態の燃料を、電磁石で開閉する弁"ソレノイドバルブ"を動かすことによって噴射する機構をしている。こうすることで好きな時に好きなタイミングで好きな量の燃料を噴射できるようになる。
インジェクターの最大のメリットは、ソレノイドバルブを開閉する時間を変えることで、燃料供給量を自由にコントロールすることが出来ることにある。それまでのキャブレターでは無駄な燃料を出すことが多く、燃費が非常に悪かったけど、インジェクターを採用することで、最適なタイミングで最適な量のみ燃料供給することができるようになって、燃費が大きく改善された。
このため自動車においてインジェクターは必須となり、新車開発においては、もはやキャブレター搭載車など消えてしまってた。でも一部のカーマニアの間ではいまだにキャブレター搭載車の人気はあって、オールドカーをレストアして楽しんでいる人たちもたくさんいけるけどね。
新入社員のくせになんでこんなことを知ってんの? 思うかもしれないけど、これくらい俺にとっては当然のこと。
俺のこの知識は大学の学生図書館にあった正宗出版発行の”現代の自動車制御”という書籍から得たもので、俺はこの本を大学2年だった1994年の10月2日 午後3時22分から3時30分の間に読み終わっている。正しくは各ページを見ただけだが俺にとってはそれだけで完璧に記憶ができる。学生図書館の分類“産業”の書架番号レの2の上から3段目の一番左においてあるから興味のある人は読んでみてくれたまえ。
ちなみにこの本は俺に読まれる前には、1991年2月9日に同じ学部の稲田ひろしという先輩に読まれていた。
月座電機製「i-97」は、高燃圧にも対応できる最新型のインジェクターだ。
高橋イン制部部長の話は続いた。
「昨日、豊光自動車よりi-97に燃料漏れの疑いがあるとの報告がありました。車両を一晩放置した状態でエンジンを分解すると、エンジンのインテークマニホールドに極少量ですがガソリンが溜まっていたとのことです。豊光自動車側はi-97からの燃料漏れを疑っています。ただし、まだ燃料漏れの真の原因が分かっておりません。私はi-97に絶対の自信をもっており、i-97からの燃料漏れなど起きないものと信じています。皆さんにはi-97が燃料漏れの原因ではないことの証拠を是非とも見つけ出してほしい。」
ふむ。これは確かにインジェ部にとっては“衝撃”だな。
自動車において燃料漏れなどの重大な欠陥が発覚した場合、速やかに国土交通省に報告し、リコールを届け出て無償の修理や交換等をしなければいけないことが法律として決められていることは知っているよね? え?知らない? 道路運送車両法の第六十三条の二を知らないの? 法令番号昭和26年法律第185号だよ? みんなちゃんと自国の法律くらい読もうよ。
さて、リコールにかかる費用はカーメーカーからの自己負担となるんだけど、サプライヤーの製品が原因である場合には、サプライヤーに費用請求されてしまう。
まだ燃料漏れがゼータの車両火災の原因かどうかは確定していないけど、もしそれがインジェクターi-97の欠陥が原因だったとしたら、ゼータのリコール費用は全て月座電機が払わないといけなくなってしまうかもしれない。
例えば修理費用に1万円かかるとする場合、対象車が1万台であれば合計で1億円となる。
豊光自動車ゼータの場合、人気車両であったため、発売からの2年間で約20万台売れている。
インジェクターの修理交換費用は安くはなくて、安く考えても1台あたり2万円はするだろう。加えてインジェクター本体の価格も一本あたり2万円するから、4気筒エンジンだったら4倍の8万円になってしまう。つまり、車両1台に10万円のリコール費用がかかると言うことで、それが20万台あるということは、リコールの総額費用は200億円にも達してしまう。
いくら大手の電機会社である月座電機であろうとも、いきなり200億円もの損失は経営に大きな影響を及ぼしてしまう。
その日からインジェ部の面々は必死の原因究明活動を始めた。そりゃ200億円がかかってるから必死になるよね。と新入社員の俺はどこか他人事のように思っていたんだけど、他人事じゃなくなってしまった・・・。
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