三話目にしてようやく少し女子高生に甘えてみます。とっても遺憾で不本意だけれど。

 昨日と同じように悠が作った朝食を口に運ぶ。

 レトルトのご飯であることに変わりはないが、今度の休日にでもきちんと米を買っておけば久しぶりに炊飯器が仕事をしてくれるだろう。


 そのことを悠に告げると、「レトルトのご飯より安く済ませられますし、合理的ですね」と無表情で肯定された。合理的という言葉を使ったのは、彼女本来の性格か、俺の思考に合せたのか。


「じゃあ、仕事に行ってくる。」

「はい、……行ってらっしゃい。」


 小型PCの入ったトートバックを抱えながら玄関を出ていく。去り際に、本当に小さな声で「いってきます」と呟いてみた。特に意味があるとは思わない。ただ、なんとなくだった。


 扉が閉まるまでの一瞬の間。隙間から見えた悠の顔は普段の無表情ではなく、鳩が豆鉄砲を食らったような、お手本のような驚き顔だった。

 思わず笑ってしまいそうになる。あの娘もあんな顔もできるのだと初めて知った。


「虹村ァ!!…お前何ヘラヘラしてんだ?」

「すいません。大丈夫です。」


 そういえば、俺が仕事をしている間、彼女は何をしているのだろうか。当初は転入手続きを進めようと思っていたが、どうやら彼女は高校に通っていないようで、今からどこかに通うにしても、17歳で本来ならば高校二年生になっているはずの年齢。

 悠自身も今から高校にというのは考えておらず、どこかでバイトをしながら高校卒業の認定資格を取るつもりらしい。悠の父親は女が高校を出ても意味がないと言って通わせてもらえなかったという。


「虹村サン、これとこれお願いしまーす。あと、福丸のシステム保守もお願いでーす。」

「ちょっとまて、福丸の案件はお前の得意先じゃないのか?」


 へらへらとした態度でやってきたのは、去年入社してきた社長の息子、鞍井クライ譲三ジョウゾウだ。コネ入社と名高く、エンジニアとしてのスキルなんぞ一つも持っていないが、親の威光でクビになっていない。

 別にコネであること思うことはないが、仕事を押し付けてくるのは勘弁してほしい。前までの俺であれば、鞍井が仕事をするより自分の方が早く終わって合理的だからと引き受けていたが、今は定時に帰りたい事情がある。


「お願いしますよー。センパイでしょ?」

「だから、そこまで引き受けられないって。他の仕事もあるんだよ。」

「ああ、私が受けるよ。福丸と、会計システムのコーディングだな。あとは……」


 コーヒーを片手にデスクに戻ってきた花寺が鞍井の書類を取り上げる。結構量があるものだが、俺に押し付けようとしていたいくつかの案件を、ばつが悪そうな顔をして持って帰った。


「すまん花寺、助かった。」

「大丈夫だよ。それより、お前が仕事を断るなんてなんかあったのか?」


 なんとなく説明が面倒で、子供を引き取ることになったとだけ話すと、「しばらく飲みには行けなそうだな」と苦笑いをされてしまった。別に酒に強い訳でもない俺としては、どうでもいいことだ。


「じゃ、お先失礼します。」

「虹村!!三洋のコーディング終わってるのかァ!!」


 急ぎで終わらせるような案件でもないのだ。一応終わってはいるが、まだフォーマットが個人的に気に食わない。明日の朝には提出することを伝えて家路に着く。

 家に帰れば、悠が待っているのだ。


「おかえりなさい。お仕事お疲れ様です。」

「……ただいま?」


 いつぶりだろうか。いや、初めてだったかもしれない。

 おかえりを言ってもらったのも、ただいまを言ったのも。悠が初めてだったかもしれない。食事を作ってもらったことも。それに美味しいと言ったことも。


「どうかしましたか…?」

「いや、分からない。けど、なぜか…涙が止められないんだ。」


 気付けば、目から大粒の雫が零れていた。止めようと思っても止められず、なぜ自分が泣いているかもわからない。けれど、ずっと一人きりだった俺の隣に初めて誰かがそばにいてくれているということがたまらなく嬉しく思ったのだろう。


「大丈夫ですよ。大丈夫です。」


 悠の胸に抱きしめられ、彼女の服を涙で濡らす。頭を抱きかかえられたまま、髪の毛を撫でつけられるような感触に甘えてみる。


 子供の頃、ずっと母にこうされたいと願っていた。優しく抱きしめられて、自分が寝付くまで頭を撫でてもらいたいと。

 でもそれは叶わない。


 あの女が抱きたいのは、我が子ではなく、男だ。自分の欲を満たしてくれる相手だ。子供おれは邪魔なのだ。


「大人って、毎日つらいですよね。痛くても、苦しくても、誰にも言えない。」

「……本当は、嫌に決まってる。クソみたいな会社も、クソみたいな上司も、全部!!」


 少し硬い布の感触と、甘い臭い。ザラザラチクチクとした長い黒髪が頬にあたってむず痒い。恥ずかしさで顔が熱くなるが、悠の冷たい手に触れられておかしな感覚だ。


「落ち着きましたか…?」

「ああ、大丈夫。」


 顔をうずめていた胸元を整えながら、優しい笑みを向けてくる。この娘の顔、初めてきちんと見たかもしれない。


「量さん、ご飯食べましょう?冷めちゃうと良くないですから。」

「ありがとう。ちょっと、いや、結構恥ずかしかったけど。」


「恥ずかしくなんてないですよ。疲れた時は疲れたって言っていいんです。」


 恥を受け入れるような微笑みに、思わず目を逸らしてしまう。

 母親からの愛情なんて微塵も知らない俺が言うのも滑稽だが、彼女に抱いているのはよこしまな感情などではなく、家族に対する情愛なのかもしれない。


「悠、すごく美味い。ありがとう。」

「……『ありがとう』なんて言われたの初めてです。は女が食事を作るのは当たり前だって。料理が出来ない女なんて嫁の貰い手がなくなると言われてきましたから。」

「それはずいぶん、時代錯誤だな。たしかに俺は料理が出来ないし、悠を頼ることになるが、感謝は忘れない。その方が合理的だから……。」


 そこまで言って、ふと悠に見つめられていることに気づいた。脳の奥を覗かれているような、無機質な瞳。それはまるで、嘘をついた子供を叱る直前のように。


「嘘です。俺が、感謝したいから。ありがとうって言いたいから…です。」

「フフフ。量さんは素直ですね。感謝もうれしいですけど、料理の感想を言ってもらった方が、味の好みもわかって作りやすいです。」


 またあの優し気な目つきへと戻り、思わずたじろいでしまう。きっと、この娘には一生敵わないのだろうという、漠然とした予感が頭を駆け巡った。


…to be continued

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