人生に疲れた社畜が一番うれしいのは、おかえりなさいを言ってもらった時だと思う。二番目は朝食を作ってもらった時。

 いつもかけている無機質なアラーム音。強引に起こすための人を苛立たせるような音によって目が覚めて、ゆっくりとした動作でベットを降りる。

 リビングに向かうと昨日見た制服姿の悠がキッチンに立っていた。扉を開ける音に気が付いたのか張り付けた能面のような顔をこちらに見せる。虚ろな目と彼女が料理を作っていることに二重で驚いて言葉が出せない。


「なに…してんの?」

「すみません。迷惑でしたか?今日から仕事だと聞いていたので、せめて朝食を…と思ったんですけど。」


「そ、そうか…。」というマヌケな声を出してしまう。テーブルに並べられた味噌汁を見ると腹の虫が鳴った。普段はゼリー飲料を朝食代わりにしているが、たまにはきちんと食べるのも悪くないだろう。


「いただきます。」


 スクランブルエッグといつ買ったものだかわからないベーコン。シンプルな朝食なのは、家の冷蔵庫に大したものが入ってなかったからだろう。

 米の備蓄があるわけもないので、パックのレトルトご飯だ。


「食事は…作ることが多いのか?」

「コンビニ弁当は高いので。あの人からもらってるお金でやりくりしようと思ったら、自分で作った方が健康的だし、お金がかからないので。」


 自虐的に「光熱費はあの人が払ってくれるので…」と呟いた。いつもの虚ろな目がさらに濁っている。

 お互いろくでもない親を持つと苦労するものだ。そうは思っていても口には出さない。こんな風に傷の舐め愛がしたくて彼女を引き取ったわけではないからだ。


「じゃあ、仕事に行ってくる。留守は頼んだぞ。昼は…これで何とかしてくれ。」

「はい」


 無機質な返事を聞く前に会社へと急ぐ。扉を閉める直前に「行ってらっしゃい」と聞こえたような気がしたが、聞こえないふりをして足早にマンションを出ていった。


 適当に財布から出した5000円札を1枚渡したが、子供相手にそこまでは必要なかっただろうか。まぁ、金の価値を理解できない馬鹿ならそれまでだ。

 ただ、なんとなく、あの鬱々とした目付きを見ていると、くだらない使い方はしないだろうと期待してしまっている。


「おはようございます」

「虹村ァ!!小山商事のシステムと大谷株式会社のセキュリティの案件溜まってるからな!!あと、この前のリファクタリング。このコードのリバもしておけ!!」


 デスクに座ってすぐに目につく書類の山、未読メールの件数、上司の罵声に同僚の嘲笑。

 今の俺の目も、あの娘と同じ虚ろな目付きをしているのだろうか。いや、きっともっと酷い顔をしているのだろう。


「虹村、その量は大変だろう。少しだけこっちに回してもいいぞ。大谷の案件は元々私のだし……。」


 隣のデスクから小声で話しかけてきたのは、部長補佐の花寺だった。緩くウェーブのかかった髪がかすかに揺れて甘い香りが立ち込める。

 一つ上の先輩で、まだ若いにもかかわらず部長補佐という役職に就いているのは、ひとえに彼女が世渡り上手であり、それなりに整った容姿であるからだろう。紺のタイトスカートのしわを伸ばしながら、俺の仕事を受け取ろうとするが、それを手で制止する。


「気持ちはありがたいが、部長にバレるとお前も怒られるぞ。今度飲み物でも奢ってくれればいいさ。」


 自慢になるが、俺はエンジニアとしてレベルが高いと思っている。仕事のスピードはそれなりに早いという自負があるからこそ、彼女の申し出を断ることが出来るのだ。


「部長、山金のリバ終わりました。確認お願いします。それと、別メールで小山と大谷の構想も送ってあります。」

「チッ!!じゃあ、寺谷証券の新システム、内部設計進めておけ。プロマネに確認取れよ!!」


 露骨に苛立ちを示しながら、こちらを見向きもせずに指示を飛ばす。慣れた事だが、いちいち怒鳴りつけるので、周りのヤツらがニヤニヤしながら俺を眺めている。


 昼代わりにカロリーメイトを頬張っていると、なんとなく家に置いてきた悠のことを思い出す。

 緊張しているようだったし、大人しくしているとは思うが、喪中含めてほとんど会話をしなかったせいで彼女の性格がつかみきれていない。


 悠が家で何をしているかが気になって、午後は仕事が進まなかった。それでも、心配事が多い為にと無理にでも定時に終わらせたが。


「虹村、の…飲みに行かないか?きょ、今日のお礼に…」

「悪い花寺。今日は用がある。」


 悲しそうに目を伏せる彼女を置いて足早に自宅に向かう。特別不信感を抱いている訳では無いが、あまりおかしなことをされても困る。


 鍵を差し込み回そうとすると、感触が軽い。どうやら、俺が出ていったあと鍵を閉めなかったらしい。後で気をつけるように厳命しておこう。


「おかえりなさい。」

「あ、ああ。夕食も作ってくれていたのか…。」


 朝と同じようにキッチンに立つ悠の姿を見て、鍵のこととは別に何かを言わなくてはならないと思い出したが、その内容までは忘れたままだ。忘れるということは大事なことではないのだろう。


「……冷蔵庫の中に、食えるようなものがあったか?」

「あ、貰ったお金で買ってきたんですけど、ダメでしたか?」

「まぁそれはそうか。いや、食事を作ってくれるのはありがたい。負担にならない程度でいいから、今後も頼む。」


 能面のような顔が少しだけ和らいだような気がしたが、本当に一瞬だけでまたいつもの無表情へと戻ってしまっている。


「…冷めないうちに食べてください。」

「君は…?もう食べたのか?」


 テーブルに並べられているのは、俺一人分のパスタだけで悠の分は見当たらない。鍋の火を止めていることから察するにもう一人分作ることはなさそうだ。事実、俺の問いかけに頷きで肯定した。


 茹でるだけのパスタだとしても、今まで作ろうとしなかったのは洗い物だとか、料理以外にかかる手間を面倒に思っていたからだ。それを彼女が引き受けてくれるのは正直にありがたい。

 ふと、おもいだしたのは、朝食の時も夕食の時もお礼を言っただろうか?


「悠、ありがとう。朝食も、このパスタも、美味かった。」

「……い、いえ。お世話になっているので…。」


 彼女なりのジョークか嫌みだろうか。俺は何一つ悠の世話などしていないのに。


…to be continued

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