湖上にて

増田朋美

湖上にて

今日の奥大井は、晴れて良い天気だった。他の地域では雨が降っているところもあるらしいが、何故か静岡県は晴れている。最近は、広い範囲で雨が降るというより、ピンポイントのような感じで、一箇所にどかっと降ることが多い。その後で、降った地域には甚大な被害が出るが、降らなかったところは、猛烈な暑さという天気が続いていて、どうもやりづらいなと思ってしまうのだった。

そんななか、奥大井でもかなりの秘境と言える接阻峡温泉では、今日も多くの旅館が、お客さんの取り合いをしているのだった。最近は、同じ奥大井でも、寸又峡の方に人気があるようである。寸又峡には、良い旅館が点在しているのであるが、この接岨峡には、ワケアリの人ばかりやってくる。そういうところだから、余計に嫌になってしまうことも少なくなかった。でも、接阻峡に来てくれる人たちは、みんな、自然が豊かで、静かな環境に、自分を置くことで、とても癒やされたという人が多くいるので、それはそれでいいと思っているのだ。

その日、接岨峡温泉駅に、杉ちゃんと、水穂さん、そして、花村さんの一行が到着する。接阻峡温泉駅につくと、弁蔵さんが、にこやかな顔をして、待っていてくれた。

「水穂さん奥大井へようこそ。南アルプスあぷとラインは、快適でしたか?」

と、弁蔵さんは、杉ちゃんたちに声をかけたが、水穂さんが、ストレッチャーで横になってやってきたので、それ以上のことは言わなかった。代わりに、

「すぐに行きましょうか。部屋は、松の間をとってありますから。」

と、言って、花村さんと一緒に、水穂さんのストレッチャーを押しながら、ちょっと速歩きで、亀山旅館に向かったのだった。

亀山旅館と言っても、実際は、松の間、竹の間、梅の間しかない小さな旅館で、民宿に近いようなところもある。寸又峡にでかい旅館が次々と建っていて、接阻峡にやってくるのはほんの一握りしかいないので、このくらいの規模の旅館でも十分なのだが。来てくれるからには、十分にもてなしてあげようと思っているのだ。

弁蔵さんたちは、亀山旅館の正面入口から、水穂さんのストレッチャーを押して、亀山旅館に入った。入ると、仲居頭が杉ちゃんたちを出迎えて、花村さんが宿帳を書くとか、滞在のルールなどを仲居頭から聞いている間、杉ちゃんと弁蔵さんは先に松の間へ行って、水穂さんをとにかく布団へねかせて上げることにした。亀山旅館の居室は、全て和洋室だ。洋室に、ベッドが2つ、和室部分には布団が用意されていて、合計一部屋に四人まで泊まれるようになっている。弁蔵さんは、水穂さんをストレッチャーからおろして、ベッドに寝かせてあげたのであった。

「お夕食は、何時にしましょうか?18時ころでよろしいですか?」

と、弁蔵さんが言うと、

「ああ、そのくらいの時間で大丈夫だわ。よろしくおねがいします。」

と、杉ちゃんは言った。その間に、水穂さんの方は、もう疲れてしまったのか、眠ってしまうのであった。

「何日か見ない間に、すっかりやつれてしまいましたね、水穂さんは。いつからああいう感じなんですか?」

弁蔵さんがきくと、

「ああ、もういつかなんて忘れちまったよ。水穂さん、もう何日ご飯を食べないで気が済むんだろうかな?」

と、杉ちゃんは言った。弁蔵さんは、そうですかと心配そうに水穂さんを見た。それと同時に、宿泊手続きをした花村さんが入ってきた。弁蔵さんが、花村さんに、18時から、夕食にしますから、それまでゆっくりくつろいでくださいと言うと、花村さんはありがとうございますと頭を下げた。

弁蔵さんが松の間から出てくると、先程の仲居頭が、

「旦那さん、泊まりたいというお客さんが来てますけど?」

と、彼に言った。

「はあ、どうせ今日は松の間以外予約はございませんので、お通ししてください。」

と、弁蔵さんは、そう応答した。仲居頭は、わかりましたといって、こちらにいらしてください、と、玄関先に向かって、声をかけた。そこにやってきたのは、随分奇妙な出で立ちの女性が一人いた。何故か、今日は曇っているのに、サングラスを掛けていて、黒いスーツを身に着けている。

「じゃあ、宿帳にご記入をお願いします。そして、竹の間に案内して。」

と、弁蔵さんが言うと、女性は、仲居頭に渡された宿帳に、小諸久美子と書いた。そして、宿帳に書かれた住所を読むと、東京都から来たということがわかった。その小諸久美子と言う名前はどこか見覚えがある。でも実際お会いにしたとか、そういうわけではないけれど、名前を聞いたことがあるし、顔も見たことがある。

「それでは、竹の間にご案内します。どうぞいらしてください。」

と、仲居頭が、彼女を部屋へ案内しようとしたが、

「随分、小さな旅館なのね。まあ、お忍びで止まるんだから、それでいいわよね。」

と、小諸久美子という女性は、ちょっとため息をついていった。

「まあ、接岨峡ですからね。でも、ここは静かな奥大井の自然があります。それを満喫していってください。」

弁蔵さんがそう言うと、

「そうね。なにもないということは、ろくなものもないと言うことね。」

と、小諸久美子はそう言って、仲居頭についていった。それを見て、弁蔵さんは、ああいう客が最近多いなと思いながらそれを見送った。

「はい、お部屋へどうそ。竹の間です。」

と、仲居頭は、小諸久美子を竹の間に案内した。あいにく亀山旅館には、一人部屋はないので、

「一人で泊まるにはちょっと、大げさすぎる部屋ね。」

と、久美子は変な顔をした。仲居頭は、そのことは言わないで、

「夕食は、18時に持ってきますから、それまでゆっくりくつろいでいてください。」

と言って、そそくさと部屋を出ていった。

久美子は、とりあえず、一人になったので、和室スペースに置いてある、テーブルの前に座った。はて、何をしようかと思っても、何もすることがない。今まで忙しすぎるほど、仕事をしていたので、急にそれがなくなってしまったら、なにか心にぽっかり開いたような、そんな気がしてしまうのであった。いずれにしても、こんなところでぼんやりしていたら、時間がもったいない気がする。この旅館には娯楽室も何もないので、風呂にでも入ってみるかということにして、急いで浴衣に着替え、浴室に行くことにした。

浴室は、亀山旅館の一階の奥にある。確か、ここは、日帰り温泉もやっているんだったなと思った。女湯はどこかと探していると、

「そこで何をしているのかな?」

と、杉ちゃんがでかい声で言ったので、久美子は、びっくりした顔をする。

「ああ、お風呂を探しているんですけど。」

というと、

「風呂は、こことは正反対の方向だ。それは間違いだよ。」

と、杉ちゃんは言った。

「あの、失礼ですけど、お客さんはどちらからお見えになりましたか?」

観光客らしく、久美子は言った。

「ああ、僕たちは、富士からだ。」

と、杉ちゃんは答えた。

「まあ、随分近いところから来たのね。あたしは、東京から。ここに泊まるって言うと、なんかワケアリの人が多いって、週刊誌の記事に書いてあったわ。あなたもそうかしら?」

久美子さんは、杉ちゃんに言った。

「まあ、訳ありというのなら、僕たちも訳ありだな。まあ、なんか言われてもしょうがないな。」

杉ちゃんはカラカラとわらった。

「まあいい。とりあえず、女湯はこっちだからな。間違いないでくれよ。」

杉ちゃんは、車椅子を、動かしながら、玄関先の方へ行ってしまった。あの人はどうして、ここへ来たのか、久美子は気になったので、こっそり杉ちゃんのあとを付いてみる。杉ちゃんは、自動販売機で缶ジュースを買い、車椅子のポケットにそれを入れようとしていた。

「すみません、あたし持っていきますよ。車椅子の方が、缶ジュースを持っていくのは大変でしょう。」

と、久美子は杉ちゃんに声をかける。

「いいのいいの。そんなことしなくたっていいんだから。変な手伝いはいらないよ。」

と杉ちゃんはいうが、

「いいえ、余計なことじゃありません。そういうことは、しっかりデキる人が手伝えばそれでいいのよ。」

と、久美子は杉ちゃんが持っていた、缶ジュースを無理やりとった。

「あら、お酒じゃないのね。しかもこれ、緑茶じゃない。誰か、子供さんとか、そういう人がいるんですか?」

「いやあねえ、子供さんとかがいるわけじゃないけどさ。お酒が誰でも飲めるかって言うと、そうは限らないんだよ。」

と、杉ちゃんは、そう答えて、

「じゃあ、そのお茶、松の間まで運んで行ってくれ。」

と、言った。久美子は、杉ちゃんについて、松の間へ行った。といってもエレベーターに乗って廊下を歩くだけだった。松の間と表札が貼ってある部屋の前へつくと、

「じゃあありがとうな。助かりました。」

といって、缶を受け取ろうとしたが、久美子は部屋まで持っていくと言った。松の間の引き戸をガラッと開けて、おう買ってきたぜ、と杉ちゃんが言うと、花村さんが、出てきて、どうもありがとうございますと言った。久美子は、思わず、缶を落としそうになってしまった。だって、その部屋には、どこか外国の俳優さんみたいにきれいな人が、静かに眠っていたのだから。思わず、

「わあ、すごい、きれいな人!」

といってしまう。

「バーカ。そんなことを言ったら、せっかく気持ちよく寝ていたやつが目が覚めちまうよ。もっと静かに驚け。」

と、杉ちゃんは言った。でも、久美子にとっては衝撃が多すぎたらしく、彼女は何も言わなかった。杉ちゃんに、買ってきた缶を渡すのを、忘れてしまうくらいの衝撃だった。

「おい、持ってきた缶を渡してくれよ。」

と、杉ちゃんに言われてやっと、缶を渡すことができたくらいだ。

「じゃあ、手伝ってくれてありがとうな。もうお手伝いは終わったから、ゆっくり温泉に入ってきな。女湯は、ちょっと狭いようだが、それでもお風呂は気持ちいいよ。」

と、杉ちゃんに言われてしまうのであるが、できれば、そのきれいな男性ともう少し居たいと思ってしまう久美子だった。これまで、自分は、何人もの男性を相手にしてきたけど、本当にきれいな人は初めて見たような気がする。花村さんが、水穂さん、お茶買ってきましたけど、飲みますかと声をかけると、その人は、静かに目を開けて、ああすみませんといった。その声は、随分かすれた弱々しい感じだったけれど、間違いなく彼の声なのだろう。花村さんは缶を開けて、用意されていた湯呑にお茶を入れた。水穂さんがなんとかして起きると、花村さんは湯呑を渡した。水穂さんは、そのげっそりした腕で、受け取って、お茶を静かに飲んだが、同時に咳き込んでしまって、思わず湯呑を落としそうになった。幸い花村さんがとってくれたから、何も汚れずに済んだのだが、水穂さんの口元には、ちょっと赤い液体が漏れている。なんだか、大正時代にタイムスリップしたのではないかと、久美子は思った。花村さんが何も言わないでそれを拭き取ってやっているのを見て、余計にそう思ってしまった。

「お前さん帰らんのか?」

と、杉ちゃんに言われて、久美子ははっとする。

「ああ、ごめんなさい。私、邪魔でしたよね。」

と、久美子は急いで松の間を出た。でも、あんなきれいな人が、現実にいるなんて思いもしないほど、きれいな人だと思った。その日は、風呂に入るなんてどこかへ消し飛んでいった。今まで、彼女のもとに、プロダクションを通してやってきた、歌の下手な若い男性たちも、それなりにきれいであったが、あの人は、それとは違う、本当にきれいというべき人だった。そういう人なら、もしかしたら、芸能界でデビューさせたらいいかもしれない。あの顔であれば絶対に売れると思う。彼女の仕事上、男性たちには歌を歌わせるという条件があったが、そういうことより、聴衆は、容姿の美しさを求めているということを久美子は知っている。それを承知の上で、何人もの男性を、デビューさせてきた実績があるから。

久美子は、鬱になって、弾き飛ばされたと思っていた今回の静養で、ものすごい大きな収穫を得たと、一人で笑いたいくなってしまった。その日は、予定通り、18時に部屋出しの夕食を食べた。仲居頭が、明日の朝は、7時に朝食を持ってきますと言って、そそくさと、食器を片付けていった。

その次の日。朝の七時に、予定通り持ってきてくれた朝食を食べて、久美子はあの三人は一泊で帰るつもりなのかと思って、自分は玄関で待機することにした。自分はどうせ連泊だが、彼らは一泊で帰るのかもしれない。玄関先にちょっとしたロビーみたいな物があったので、彼女はそこで待つことにした。

「今日は、頑張って奥大井湖上駅まで行ってみましょうね。あまり部屋の中にいるのも良くないでしょうから。それでは、行きましょうか。」

と、弁蔵さんが、ストレッチャーをおしている音が聞こえてきた。ということは、あの人は、湖上駅に、散歩にでかけるのか。よし、ここで私も仕事を一回やり遂げてみせると思った久美子は、弁蔵さんが水穂さんのストレッチャーを押しているのが見えたのと同時に、

「あの、私もお手伝いしてもよろしいですか?」

と声を描ける。

「私、悪い意味ではありませんよ。こういう重度の障害がある方を、湖上駅までお連れするのは、大変でしょうし、お手伝いは多ければ多いほどいいのではありませんか?」

弁蔵さんははあという顔つきでみたが、まあ、手伝いが確かにあったほうがいいといって、一緒に来てくれといった。

「じゃあ、とりあえず、電車で奥大井湖上駅に向かいます。よろしくおねがいします。」

「あたし、押します。」

久美子は、弁蔵さんに変わって、水穂さんのストレッチャーを押した。幸い、亀山旅館から駅は数分で行くことができた。弁蔵さんは、電車が何時くらいに来るか知っていたので、さほど電車を待つ必要はなかった。電車がやってきて、乗務員と一緒に水穂さんは電車の中に乗り込んだ。どっちにしろ、奥大井湖上駅は一駅しかないので、数分しか電車には乗らなかった。電車の中に他の乗客もいなかったので、久美子は笑いが止まらないような気がした。

電車は、奥大井湖上駅に停車した。三人は、電車の乗務員に手伝ってもらって、奥大井湖上駅でおろしてもらった。弁蔵さんが、次は何分の上り線で帰るなど話している間、久美子は水穂さんに話をしてみることにした。

それにしても、目の前には大きな湖が広がっている。自分たちは湖のど真ん中にある島の上にある駅にいるのだ。湖は穏やかにさざなみを立てながら、目の前に大きく広がっているのだった。こんな美しい湖に、こんなきれいな人がいてくれたら、もしかしたらプロモーションビデオでも撮るとしたら、素晴らしい映像になるだろう、と思ってしまうほど、湖は素晴らしい風景であった。

「ねえ、あなた、水穂さんっていったわよね。」

と、久美子は水穂さんに話しかけた。

「あたし、ああ、もしかしたらあたしのことを知っているかもしれないわね。あたし、こう見えても、音楽業界でやってるのよ。今は、期待を持てる新人を連れてくるのがあたしの役目。あたし、引っかかった人は、必ず声を描けるようにしているんだけど、あなたもそうなのよ。よかったら、あなたも芸能界でやってみない?」

「いえ、僕は。」

と、水穂さんは返答に困った顔をして、そういった。

「なんで、断るとは言わせないわよ。こんないい話、あなたにとってはすごいことなんじゃないかしら。それなら、早くからだを治して、頑張ろうっていう気持ちにもなるでしょ?どう?」

と、小諸久美子はそういった。下手なことがあれば女を武器にすることだってできる。それを利用すれば、大体の若い男たちは言うことをきく。久美子はそれを知っている。ところが、水穂さんはそのような誘いに何も反応しない。

「いえ、僕はお断りします。もうそういうことはできやしないので。」

水穂さんは弱々しくそう答えるのであった。

「まあ、私の言うことを断るなんて、変な人ね。私、何も怪しいものではないわよ。テレビを見れば私の事もわかるような気がするんだけど?」

「残念ながら僕はテレビを見ないので。それに、もう二度と、そういうことはしたくないんですよ。」

テレビを見ないのも、それは珍しいが、自分の誘いをそうやってきっぱり断る男がいるというのも久美子は驚きだった。

「あのすみません。水穂さんを利用して、自分の名をあげようとするのはやめてもらえないでしょうかね。小諸久美子さん。」

弁蔵さんに言われて、久美子は思わず彼を見た。

「水穂さんはあなたみたいに、くだらない曲を作るような音楽家とは違います。たやすく、そういう人を動かして、ゴミのように捨ててしまうのがあなたみたいな人ですよね。僕は、そういう人に、水穂さんを合わせたくありません。それに、奥大井の自然だって、そういう汚い人に来てほしくないはずだ。そういう目的でここに来ているんでしたら帰ってくれませんか!」

「くだらないって。」

久美子は急いで弁蔵さんにそう言ったが、弁蔵さんは険しい顔をしたままだった。それでは、もうだめなんだなというような気がした。奥大井の湖は、まさしくコバルトブルーと言うのにふさわしい眺めで、所々に鳥が飛んでいる。湖は、くだらない音楽を否定するようなそんな美しい眺めだった。久美子は、その湖の水が自分のしている悪事を許さないような、美しさではないかと思った。それくらい奥大井湖上駅は美しい場所だった。だから、久美子はもうこんな汚らしい真似をするのはやめようと小事に誓った。

「さて、水穂さんが疲れてしまうといけないので、次の電車で帰りますよ。今度こそ、ちゃんと手伝っていただけますね。」

と、弁蔵さんに言われて、久美子ははい、わかりましたといった。そうして待っているうちに、約束の電車が三人を迎えにやってきた。
















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湖上にて 増田朋美 @masubuchi4996

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