第12話 男の人が苦手なのはわかった。今から精神科に行こう
さて、私の恋愛話はこれで以上になるのだが、この小説のタイトルはあくまで『Aの私』だ。私がアセクシャルであるために経験した無理解や自分の中で見出したある決意を語るために、あと二話だけお付き合いいただきたい。
先述したが、相沢さんとの出会いのきっかけはお見合い協会だった。
お見合い協会で会う男性のプロフィールは私の母もチェックしていたため、夏目さんまでの時とは違い、相沢さんと付き合うことになったことは母も知っていた。
母と相沢さんは会ったことはなかったものの、有名大学を卒業し、安定した大企業に就職し、特筆する問題のない相沢さんのことを母はいたく気に入っていた。
何よりも結婚に乗り気でない私が二年以上も付き合った相手だったため、このまま身を固めてほしいと思っていたらしい。
しかし私が振ったという報告を聞くと、母はなんてことをしたんだと私を怒った。
「あんた一体一人でどうやって生きていくのよ! なんであんないい人振ったのよ!?」
振った直後で私はかなりの傷心状態だったが、血は争えないもので母も大概私と同じように延々と文句をいうタイプだった。ただ母の場合は文章ではなく口頭だった。どうして振ったのかくどくどと詰められた私はうんざりしてしまった。
母は、セクシャルマイノリティーについても知っていることなら寛容的だ。私の幼馴染にトランスジェンダーがいるが、その子のこともそういう子として好意的に受け入れている。
しかし一方で知らないことについては結構偏見を持っているのである。例えばお見合いの時も、相手が離婚していたり、親の仕事が社交ダンスの講師だったりすると、この家はよくないと決めつけていた。
だからLGBTの四文字に含まれていないアセクシャルの話をしたところで理解されないのは目に見えていた。何度も他人にしてきた説明をまたするのが面倒臭かったのもあるが、私はアセクシャルであることは敢えて言わずに、ただ男の人が苦手なんだとだけ母に伝えた。
すると母は、信じられないといった様子でこう言ったのだ。
「どうして? 男の人と一つになりたいって思わなかったの?」
あまり聞きたくない言葉だった。母はセクシャルにおいては普通の人間だとわかっていたが、身近な存在も性欲を持っていることを認識したくなかったし、親から価値観を否定されるのが辛かった。
母からすれば男が苦手など言い訳にしか見えなかったのだろう。
私には兄が三人いて、小さい頃から兄ともみくちゃになって過ごしてきた。慣れていることこそあれ、苦手なはずがないと思ったらしい。
とはいえ、苦手なものは苦手だし、母は別世界の人間だとわざわざ確認させられるようなことを言われて、私は遂に限界を迎えた。
相沢さんの件で疲れ切っていたのもあり、私は号泣しながら、思いの丈をぶちまけた。
「もう嫌なの! 嫌なんだよ!! 触られるのも上手くいかないのも臭いも全部、嫌なの!!」
私は自分の部屋がなく、居間に布団を敷いて寝ていたため、号泣しながら布団に潜り込んだ。そんな私を見て母は追及をやめた。
だが、それで終わらなかったのである。翌朝、もうこの件は終わりでいいだろうと勝手に見切りをつけていた私に、母は提案した。
「男の人が苦手なのはわかった。今から精神科に行こう」
どうしてそうなるのかと思った。確かに我が家は母も兄も一度メンタルに不調をきたし、精神科にお世話になっていた。
ただ一度物凄く泣いたから、メンタルの薬でももらってこいとでも思ったのだろうか。
違う。母は私を異常者扱いしたのだ。私の感覚は普通ではなく、治療が必要なものだと思ったらしい。
私は必要ないと断ったのだが、母は絶対におかしいからと言って私を車に乗せ、そのまま精神科のある病院へ向かった。
病室までついてきた母は、夕べの私の様子を病院の先生に話した。とはいえ私も二十八歳でいい大人だ。先生は話なら本人から聞くと言い、母を早々に病室から追い出した。
話を聞いた先生はすぐに私の発言が性的指向から来ているものだとわかったらしい。
多分アセクシャルなんだと思うが、そのせいで異性と上手くいかず、夕べは相手を振ったばかりということもあって疲れていたので取り乱したと話すと、先生は淡々とした様子で聞いた話をカルテに書き取った。
「それで? 霜月さん自身は性欲が苦手なのを治したいの? カウンセリングはあるにはあるけど」
私は首を横に振った。
「心底嫌いなものを好きになることほど気持ち悪いことはないですよ」
「そう。じゃあ治療は不要だね」
先生は私にもう帰っていいと言い、私は病室を出た。母に治療は必要ないと伝えると、母は「そう」と一言だけ答えた。
不本意だったが、初診料の三千円は何故か私が払うことになった。
私はただ、私の普通に従って穏やかに生きていたかった。アセクシャルという言葉と出会ってから終始それだけだった。
セクシャルマイノリティーだから、他人に迷惑をかけるわけじゃない。確かに同性愛などであれば好きでもない相手に好かれて困るといった弊害は出るかもしれないが(但し、それは異性愛にも言える話)、アセクシャルの場合はそれもない。
誰かの要求に応える代わりに私のわがままを聞いてもらうことはあっても、私が私の価値観を無暗に人に押しつけたり、相手の考え方を否定したりは絶対にしない。
だから私が何を考え、何を苦手と思い、何を大事にしようが放っておいてほしかった。病院の先生のように、そういう人もいるんだとただ淡々と存在を認めてほしかった。
けれどどうしてそうならなかったのか。こんなにも何度も奇異な目を向けられ、「人間じゃない」などと心無い言葉をかけられ、親にさえ「精神科に行こう」と異常者扱いされてしまったのか。
答えは簡単だ。皆、知らないからだ。
知らないから理解出来ない。いわゆる「その発想はなかった」という奴だ。
考えてみれば私も、アセクシャルであるのが当たり前だったから、初めは皆が普通に性欲を持っているとは想像出来なかった。
性欲が何なのか知り、受け入れられず、だから私自身も周囲の人達に対して、「お前は狂っている!」などという攻撃的な気持ちを抱いてしまった。
マイノリティーの話になると、「理解されなくて可哀想」などと思われてしまうことが多いが、実際のところはお互いに理解していないことがあるというのが正しいのだと思う。
ただ、多数派の意見は得てして集めやすい。マイノリティーは普通に生活しているだけで価値観の違いを知ることになるし、望まない言葉をかけられることで悩み、それが考えるきっかけとなる。
傷ついたことは痛く本当に辛かったが、本当の意味で自分や他人について考える機会を得られたのは僥倖だと思った。
特に私は物語を、人間を書くことを生業にしているため、様々な角度で人を見られる目を得られたことは武器だ。そういう意味では悪いことばかりではないと思っている。
しかし、そう思えるのは長い年月をかけて私なりに苦しまずに済む方法を見つけようとした結果であって、周囲が性欲だらけで気持ち悪く、世界を、そして自分を異常だと感じてしまう日々は確かにあったのだ。
辛くてたまらないのに共感者もいなく、孤独だった。
誰にも相談出来ない。相談したところでもらえる言葉は良くて「へぇ、そうなんだ」。孤独を慰めてくれる「わかるよ」という言葉をもらえることは滅多にない。
それどころか「人間じゃない」などと言われて傷つけられてしまうことだってあるのだから、ますます言えなくなる。マイノリティーの辛さはそこにあるのだと思う。
だから私は、あの頃の自分を救うためにアセクシャルという言葉を広めたいと思った。
或いは今この瞬間、Aという孤独に苦しんでいる人の救いに少しでもなるようなことがしたい。
先程も言った通り、理解の第一歩は知ることだ。しかし、苦しんでいる当人に説明しろというのはなかなか酷なことだと私は思う。
誰もあなたのことなんて気にしていないと、自意識過剰だと言う人がいるかもしれない。実際に私も何度かそういう言葉をかけられたことがある。
けれど少しだけ想像してみてほしい。
自分の普通を話した時に、周囲の人間が毎回何かしらの反応を返してくる。「どういうこと?」だったり「面白いね」だったり「変な人」だったり、肯定的であっても否定的であっても、そういうものだよねと流されることは決してない。
その違いが自分にとって誇らしいものならともかく、マイノリティーという言葉でくくられるものの多くは悩みなのだ。
内容がなんであれ、「普通でない」という反応を返される限り傷つく。奇異の目を向けられないよう、普通になろうと無理をしてしまう。
そういう過去を経験してきているものだ。
だから敏感になる。受け流せなくなる。ちょっとしたことで辛くなる。またかと絶望してしまう。自意識過剰になるのには理由があるものだ。
ではどうやって理解すればいいのか。知らなければ理解出来ないじゃないか。そう思われてしまうだろう。
だから私は筆を執ろうと思った。この作品を書いた。偶然とはいえ、私は文章という表現の術を持っていたから。
私が伝えられるのはあくまで私目線の話であり、全アセクシャルの苦悩とは異なるだろうが、それでもアセクシャルという言葉でくくられる似た経験を伝えることは出来る。
少なくとも多数派にとって「その発想はなかった」という価値観を見せられる。誰かがアセクシャルというカミングアウトをした時に「アセクシャルについて書かれた本を読んだことがあるよ」と言える人を増やせる。
たとえ共感出来なかったとしても、アセクシャルという言葉を知っているよというだけで孤独感は慰められるものだ。
よくマイノリティーの人達が「私達を理解して」と演説することがあるのが、あれは何も共感してほしいという意味ではないのだと思う。
私は性欲を嫌っているが、アセクシャルという言葉を知ったあなたまで性欲を嫌いになる必要はない。
ただ知って、そういう価値観もあるらしいねという方向での共感を示せばいい。
どうやって恋人同士の絆を確かめ合うか、性行為をするかといった話は、アセクシャルの人とそういう関係になった時にだけ確かめればいいのであって、例えば飲みの席で「性欲がないってどんな感覚なの?」と根掘り葉掘り聞く必要はないのだ。
これは人から伝え聞いた話だが、同性愛者がカミングアウトすると、どうやって性行為をするのかと場所を問わず尋ねられることがあるのだという。
だが考えてみてほしい。あなたが異性の恋人が出来たと飲みの席で報告した直後に、どうやって性行為をするのかといきなり尋ねられたらびっくりするだろう。下品だと思うだろう。
それと同じで同性愛者も驚くし、アセクシャルも同じなのだ。
知ることは大切だが、不必要なことまで聞かないというのは、人間関係を円滑に進める上で誰もがやっていることだろう。どうしても知りたければ、当人ではなく、表現しようと発信している人に耳を傾ければいい。
実を言うと私は、アセクシャルという言葉を知ってから何度か『Aの私』というタイトルで文章を書こうとしていた。
しかしどう書けば伝わるのか自信が持てず、書いてはゴミ箱にドラッグ&ドロップしていた。
これは独りよがりの愚痴なのではないか。私だけが皆と違うと思っているだけで、本当は誰にでもある感覚であり、特筆することじゃないのではないか。笑われるんじゃないか、と。
ここまで長々と書いてきたが、その不安はやはりある。
しかしシナリオライターの仕事をしていて知ったのだが、ある程度解釈の正解を提示しているゲームシナリオでさえ様々な考察がされるし、良い評価も悪い評価も、注目される点も読み流されてしまう点も、読む人によって違ってくる。
小説は読者があって初めて成立するというが、まさに私が経験した話もそうなのだ。
だから『Aの私』という私小説はただあるがまま、正直に感じたことを書くことだけを意識し、ゲームシナリオを書く時にはいつもしている『こう解釈してね』という導線は一切敷かなかった。
この小説を可哀想なマイノリティーの話ととるか、それとも若気の至りで失敗ばかりをした愚かな女の話ととるかは、これを読んでいるあなたの自由にしてほしい。
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