第9話 L、G、B、T……Aってここにも入らないんだ

 馬場さんとの交流を控えるようになった私は、当時の仕事をやめて生まれ育った東京に戻ってきた。

 やはり家族に何かあった時に名古屋と東京では距離が遠すぎると思ったし、好きになれない仕事を続けることは苦痛だと判断したからだ。

 私には大学時代から付き合いのある友人にWebの記事を書いているライターがいるのだが、彼女が毎日楽しそうに精力的に活動しているのを見て、人生で初めて嫉妬という感情を抱いた。

 いやこれは私らしくないと思った私は、なかなか順調に進まない転職活動に嫌気がさしたのも相まって、ほぼ勢いのままゲーム会社へエントリーシートを提出し、そのままシナリオライターとして採用されることになる。

 未経験はアルバイトからというのが常識なゲーム業界において、育成枠とはいえいきなり社員採用をしてもらえたのは、誰に聞いてもそんなルートあるんだと驚かれるほど幸運なことだった。


 しかしそんな強運の持ち主である私も、恋愛においては運の使い方がおかしな方向にいってしまうのである。


 新しい仕事が楽しくてルンルン気分で会社から帰っていた時のことだ。都内の大通りを歩いていると突然男性に声をかけられ、


「ひ……一目惚れしました! なので、お茶してくれませんか!」


 といった具合で告白されるし、転職した先の会社でも、ある日年の近い社員に「相談がある」と晩ご飯に誘われてついて行ってみれば、


「俺思ったんだけどさ、霜月さんと俺って結構相性いいと思うんだよね」


 とやや上から目線の告白を受けるといった具合だった。


(一体どうして恋愛の世界は私を放してくれないのか……)


 ひとまず、これまでの恋愛で懲りていた私は告白を丁重に断って一人で帰ったのだが、告白を断るというのはそれなりに体力が要るものだ。なにより、自分が誰かの恋愛対象であり、性欲を向けられる存在だと自覚することが非常に苦痛だった。


(告白って通り魔みたいだな……)


 そんなことを考えながら、私は改めて逃げ場がないという現実を認識する。


 この頃、世の中で少しずつLGBTという言葉が聞かれるようになっていた。

 実際はもっと前から知られている言葉ではあったが、少なくとも私の周りでは急にこの言葉に感心を持ち始めた人が増えた印象があった。

 やや上から目線の告白をしてきた会社の同僚も自分はバイだと公言していたし、ニュースでも何かと取り上げられていたようにも思う。


 セクシャルマイノリティーの認識が広まることはとてもいいことだと思ったが、一方で私はLGBTという単語に複雑な感情を抱いていた。


レズゲイバイトランス……Aってここにも入らないんだ)


 認知度が低いことは知っていたが、セクシャルマイノリティーの中でも更に少数派だという現実を突きつけられたような気分だった。


 ちなみに私はシナリオを書くという仕事の関係上、セクシャルマイノリティーという存在に対してかなり気を使わなければならない立場にある。

 正直な話、現時点ではLGBT以外のセクシャルマイノリティーに配慮されたシナリオ作りは皆無といっていいほどされないのだが(極端な話、Aに配慮するとこの世から恋愛物語が消えることになってしまう)、それでもこの世にはどんな性があるのか意見交換される場に恵まれた。

 お陰で私は早々に『LGBTQIA+』というAが入ったセクシャルマイノリティーを表す言葉に辿り着くことが出来たのだ。


(それでも、一番後ろなんだ……)


 とは思ってしまったものの、国によっては三十を超える性の分け方があり、LGBTから始まる表記も本当はかなり長いものなのだそうで、七文字目に入っただけ僥倖と思うことにした。


※Q=クエスチョニング。自分の性別や性的指向を決められない人のこと。

 I=インターセックス。身体的特徴が男性或いは女性の典型的な状態と一致しない人のこと。

 +=他にも様々な性があるという意味でつけられた記号。


 ちなみにこのLGBTQIA+という言葉は2020年を過ぎてようやくニュースにも取り上げられることになるのだが、どういう因果かQをクィアー(風変わりなという意味。最近ではポジティブな意味でセクシャルマイノリティー自体を表す言葉として使われるようになった)のQと解釈することで『LGBTQ』という表記が多用されることになり、QとIとAは殆ど知名度が上がることなく、Qの中に内包される形となってしまったのだった。


 世間的にはセクシャルマイノリティーに対しての偏見が随分と良くなっている実感はあったものの、だからといってAの存在が少ないという私の実情は変わらず、また生活するうちに人とは感じ方が違うと新たな気づきを得ては戸惑うという日々であった。


 例えば先程触れた告白がそうだ。私にとって告白は既にナイフで刺されたのではないかと思うほど痛いものに変わっていたし、そんな痛いことを、自分を好意的に思っている人間がしてくる現実が奇妙に思えて仕方がなかった。

 私にとってはまだ痴漢をしてくる犯罪者の方が理解出来る。

 痴漢は犯罪なのだから、不快で当然だ。それも情状酌量の余地もない犯罪なのだから、悪人と決めつけて嫌っても全く問題ない。

 ところが体に触れるという行為自体は恋人もしてくる。私のことを大切に思ってくれている人が痴漢と同じ行為をするのだ。

 しかしそれは世間的には悪ではなく、むしろ好意的に受け入れられている。悪ではないはずの人達が途轍もなく不快なことをしてくる。

 やはり私にとっては受け入れがたい現実だった。性欲がある人達の行動というのは奇妙に思えて仕方なかった。


 これは私の偏見なのだが、世の中の多くの女性は一度は痴漢に遭ったことがあるのではないかと思う。

 かくいう私も高校時代と大学院時代に一回ずつ電車内で痴漢に遭っている。だがそれほどトラウマにはなっていない。

 というのも、一度目は立ちながらの小説執筆に夢中でお尻を触られていることに全く気づかず、電車を降りようと振り向いた時に至近距離に男性が立っていて、ようやく私の正面に座っていた人が終始凄い顔をしていた理由を悟るといった状況だったし、二度目は膝で触ってくる新手のタイプだったが「やめて」と言えばすぐに引っ込んだので、殆ど触られなかったのだ。


 正直な話、大川君や夏目さんと過ごした夜の方がずっとトラウマで、痴漢のように服の上からしか触って来ず、触られている時間も最大電車に乗っている間の十分かそこらで、逃げ場はあるし悪者と糾弾してもいい相手など全くもって可愛いものだ。

 恋人に触られるより痴漢に触られる方が遥かにマシではないか。


(いや、さすがに犯罪に巻き込まれる方がマシという考え方はかなり危険か……)


 色々考えた末に私の価値観はあらぬ方向へ歪もうとしていることに気づき、慌てて修正することにした。

 とはいえ本当に痴漢を許してしまいそうな自分がいたことは事実だった。

 私は自分の性欲のなさをどうにかしようとするあまり、どこまでが正常でどこからが異常なのかの判断もつかず、極端に危機意識が薄れてしまっていたのだ。

 感覚でよくわからないことは理性でどうにかするしかない。ということで私は何か痴漢に対し、自分の体に触れられてはいけない理由を作らなければならないと考えた。

 一番手っ取り早いのは、私自身が誰かの物になることだろう。


(やっぱり恋人を作るしかないのか……)


 毒を以て毒を制すという言葉があるように、私はこの結論を導き出したのだっ

た。


 よく異性が駄目なら同性と付き合えばと言われる。私もそれはいい考えだと思い、この頃女性と付き合うことを考えていた。

 しかしどちらかというとストレートな私が異性を上手く好きになれないと悩んでいるのに、同性をすんなり好きになれるはずがなかった。

 それ以前に、私は自らがセクシャルマイノリティーと自覚しながら、他のセクシャルマイノリティーのことを全く理解していない事実に気づかされるのである。


 それは仕事中のこと。全年齢向けのコンテンツにかかわっているはずの私はある日卑猥なキャラクターの台詞を書くように仕事を振られた。

 当然抵抗はあったし、何よりも上手に書けないと思うとスケジュール管理者には相談したのだが、どうしても人手が足りないので困っている様子だった。

 プロになったのに仕事を選り好みしてはいけないと思った私は結局その仕事を引き受けることにし、知らないなら知るしかないと必死になってインターネットでそれっぽい言葉を検索して回った。

 エロゲーや官能小説はもちろん、R18のつく映画にも殆ど触れたことのない私は、一体どうやったらそんな言葉に辿り着けるのかと頭を悩ませ、とりあえず『セックス』などと入力して検索ボタンを押したのだ。

 するとどういうわけかネットでは同性のセックスのやり方がかなりヒットした。

 私は当事者ではないので想像でしかないが、恐らく異性間のやり取りであれば口伝か動画で伝わるものが、同性愛という人口の少ないものになると大っぴらに人に聞くわけにいかず、そっとネットで調べる人が多いという表れなのだろう。

 とりあえず何でもいいから卑猥な言葉を探していた私は、それらの記事を読むことになった。


 そうして知ったのだ。Aでなければ異性愛も同性愛も性欲があることに変わりはないのだと。彼らは彼らなりにかなり工夫をして夜の営みをしているのだということを。


(駄目だ……女性と付き合っても何も解決しない……)


 まだ私にとって女性は自分に性的欲求を向けてこないという意味で安全圏という認識だった。

 夏目さんの時にしたように下手にトラウマを作ってしまえばもっと辛いと理解し、私は女性と付き合うという線を諦めることにした。


 ちなみにその時に書いた制作物は半分くらい採用され、半分くらいはもっと過激に手直しされた。

 全年齢向けとは一体何なのか、私は今でも首を傾げている。

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