第7話 お前も、お前も、お前も、皆狂っている!!

 夏目さんとのクリスマスを過ごしてからというものの、私は恋愛にまつわる何もかもが嫌になっていた。

 この世はどこもかしこも恋愛に溢れていて、辟易としていた。


 外へ出ても、街に流れるのはラブソング。

 街をゆく人を見ても恋人は溢れていて。

 テレビをつけても、映るのは恋愛ドラマ。

 ちょっと名のある人に私の小説を見せたら「恋愛は入れなきゃ駄目だよ」と物語の中ですら恋愛を求められる。


 恋愛、恋愛、恋愛。


 この世界は恋愛で出来ている。

 そしてある程度成熟した人間が恋愛の一部として認識するもの。それが性欲。


 一見爽やかなサラリーマンも、上品なキャリアウーマンも、私と年が近い人は皆性欲を持っている。

 親も当然性欲を持っていた。実際にそういうシーンを見てしまったことはなかったが、性欲がなければ子供は生まれない。

 私という存在自体が親の性欲の証明なのだ。


 性欲、性欲、性欲。

 性欲性欲性欲性欲性欲性欲性欲性欲性欲性欲性欲。

 どこを見回しても性欲だらけだ。

 一度気づいてしまえば、見るもの全てが性欲という言葉に置き換わっていった。

 周囲の人達が気持ち悪い。私自身が気持ち悪い。

 犬や猫でさえ発情期という言葉がある通り性欲を持っている。メスは相手の一部を体に受け入れ、オスはメスにまたがり股のものを押し込む。

 当然だ。生物は子孫を作って種を存続させるのだから、その行為は何一つ間違っていない。

 頭ではわかっていても気持ち悪いものは気持ち悪かった。


 私は女という枠組みの中にいる。

 私の胸は男に揉まれるために大きくなって、私の体は抱かれるために成熟した。そんな自分の体が気持ち悪くて仕方がなかった。

 子供の頃はナイスバディと言われる女性的な体に憧れた。しかしいざ自分がそれになってみると、虚しさしかなかった。


 私はこの世界で生きていかなければならない。性欲に溢れた世界から逃げるには、死ぬしかない。

 死ぬのは嫌だ。消滅願望は十代の後半の頃に抱えていたが、私は小説を書くという生き甲斐を見つけたことでそれを克服していた。

 死ぬということは小説を書くことを諦めるということだ。性欲が嫌だから小説を諦める、そんなのは絶対に嫌だった。


 私は私の普通を主張しただけだ。

 周囲に同調しようと努力はした。ただそれがどうしても出来なかった。

 そのせいで苦しんでいるのは私自身だ。私が苦しんでいるのに、私が幸せになるために何かを諦めなければならないなんて、絶対に間違っている。


 ああ、この世界はおかしい。狂っている。


 たった一つの感情が上手く機能しないだけで、世の中は簡単に生きづらくなるものだ。


 狂っている、狂っている。逃げ場はないのか。安寧の場所はないのか。


 無視したいと目を閉じても、生きるために目を開ければ世界が映る。逃れられない。

 突きつけられる。自分だけになくて、周囲の人達にあるもの。

 自分にとってとてつもなく嫌な感情を、皆は喜びとして感じ取っている。


 どうして? 理解出来ない。

 異性の体を求めた時のその感情の動き方は、私にとって狂気でしかない。理解しがたいという意味では、殺意と何ら変わらない。

 そうだ、殺意だ。体を求められる度にナイフで心を抉られるような感覚を覚えるのだから、鋭利な殺意を向けられたも同然だ。

 その殺意を人は好意と名づけている。狂気の沙汰でしかない。


 皆狂っている。本当にどうかしている。

 私一人が正しいんだ。私だけが正しいんだ。


 そんな攻撃的な気持ちに苛まれた私は、自分の感覚のを主張するため、心の中で主張を始めた。

 ある時は会社へ向かう途中の道で、ある時は外食で入った店内で。億単位の人間に対して、目に映る一人一人を睨みつけて否定した。


 お前は狂っている。世の中は狂っている。世界自体が狂っている。

 狂っている。狂っている。

 そこのお前は狂っている! あっちの女も狂っている!


 狂っている! 狂っている!

 お前も、お前も、お前も、皆狂っている!!


 目に留まった人全員に呪いをかけるように、心の中で叫び続けた。頭がおかしくなりそうなほどそうした。


 そうやって孤軍奮闘するうちに、やがて疲れきってしまった。そして不意に気づいた。

 皆が狂っているのではない。狂っているのは私だ。私の目がおかしくて、私の心がおかしくて、私の皮膚の感覚がおかしい。

 皆は普通で、私が異常なのだと。


 そう思った瞬間、私が世界に吐いた呪いが全て、自分に跳ね返ってきた。

 私が世界を理解していないのではない。私自身が世界に理解されない存在なのだ。


 アセクシャル。その言葉が呪いのようにのしかかる。


 個性、多様性、マイノリティを美化する言葉はこの世界に沢山あったが、結局どんなに取り繕ったところでマイノリティの本質は異端者だ。


(私は異端……いや、異常者なんだ……)


 共感を得られない孤独の中で、私は街中で泣き出さないよう必死に涙をこらえた。


 この頃、私のメンタルは荒んでいた。

 夏目さんとの関係が悪くなり始めた頃で、誰にも理解されない辛さを誰かに相談することも出来ず、一人で抱え込んでいた。

 悪いことは重なるもので、時を同じくして十年以上書き続けていた小説も思うように書けなくなってしまっていた。いわゆるスランプというものだ。

 更に追い打ちをかけるように、家族も私に恋愛を強制した。


「もういい年なんだし、お見合い協会にでも登録したら?」


 名古屋で働いていた私だが、東京出張の多い職場だったため、月に一度の頻度で実家には帰っていた。

 二十五歳が近づくと、母は顔を合わせる度にそう言ってきた。母はお見合いで父と出会ってすぐに結婚したため、お見合いによる出会いには肯定的だった。


「私が蓮くらいだった頃は、二十四歳はイブって言ってね、結婚出来る最後の歳だったんだよ。二十五歳になると結婚出来ないって言われてたの」


 などと繰り返し言い、もう結婚が出来る年齢なのだと執拗に訴えてきた。

 私の世代では、三十歳が結婚のラインの一つになっていたが、それが母の世代では二十五歳だったのだろう。

 世代が違うのだからという反論は勿論したが、果たして三十歳になっても結婚出来る自信は私にはなかったし、母も私が結婚に対して乗り気でないことを嗅ぎ取っていたようだった。


「別に結婚なんてしなくたっていいじゃん」

「結婚はしなきゃ駄目。夫婦になって、子供を産んでおかないと、老後になったらひとりぼっちだよ?」

「興味ない」

「ほらこれ、蓮によさそうなお見合い団体見つけてきたから、ちょっと見て」


 母は強引に自分のスマートフォンを見せてきた。

 当時私はまだ夏目さんと付き合いっていたのだが、母には夏目さんと付き合っていることを一切伝えていなかった。

 それどころか大川君や飯村さんと付き合っていたことも伝えていなかったため、母の目には恋愛に無縁などうしようもない娘に映っていたようだ。


「料金もかなり良心的だし、前金じゃなくて報酬制だから、かなり真剣に相手を探してくれるはず。とにかく一回登録しなさい。ね?」


 話がこじれると思った私はそこで付き合っている人がいるとも言い出せなかった。また、顔を突き合わせる度に結婚結婚と煩くする親にうんざりしていた。

 結局私は親を黙らせるため、そして一年間頑張ったけど結婚相手が見つからなかったという結婚出来ない根拠を作るために、お見合い協会への登録を決めたのだ。


(これって、どう考えても浮気になるよね……)


 結婚する気がないとはいえ、私には夏目さんという彼氏がいた。そんな状態で私は結婚する気もない男性達と会おうとしている。

 夏目さんとお見合い協会で会う男性、どちらからしても不誠実だ。しかしもうどうでも良くなっていた。


(どうせ私は異常なんだし、この際もっと異常になってやる)


 そんなことを考えていたのだった。


 恋をすると人は変わるという。本人を前にしなくとも、例えば綺麗になっただとか優しくなっただとか、日常に変化は現れるものだ。

 しかし強烈な好きを経験していない私は誰と付き合おうが全く変わらなかった。既に三人と付き合っていることを知らなかった母もそうだが、誰にも付き合っていることを打ち明けなかった飯村さんとの関係も、サークルメンバーの誰一人気づかなかったくらいである。


 そのため、名古屋で夏目さんと会い、東京でお見合い協会から紹介された男性と会ったところで、絶対に双方にばれない自信があった。

 親にしても夏目さんにしても、スマートフォンの中まで覗くことはしてこなかったため、注意すべきなのはロック画面に表示されるLINEの通知画面だけだった。

 私は通知画面に投稿文が表示される設定にしていたため、そこに夏目さんの名前ないしお見合いという文言が表示されてしまう危険性があった。

 そこで実家に帰っている間は夏目さんからのLINE通知を切り、夏目さんと一緒にいる間は親からのLINE通知を切っていた。


 この世界に生きる人間は私以外全員性欲を持っていて、私とは相容れない存在だ。そう信じ切っていた私には全ての男性が物のように映っていた。

 最初こそ罪悪感はあったものの、物なら何をしてもいいよねと思うと、罪悪感もなくなっていった。


 当時の私は人と同じことが出来ない駄目な自分に相応しい、誰にとっても批判されるような既成事実を作りたくて仕方がなかったのだ。


 だから親が会えと言った男性とは全員会ったし、食事に行けば女性というだけの理由で食事代をおごってもらった。

 ある程度の段階に進むと、私はなんとなくという理由で男性との交際に断りの連絡を入れた。

 先に向こうから断ってきた場合もあった。高学歴女というのはそれだけで市場価値が下がるのだとこの時身をもって知ったが、どうせ付き合う気はないのだから好都合だとしか思わなかった。


 更に言えば別の男性とも会っていた。

 塩田さんという方だ。演劇サークルのOBで私より十歳年上の人だ。

 その人と出会ったのは、また別のサークルのOBとOGの結婚式の場だった。

 当時の私は二十歳、大人の雰囲気に強い憧れを持っていた時代だ。何とか省勤務で常人にはさばききれない激務を涼しい顔でこなす塩田さんの姿を私は格好いいと思い、塩田さんは塩田さんで若い女の子と話が出来るのが楽しかったようで、私達は半年に一回食事をする仲になった。

 塩田さんと仲良く話す私を見て、塩田さんと同期の先輩方は私を心配した。

 塩田さんはその時結婚こそしていたが、よく身を固めたと周囲が感心するほど女癖が悪いことで有名だったのだ。


 話を聞けば塩田さんの恋愛観は面白いものであった。

 結婚前に彼が付き合っていた女性というのはいわゆるメンヘラと呼ばれる人達で、私など比べ物にならないほど一癖も二癖もある人達だった。

 激務を涼しい顔でこなすほど塩田さんはメンタルが非常に安定しており、多少のことでは動じない性格もあって、メンタルが不安定な人に非常にモテることは容易に想像がついた。

 塩田さんの信条はこうだ。


「相手にとって僕が必要なうちは付き合う。必要じゃなくなったら別れる」


 塩田さんからは色々な女性関係を聞かされたが、中でも印象に残っているのは、恋愛感情が希薄で性欲だけが強い女性の話だ。

 自己肯定感が極端に低い彼女は、誰かの性欲を満たすことで自分の存在価値を見出していたという。

 それは健全ではないと思った塩田さんは彼女と付き合うことにし、彼女が体を売る以外の方法で自分を認められるようになるまで添い遂げ、そして別れたのだそうだ。


(皆女たらしとか言うけど、言うほど悪い人じゃないな)


 もし出会った時に結婚していなかったら、一度付き合ってみたかったかもしれない。そんな気持ちにさせてくる不思議な人だった。


 私が名古屋に行ったことで塩田さんとはずっと会っていなかったのだが、私が東京に戻ってくると知るや否や、食事に誘ってきた。

 半年に一回だった食事はその時だけ三ヶ月に一回に頻度が増えていた。


 私は塩田さんに上手く人が好きになれないことや、性欲がよくわからないことを話した。

 この頃塩田さんが私を誘う頻度が微妙に増えていたのは、そんな悩みを抱える私を放っておけなくなったからだったのだと思う。


「世の中、本当に色んな人がいるよね~」


 様々なメンヘラと付き合ってきた塩田さんは私の話くらいでは動じなかった。


「で、今その名古屋の彼氏さんに黙って婚活してるわけだ。変わった子だと思ってたけど、蓮もなかなか凄いことするね~」

「親が結婚しろしろって煩いので」

「まぁ性欲がないってのは話聞けばなんとなくわかったし、それなのに結婚しろなんてしつこく言われたら、自暴自棄になるのもわかるけどさ」


 塩田さんは変わり者だ。だから私の話を素直に受け止めてくれた。

 それはそれで嬉しかったのだが、会う度に疑問に思うことがあった。


(この人の奥さんは、女性と二人きりでご飯に行っていることを知っても何とも思わないのかな……?)


 塩田さんに子供がいるのかどうかは知らなかった。塩田さんは自分の話は積極的にするものの、家庭の話は殆ど口にしなかったのだ。

 世の中の女性の中には男性と食事に行っただけでも浮気とみなす人がいることはテレビを見て知っていた。私がしている二人きりでの食事は浮気に入るのではないかと思った。


(やっぱり塩田さんの女癖の悪さは治ってなくて、私と会うのも浮気したい気持ちがどこかにあるからなのかな……)


 そんなことを思いながら、年下という理由だけで、私は毎度食事代を全額おごってもらっていた。


 そうして塩田さんと時々会いながら、かたや夏目さんとはUSJ旅行の計画を進め、東京でお見合い相手と会うという忙しい生活を送っていた。

 やがて夏目さんの臭いに悩まされるようになった私は、三月を迎える頃になって夏目さんに別れを切り出し、事実上はお見合い協会での婚活に集中するようになったのである。

 あっという間に片手には収まらない数の男性と会ったが、婚活が上手くいくことはなかった。

 ちなみに、暫くして塩田さんからの誘いはぱったりなくなった。それは奇しくも私のメンタルが落ち着いた頃だった。単に塩田さんが、不安定ではない女性に魅力がないと感じていたからなのかもしれないが、いずれにしろ塩田さんとの関係が大きな問題を呼ぶことはなかった。

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