第6話 ごめんなさい、無理です……
出会いはすぐに訪れた。私は縁もゆかりもない名古屋という地で社外の知人を作るために、名古屋で開かれたサンホラのオフ会に参加していたからだ。
人見知りしない性格のお陰で私は名古屋の人達とすぐに打ち解け、東京に帰るまでの一年半もの間、月に一回以上は必ず一緒に遊ぶほど仲良くなった。
彼はオフ会の参加メンバーだった。名前は夏目さん。年は五つ上で、縦にも横にも大きい人だった。
名古屋でエリートと称される有名企業に勤めており、年収も堅実な性格もこんな好条件の人はいないと周囲で評判になるほどいい人だった。
ただ夏目さんは女性と縁がなかった。女性に興味を抱いたことがなかったために、いわゆる実年齢イコール恋人いない歴という人だった。
その経歴が、私が初めてオフ会に訪れた日に変わってしまった。
彼には贔屓にしている絵師がおり、文房具系のグッズを普段使いしているほど入れ込んでいた。
主に可愛らしい少女のイラストだったが、決してエロ要素はなく、女の私にとっても素直に可愛いと思えるものだった。
だから私は夏目さんの持っているクリアファイルのイラストを見て率直に「可愛いですね」と褒めてしまった。どうやらそれがきっかけで、夏目さんは私に好意を持ったようだ。
オフ会の初日から夏目さんの熱烈な視線に気づいていた私は、早速夏目さんの告白を受け入れる準備を始めた。
そして、オフ会メンバーに誘われて初めてリアル脱出ゲームに行った帰り道に、夏目さんは告白してきた。当然私は「はい」と答えた。
それからはいつもの通りだった。一緒に食事をし、オフ会メンバーを交えて遊び、思い出を作り、仲を深めていく。
彼は一人暮らしで、私は男子禁制の寮生活だったため、外出の予定がない時のデートは自然と彼の家でするようになった。
私達はある決めごとをしていた。彼の家に着いた時に一度ハグをし、ちゃんと口同士でキスをする。一緒にゲームをして遊ぶ時は並んで肩を寄せ合い、帰る時間になったらまたハグをしながらキスをする。
そう、私は夏目さんにアセクシャルの可能性が高いことも、キスやハグが苦手なことも一切打ち明けなかったのである。あくまで普通の女として接し、普通の人が求めているものを欲しているように振る舞った。
私が夏目さんと付き合ったのはあくまで夜の営みを経験するため。出会ったばかりで橋本君のような希少性も感じていなかった私は、夏目さんといずれ別れることになろうがどうでもいいと考えていたのだ。
一緒にいる時間は楽しかったが、キスやハグはやはりぞわっとするものだったため、こういうのがなければ好きになるのにという気持ちが消えることはなかった。
堅実だった彼はキスやハグを外ですることは決してなかったし、どんなに別れが名残惜しくても、私が終電で帰れるように取り計らってくれた。
余程周囲に相談していたのか、夏目さんは初彼女を相手にしているとは思えないほど女性の扱いが上手く、何事もタイミングを誤ることはなかった。
嬉しいことも沢山してくれた。体格が良く力も強かったため、たまに私を軽いと言いながらお姫様だっこしてくれた。大人になって以来、そうやって抱きかかえられたことがなかった私は、お姫様だっこ中の独特の浮遊感に、アトラクションのような高揚感を覚えていた。
夏目さんのことは人として信頼出来たし、それが接触に繋がらないだけで一緒にいて楽しいという気持ちはあった。
私は接触への抵抗感を一切顔には出さず、楽しいという気持ちだけを表現していたため、夏目さんは私の狙い通りいけると思ったらしい。
出会って半年、付き合って三ヶ月半だったクリスマスイブの日、泊まっていかないかと誘われた。大川君の件があったため、さすがの私もそれが何を意味するのか理解出来た。私は「はい」と答えて、初めて夏目さんの家でシャワーを浴びた。
借りたぶかぶかのパジャマを着て、普段夏目さんが寝ているシングルベッドに横になる。夏目さんは私にちゃんとするかどうか確認を取ってからコンドームの準備を始めた。
部屋を薄暗くすると、夏目さんはゆっくりと私のパジャマのボタンを外して胸に触れた。大川君の時と同じだった。しっかりと揉まれた。
「痛くない? 平気?」
「はい、大丈夫です」
何故揉みたいのかという疑問はこの時無視した。今夜のために私は夏目さんと付き合ったのだ。
今夜を無事に乗り越えれば、二度目が訪れた時もきっと大丈夫。三度、四度と繰り返すうちに慣れる。そうなれば私はアセクシャルではなくなる。
恋愛感情と性欲のある、普通の人間になれる。だから何があっても我慢しようと思った。
(私は夏目さんのことを信頼している。それなりに好きな自覚もある。大丈夫。きっと受け入れられる)
夏目さんは私の体のあちこちにキスをし、パジャマのズボンを脱がすとその口を私の股間へと近づけた。彼の舌が生理の血が出てくる真ん中の穴に入るのがわかり、私は思わず体をよじった。
くすぐったかったかと聞かれたのでそうだと答えたが、実際はそんな場所を舐められると想像していず、怯んでしまったのだ。
何よりもそんな不潔な場所を舐めようという発想が全く理解出来なかった。
(どうしよう? 無理かも……)
心が折れかかった時、ふと思い出したことがあった。
大川君と付き合い始めたばかりの頃、恋人らしいデートを求めていた私達はある映画を観に行った。
タイトルは『ノルウェイの森』、言わずと知れた村上春樹の名作である。
私も彼も村上春樹作品に濃厚な大人の描写が入っていることを知らなかったため、これは恋人で観に行くものではなかったねとお互いに苦笑しながら帰ったものだった。
そんな映画の中で妙に記憶に残ったシーンがあった。
「開かなかったの」
うろ覚えだが、草原に男女が並んで座っているシーンで女性がそう言った。確か前に付き合っていた恋人と寝た時に上手くいかなかったといった内容だった。
私がそのシーンを記憶していた理由は、開くとは何かという部分で困惑したのと、あれだけ狭い穴に男の太いアレが入るのだから、開かなければ入らないよなと納得したからだった。
(私も開かないかも……)
不意にそんな恐怖に襲われた。条件は揃ったはずだった。
築いた信頼関係、恋人という夜の営みをする上でのライセンス、クリスマスといういい雰囲気、避妊具の装着などなど。
三ヶ月間、私は嫌なキスやハグに堪えてきた。三ヶ月も我慢したのだから、相手の一部が体に入ってくる一瞬くらいどうってことないと思っていた。なのに。
何故世の中の人達はこんなことをするのか。
何故大川君も夏目さんも恍惚とした表情で私の体を求めるのか。
何故私だけがその快感を理解出来ないのか。
何故、何故、何故?
どうして私以外の人は、心だけでなく体を求めずにはいられないのか。
疑問が頭の中をぐるぐると回った。大川君と過ごした和歌山のホテルでの夜のように、私は逃げたい衝動に駆られた。
何故私はこんなことをしているのだろうか。一体何を間違えたのか。どうして私にとっての普通が周囲の普通ではないのか。私だけ無垢な少女から大人の女性に心が成長しなかった理由は何なのか。
普通になりたい。ただ普通になりたい。
普通に、普通に、普通に。
……普通ってなんだろう?
私はそんなに普通じゃなかっただろうか? 人並みに学校に通えて、周囲からも好かれて、友達や家族とごく当たり前の思い出を作って、社会の枠組みの中で生きている。
それなのに、普通じゃない? 私が?
わけがわからなくなるほど考えている間に、夏目さんは自分の股間を揉んで準備を済ませていた。
もう一度、きちんとコンドームがついていることを確認してから、彼は私の股間にソレを当てた。いつか大川君に触らされたものと同じ感触が股間に当たり、私は遂に音を上げた。
「ごめんなさい。無理です……」
夏目さんはやはり紳士だった。その一言を聞くとそっかと言って、すぐに下半身のものを下げてくれた。
僅かに残念そうな顔をしていたが、それを言葉や態度には出さず、終始機嫌よく接してくれた。
「あれ? 震えてる?」
「すみません……」
「無理することなかったのに。それじゃあ、今夜はキスだけにするよ」
夏目さんに指摘されて私は初めて自分が震えていることに気づいた。
寒いわけでもないのに、自分の意思ではどうにもならないほど全身ガタガタと震えていた。夏目さんは背中から私を抱えると、これまでよくしていたように私の唇に自分の唇を重ねた。
夏目さんは安心させるつもりだったのだろう。私もそれがわかったので受け入れた。
しかしこれが最悪な結果を招くことになった。
(夏目さんの口からおりものの臭いがする……。さっき舐めてたからか)
夏目さんは清潔な人だった。自他ともに認める肥満体型ではあったが、汗の臭いは殆ど気にならず、柔軟剤に拘り、服も清潔な物を選んでいた。
相手の嫌がることにもかなり気を配れる方であり、慣れないことをする時には逐一私の意思を確認するほど丁寧だった。
そんな夏目さんが、おりものの臭いをプンプンとさせながらキスをしてきた。
夏目さんにとってこの臭いは不潔でも不快でもないのだ。その認識の差が、キスをした瞬間ありありと伝わってきた。
(気持ち悪い……)
私は疲れたふりをして夏目さんの唇から顔を背け、寝る体勢になった。とにかく早く朝を迎えたかった。
夏目さんが背中に体を寄せてくるのを感じながら、私はさっさと寝入った。
翌朝、私は夏目さんに勧められてもう一度シャワーを浴びてから、夕べのご馳走の余りを朝食代わりに食べて、会社の寮に帰った。
クリスマスを迎えた朝は冬らしく晴れ渡っていた。真っ青な寒空の下を、私は俯きながら歩いた。
ああ、結局この三ヶ月はなんだったのだろうか。失敗してしまった虚しさを胸に、私はバッグの中に入れていた荷物を片づけ始めた。
バッグの中には夏目さんからもらったクリスマスプレゼントが入っていた。私が普段から散々好きだと言っていたウッドストックのマスコットとがま口ポーチ。
もらった時は嬉しかったはずのクリスマスプレゼントを、気がつけば私は遠くに投げていた。
直視出来なかった。大好きなウッドストックが夏目さんからプレゼントされたという理由だけで気持ち悪く思えて仕方がなかった。
口の中に入ってきたおりものの臭いを思い出した。股間を舐められた時の感覚を思い出した。腹や背中にキスされた時のことを思い出した。
楽しかったはずのイブの思い出はすっかり色あせ、全てが嫌な記憶として塗り替えられた。
飯村さんにキスされた瞬間、大川君との夜が嫌な記憶になったのと同じことが起きたのだ。
(嫌だ……なんでこんなことばっか……)
私は近くに置いてあった手頃なレジ袋にウッドストックのマスコットとがま口ポーチを入れると、きつく縛って目につかない場所にしまいこんだ。結局、次にその袋を開けられたのは三年が経った後だった。
それから私と夏目さんは上手くいかなくなった。
原因は私だった。私だけにあった。
夏目さんはフォローも完璧にしてくれたが、私がアセクシャルであることを知らないために全てが空振りに終わったのだった。
私は夏目さんに会う度におりものの臭いを感じるようになった。最初は体臭かと思ったが、恐らく幻臭なのだと気づく出来事があった。
クリスマスの後、再び開かれたオフ会で訪れたカラオケ屋のロビーに四十人くらいで集まっていた時のことだ。オフ会メンバーと楽しく話していた私は不意におりものの臭いに気づいた。
入り口の方を見ると、夏目さんがちょうどやってきたところだった。周囲に四十人もいて、外からの風が入りそうもないほど人垣が出来ていたのに、私は臭いで夏目さんが近くにいるかどうかを判別出来るようになっていた。
本能とも直感ともいえる研ぎ澄まされた感覚が、嗅覚として知覚されるようになったのだ。
さすがに自分で自分が気持ち悪くなった。
(これ、多分防衛本能って奴だ……)
もう体は夏目さんのことを完全に拒否していた。
自分で招いた事態で、夏目さんは巻き込まれただけだというのに、本能は夏目さんを危険人物と判断していた。
臭いを感じるようになって以降、私は夏目さんの傍にいられなくなった。
二月にUSJに行く約束をしていたので、そこまではなんとか穏便に対処した。そしてUSJデートを終えた次の日、こんなにいい人はいなかったなと思いながら、私は夏目さんに別れたいと伝えるメールを送った。
こうして三人目である彼との関係は、小説に使えるかもしれない体験という糧と、自分に好意を向ける男性を全て拒絶したくなるほどのトラウマを残して終わった。
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