第2話 とりあえず付き合ってみたら?

「ふたり、そんなことになってたの!?」


 上島君がサークルを辞めた後、私はサークルメンバーの浅野さんと食堂にいた。

 そこで上島君が諦めるまで、裏ではかなり辛い突き放し方をしていたことを話した。


「後輩達に気づかれないように頑張ってたけど、浅野さんが気づかないくらいなら上手くやれてたんだね、私」

「全然気づかなかった。普通に仲いいのかと思ってた」


 しかし私が上島君を頑なに受け入れなかったのは、浅野さんにとっても意外だったらしい。浅野さんもまた周囲のサークルメンバーと同じように、私と上島君はお似合いだと思っていたようだ。


「上島のことはしょうがないとして、蓮ももう少し楽に考えればいいのに」

「楽って?」

「私も今付き合ってるあいつのこと、最初は興味なかったんだよ。でも告白されたから付き合ってみるかって思って付き合ったら、ちゃんと好きになったよ」

「そうなの? 最初からラブラブなんだと思ってた」

「違うって。恋愛なんてそんなもんだよ。とりあえず付き合ってみるのもいい経験になるんじゃない?」


 そんなものかと思った。

 確かに私も十九歳になっていた。小学生の同級生の中には結婚して子供を産んでいる人もいる。本格的に恋愛を考えても問題のない年齢だ。


「次に告白されたら、とりあえず付き合ってみるか……」


 ぼんやりと呟く私に、浅野さんは嬉しそうに頷きを返した。


 次の相手は一ヶ月も経たずに現れた。九月の公演に向けて大々的にサークルメンバーの募集をかけた時、彼は既に在籍していたメンバーの紹介でやってきた。

 一浪で入学してきた、一つ年上で同学年の人だった。

 法学部生、文系の学生でトップクラスの頭脳を持った凄い人だ。近くで見た時、二十歳なのに黒髪の中に白髪がかなり混じっていて、ちょっといいなと思った。


 髪に見惚れていたら、目が合った。なんだか間が持たなくて、私達はお互い笑って誤魔化した。

 彼は大川君といった。


 大学生同士で遊ぶとなれば、カラオケが鉄板だった。しかし当時の私はカラオケが大の苦手で、主宰という立場だから仕方なく同席している感じだった。

 大川君はそんな私を気遣い、私が孤立しないようにずっと隣にいてくれた。


 多分その頃から彼は私に好意を寄せていたのだろう。

 後にわかったことだが、彼にとって私は初恋の相手だった。中高一貫の男子校に通っていた彼には、共学の大学に入るまで恋愛するタイミングがなかったのだ。

 当時、私達の間ではSNSのmixiが流行っていた。サークルメンバーはそこで日常のやり取りをし、学校に次ぐ第二の交流の場となっていた。


 ある頃から、彼は定期的にこう呟くようになった。


「こいって何?」


 リプライには「鯉とは魚のことである」「濃いとは薄いの反対のことである」とサークルメンバーの投稿文が並んだ。

 皆、大川君の身に何が起きていたのかわかっていた。さすがの私も察していた。


「蓮、こいって何?」


 仕舞いにはサークル活動中に直接訊いてくる始末である。私は知らないよとテキトーにあしらってやり過ごした。

 すると大川君は頼んでもいないのに、とは何か、法学部生の目線から懇切丁寧に解説してくれた。


 彼の様子を見ていれば、告白まで秒読みだとわかった。

 浅野さんからもらった、とりあえず付き合ってみればのアドバイスに従うために、私は心の準備を始めた。

 そして十一月の下旬、彼は予想していた通り「付き合ってほしい」と言ってきた。サークルの飲み会帰り、混雑した外回りの山手線の電車内だった。


「うん、いいよ」


 もう心は決まっていたので答えを言うのは簡単だった。

 大川君は幸せそうに笑って私を抱き寄せた。周囲には沢山人がいたので、少し恥ずかしかった。


 私達はお互い初めての恋人だった。相手への好意以前に恋への憧れもあった。

 恋人と言ったらやっぱりお揃いのアクセサリーだよねと、まるで高校生みたいな初心うぶな会話をした後で、私達は渋谷に行って翼の形をしたペアのストラップを買った。


 なんとなく手を繋いでみた。なんとなく肩を寄せてみた。

 お金をかけずに、思いつく限りの恋人らしいことをしてみた。

 その時間はなんだか温かくて、楽しかった。


 学内の休み時間はずっと一緒にいた。サークル活動中も基本的に隣にいた。

 周囲は難攻不落の蓮が遂に恋をしたと大盛り上がりだった。

 こんなに皆が喜んでくれるなら告白を受けて正解だったかもと、私は頬が緩んだ。


 付き合ってみて気づいたのは、確かに上島君が言っていた通り、恋人と私の考える親友に大きな差はないということだ。

 恋人らしいことを色々してみたが、どれも上島君が私に対して日常的にしていたことだった。

 こんなに簡単に相手が幸せになるのなら、上島君に対して頑なにならなければよかったと、少しだけ後悔したくらいである。


 しかし、案外そんな簡単な問題でもないかもしれないと突きつけられることが起きた。


 早生まれの私は十九歳のうちに成人式を迎えることになった。

 朝早起きして着物に着替えるのが心底面倒だった私は、自分の式には行かずにサークルメンバーの成人式にカメラ持って参加した。その子は小学生時代の友達と久々に会って楽しそうにしていた。

 私も、ずっと連絡を取っていない同級生達と会ってみるのもいいのかもしれないと思った。


 家に帰る途中、私の旧友から最寄り駅付近で成人式の二次会が開かれるという趣旨のメールが届いた。場所は居酒屋だったので格好は自由にしていいとわかった。それなら何も問題ないと思い、私はジーパンとセーターという格好のまま会場の居酒屋に向かった。


 当時仲の良かった友達はいなかった。私と仲良くするタイプの友達はこういう騒がしい場所へは来ないのだ。

 それでも旧友との再会というのは楽しいもので、乾杯しながら元気だっただの、今どこに住んでいるのだのと、色んな人と会話した。


 そんな時、当時同じクラスだった女子が二人、酔った様子で私の前にやってきた。


「蓮ちゃんって処女?」


 挨拶もなく急にそう質問され、私は思考停止した。


(処女って、どんな意味の言葉だったっけ……?)


 頭の中で漢字変換は出来たが、日常で使ったことがなかったため、言葉の意味がなかなか思い出せなかった。

 私が考え込んでいると、女子達は言葉を変えて色々質問してきた。それらを聞くうちに、私は処女というのが性行為をしたことのない女性を指す言葉だと思い出したのだが、今度はどう答えるのが正解なのだろうかと悩んで黙り込んだ。


 実際、性行為というものはしたことはない。せいぜい手を繋いだだけで、キスもまだだった。

 彼女達の質問に答えるなら単に「うん」と言えばよかったのだ。しかしなんとなくからかわれているのがわかったので、それはやめておいた。


「彼氏はいるよ」


 彼女達はその言葉で質問の答えを理解したようで、嬉しそうに帰っていった。


 思えば彼女達は、同学年でありながら常に私に敬語を使ってきた相手だった。

 学年トップの成績を取り、先生からも気に入られ、芸能活動までしていた目立ちまくりの私を、彼女達は当時から心底嫌っていたらしい。

 だからか、なんでもいいから私より優位に立てる要素を探していたようだ。


(なんだか、大変そうな生き方だな……)


 そんなことを思いながら私は、本当はまだ飲んではいけないお酒を口にして、出来て二ヶ月足らずの彼氏と、アセクシャルという言葉を頭の中で並べた。


 大川君もやはりエッチなことをしたいのだろうか。私にはどうにも実感が湧かない。

 セックスというのは映画の中で時々唐突に出てくるもので、いつも無性に気持ち悪くて歯を食いしばって見ているものだった。

 男の太いアレを生理の血が出てくる真ん中の穴に突っ込むという概念は十九年生きている間になんとなく知ったが、何故映画の中で寂しさを覚えた男女が衝動的にそれをするのか理解出来なかった。

 自分の体の一部を入れようと思う発想の意味がわからないし、受け入れる方もどうかしている。普通に考えて奇妙な行為じゃないか。


 あれはやはり架空の中にあるもので、現実でするのはもう少し別の形なのだろう。


 どう拡大解釈しても許容出来るものではないし、私の両親がやっていたとも思えない。

 きっと彼も同じことを思っているはずだ。だって私達は初恋同士じゃないか。


 そこまで考えると、処女だとかアセクシャルだとかはどうでもよくなった。

 何も心配することはない。あんなことを彼が私に求めるはずがないのだから。


 懸念を自己解決した私は、それからも大川君との時間を楽しんだ。付き合って一ヶ月記念、二ヶ月記念と小さなお祝いをした後、私の二十歳の誕生日がやってきた。

 その日、彼は「今日、親いないんだ」と言って私を自分の家に招き入れた。


 ドラマにでも出てくる、いかにもエリートが住んでいそうな綺麗な家だった。

 二世帯住宅に住んでいた私にとって誰もいない家というのは珍しく、ソファーがふかふかだの、テレビの前に並んだパンダのぬいぐるみが可愛いだのと、無邪気にはしゃいで探索した。


 私が落ち着いた頃になって、彼はおもむろに口を開いた。


「俺、この家が嫌いなんだよね。両親とも上手くやれてなくてさ」


 両親と不仲だという話はなんとなく聞いていた。彼が何か諦めたような顔をして家を見渡した時、綺麗だと思っていた部屋が空虚感に満ちた無機質な部屋に思えた。

 私達は思春期特有の言い表しようのない寂しさを共有して、暫く何も言わずにソファーに並んで座っていた。


 不意に彼がこちらを向いて、私の肩に手をかけた。


「二十歳の誕生日の記念に、キスしようよ」


 ドキッとした。控えめに言って私もキスには興味があった。

 やはり恋人といえばキスをするものだ。少女漫画でも読んだし、ドラマでもよく見た。

 どうしてそんなことをするのかはよくわからないが、皆すると嬉しそうな顔をするので、やってみたいと思っていた。だから私は「うん」と頷いた。

 まずは互いに顔を近づけて鼻をぶつけてしまうという鉄板な失敗をした後で、私達は唇を重ねた。

 人の唾液は結構苦いのだと知った。彼も似たような感想だったらしい。


「ファーストキスの味はレモンの味って聞いたけど」

「しないね、全然」


 そんなベタな恋愛小説のようなやり取りをして、笑い合った。あまり上手ではなかったかもしれないが、私は安堵していた。

 なんだ、恋愛感情がないと言われたAの私でも、どうにかなるじゃないか。

 充足感を胸にソファーで寛いでいると、彼はもう一度唇を重ねてきた。今度は舌も入ってきた。


「オエッ」

「ごめん。嫌だった?」

「吐き気する。舌はやだ」

「じゃあ唇だけ」

「えっと……というか、まだするの?」

「うん、する」

「……そう」


 別にやってみても苦いだけで、大して楽しいものでもなかったじゃないかと思ったが、彼はどうやらキスが気に入ったらしい。

 好きの度合いを考えれば、彼の方が私よりずっと勝っているのは明白だった。この感情の違いは好きの度合いの違いかと、その時は深く考えずに私は唇を奪われておくことにした。


 私達は順調に恋人として親交を深めた。何もかも上手くいっていた。

 キスはあまりしなかった。私達はお互いに結構奥手だったのだ。街中や学校では、ちょっと手を繋いで歩くだけで十分だった。


 いや、そう思っていたのは私だけだったのかもしれない。


 付き合って三ヶ月記念が過ぎると、私達は恋人らしく特別な場所にデートに行く計画を立て始めていた。定番のディズニーランドに行こうと考え、大学の図書館のPCを二人で覗き込みながら、チケット代を調べるなどした。

 思っていたより高くつくねとか、ディズニーランドの回り方ってよくわからないよねとか、そんな他愛ない話をしながら、三月の下旬に行く予定で着々とプランを決めていった。


 ところがディズニーランドデート計画は中止になった。

 その年は二〇一一年。東日本大震災が起きたのだ。


 液状化現象に見舞われた千葉県は水浸しになった。ディズニーランドも例外ではなく、園を閉めざるをえなくなったのである。


 仕方がないので私達はプランを変更し、ゴールデンウイークに和歌山のアドベンチャーワールドに行くことにした。

 大川君は周囲にも有名なほど、熱烈なパンダ好きだった。アドベンチャーワールドというのは日本で一番多くのパンダを飼育している施設であり、彼が一度でいいから行ってみたい場所だったのだ。


 和歌山という遠方で一日楽しむなら、宿泊は避けられない。私達はホテルを予約することにした。


「同じ部屋でいい?」

「うん、いいよ」

「ベッドは?」

「分けて」


 細かい条件を確認し合いながら、お金のない学生らしく、値段の安いビジネスホテルを押さえた。


 決行日。学割で買った新幹線のチケットを持って、和歌山へ向かった。

 翌日に体力を温存するため、私達はさっさと晩ご飯を食べてホテルに行った。

 自分のお金でホテルに泊まるのは初めてで、ベッドにダイブした時、一つ大人になった気分だった。


 シャワーを浴びて、ホテルの浴衣に着替えて、私は明日のパンダが楽しみだとルンルン気分で普通にベッドに潜り込んだ。

 しかし彼は寝やすいように照明を落とした部屋で、おもむろに何かを持って私に近づいてきた。


「コンドーム、買ってきてるんだけど」

「へ? コンドームって、あのコンドーム?」

「うん」

「なんで?」

「だって……するでしょ?」

「……する?」


 彼は目の前でズボンを脱ぎだした。男のアレがぶらんと垂れ下がった。

 ひえっと心の中で悲鳴を上げた。


「いや、待って。なんで脱いでるの? 私聞いてないんだけど」

「聞いてない? だってホテル、同室でいいって言ったじゃん。それってこういう意味じゃなかったの?」

「そういう意味で言ったんじゃないよ。安いからだよ。なんでそうなるの」


 慌ててそう否定する。普段の彼なら「そっか。勘違いしてごめん」の一言で、あっさり引き下がるはずだった。ところがどういうわけか彼は、その時だけは妙に感情的になっていて従ってはくれなかった。


「なんで? 俺達恋人だろ? やろうよ」

「やんないよ。やだよ」

「なんで?」

「そういうつもりで旅行に来たんじゃないよ。やだよ。明日あるし、早く寝ようよ」


 彼は引き下がらなかった。泣いているように顔をしかめて、絞り出すような声で、


「……もう抑えらんないよ。って痛いんだよ!」


 と言った後、ガバッと私がもぐっていた布団をめくって、無理矢理体を起こして、


「慰めろ」


 と私の右手を取って、自分の股間に押しつけた。

 薄皮に覆われた、軟骨のような硬い物が指先に触れていた。


 何が起きたのかよくわからなかった。

 ただ彼が尋常じゃなく興奮していて、怒っているように見えて、怖かった。


「よくわかんないけど、なんか、ごめん」

「謝るなら、胸触らせて」

「それで気が済む?」

「うん」


 彼は浴衣の隙間から手を入れてきた。

 ただの脂肪の塊を揉んでどうするのかと思ったが、彼は少しずつ落ち着きを取り戻しているようだったので、そのままにした。


(そういえば、痴漢に遭う時はいつもお尻だったな……。胸って本当に触られるんだ)


 そんなことを思っているうちに、彼は急に我に返ったように息を呑んで、弾かれたようにベッドから降りた。

 そして「ごめん! ごめん!」と何やら必死な形相で土下座を始めた。

 この豹変ぶりは一体何なのかと困惑しながら、とりあえず解放されたらしいと思い、私は浴衣の乱れを直した。


「とりあえず、寝ない? もういい時間だよ」

「……うん」


 彼はもう何もしてこなかった。私は朝までぐっすり眠った。


 翌朝、大川君はよく眠れなかったのか妙に興奮した様子で、しつこいほど謝ってきた。

 恨む? 別れる? 訴える? あのね、法律的には性暴力ってねと延々と喋ってきた。

 そんなことより早くパンダを観たいと思っていた私は、半分聞き流しながら朝食のパンをかじっていた。


「ねぇ!」


 唐突に彼が声を大きくしたので、私は思わず肩をビクッとさせた。


「な、何?」

「本当にいいの? 俺、訴えられても文句言えないことしたんだよ?」

「まぁ、驚いたけど……別にいいんじゃない? 私達恋人で、付き合ってそれなりに月日が経ってるわけで、条件としては何一つ間違ってないだろうし……」


 彼はシュンとしていた。そんなに後悔するなら最初からやりたいなんて言わなけりゃよかったじゃんと、私は溜め息をついた。


 ひとまず折角の宿泊デートなのだから、いつまでも険悪なままは嫌だった。

 朝食を食べ終えると、私達はすぐにアドベンチャーワールドに向かった。


 パンダは可愛かった。ガラケーの粗いカメラで、白黒のふわふわしたずんぐりの体が冗談みたいな体勢でくつろぐ様を私は激写した。

 彼もガラケーで、人垣の上から撮ろうと背伸びしながら、何枚も写真を撮っていた。

 互いに撮った写真を見せ合って、お土産を買って、初めての宿泊デートは平和に終わった。


 一つトラブルはあったが、私は些細なことだと思っていた。この程度で何かが変わることはないと思っていた。

 ただ、大川君の中では何かのが外れてしまったらしい。


 元々彼は周囲の機嫌を必要以上に窺うタイプの人ではあった。それが私に対して過剰になっていった。

 言うなれば、彼は完全に私の言いなりになったのである。


 ゴールデンウイークが終わると、一ヶ月遅れで新学期が始まった。

 東日本大震災のせいで、工学部生だった私の授業カリキュラムは滅茶苦茶になっていた。始業が一ヶ月遅れたせいで、本来四ヶ月かけて行うものを三ヶ月でこなさなければならなくなったからだ。

 工学部の三年生は四年間の大学生活で最も忙しい時期だ。授業は週に二十コマ以上あり、課題も非常に多い。


 一番大変なのは毎週二、三回行われる実験のレポートを書くことだ。

 授業の期間が一ヶ月短いので、時々一日に二日分の実験をしなければならなかった。或いは実験する時間はないと先生が判断し、データだけ渡されて実験レポートを作成するように言われることもあった。

 通常一つのレポートを書く期間に二つのレポートを書かなければならない。

 加えて私にはサークルの主宰兼照明チーフとしてメンバーの稽古場を見守る義務があった。

 しかし三年生になると校舎が文京区に移るため、サークル活動の拠点である渋谷区の校舎まで一時間かけて移動しなければならない。


 つまり私の生活は震災のせいで完全に破綻していたのである。

 しかし私は授業を一度も休まなかった。サークル活動が滞ることもなかった。


 理由は大川君だ。彼は「法学部は工学部ほどコマ数が多くないから」と言って、空き時間になると私の代わりにサークル活動を見守ってくれるようになった。

 日を追うごとにこなすべきレポートの数が増え、後輩達の練習を見守りながら稽古場でレポートを必死に書き綴る私を心配したのか、彼は出来ることはないかと尋ねてきた。

 これは私の仕事だからと最初は断っていたが、どうしてもとしつこく聞いてくるので頼みを聞いてもらうことにした。

 主宰なので学校に提出しなければならない書類があると言うと、彼は自分で用紙をもらいに行って必要事項を記入し、提出してくれた。

 月が変わったら学生会館など、構内に三つある施設の予約表を見に行き、条件に合う部屋の予約を片っ端から取る必要があると言うと、彼は全て押さえてくれた。

 他にも、公演で必要な木材やペンキの購入のために学外の店に行き、新メンバー募集のビラの大量印刷から各校舎への配布まで、言ったことは全てやってくれた。

 本当によく働いてくれた。文句の付けどころがないほど完璧に。


 大川君に何故それほどまで時間があったのか私は疑問だった。理由は私がレポート地獄からようやく解放され始め、サークル活動にも顔を出せるようになった頃に本人から聞かされた。


 彼は殆ど授業に出席していなかったのだ。


 最初は今年落としても来年になれば再履修が可能な選択科目の授業だけを休んでいたのだという。

 しかし頼みごとを多く引き受けるうちに時間が足りなくなり、気がつけば必修科目まで休むようになっていたそうだ。


 そんなことになっているとはつゆも知らなかった私はショックを受けた。

 理解が出来なかった。どうしてそこまで頑張るのか。何故自分を犠牲にしてまで言いなりになろうとするのか。


 謝罪なのか。あの日の。

 それともこれが恋というものなのか。

 相手のためなら自分は全てを捨ててもいいと思う異常心理こそが恋だというのか。


(こんなの、全然フェアな関係じゃない……)


 頼んでもいないのに身を粉にして働く姿を見ているうちに、私は彼に酷く嫌悪感を抱くようになった。

 彼が自分の大事な物を壊していく様を見ていると、まるで私が魔性の女で、私の中に秘められた奇妙な力で彼の自我を奪ってしまうような錯覚に陥った。

 自分がとてつもなく気持ち悪い存在に思えたし、彼の人生を壊してしまったかもしれないという強い罪悪感に苛まれた。


 それらの黒い感情から逃げるように、私はだんだんと彼と距離を置くようになった。


「こんなに授業休んじゃって、どうしてくれるの? 親からはこれ以上学費出せないから絶対に留年するなって、通帳見せられて脅されているんだけど」


 離れたがる私の気を引くように、時々彼はそんなことを言った。家が嫌いなんだと言っていた時と同じ、悲壮感をはらんだ声色だった。

 同情すべき状況だと頭ではわかっていても、私の胸には、そもそもここまでやれなんて頼んでいないんだけどいう冷たい感情しか湧いてこなかった。


 全くもって残酷な話である。身を粉にして働いてくれた彼に感謝こそすれ、否定する資格などないはずなのに。

 しかし、どうしても気味が悪かった。


 早く彼から離れてしまいたい、そう思った。


 しかし私はその後も彼に頼みごとを続けた。

 サークルの活動維持と私の単位のためには彼の力が必要だったからだ。

 がむしゃらに学校生活を送るうちに暦は七月になっていた。今更頑張ったところで、もはや休んだ授業を取り戻せる状況ではない。

 ならばいっそこのまま彼の好意につけ込んで、全てを利用しようと思った。


 私の心はとっくに冷え切っていた。ならばこの氷のような冷たさに、身をゆだねてしまえばいい。


 大川君が頑張ってくれたお陰で、サークル活動は円滑に進んだ。

 何一つ穴はなかった。私も単位を一つも落とすことなく夏休みを迎えた。

 そんな頃になって、一時サークル活動から離れていた幹部クラスのメンバーが戻ってきた。もう大川君を使わなくてもサークル活動が回ると理解した私は、ブラック企業の社員を切り捨てるように、彼を振った。

 別れを告げながら、付き合ってすぐにペアで買ったストラップをガラケーから外して差し出すと、彼は反論一つせずにそれを私の手から取り上げた。


 こうして一人目である彼との関係は静かに終わった。

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