ミズナ

  4


 三ヶ月前。

 安泰に日々が流れ、二の腕を見せる季節になり、露出部分に日焼止めを塗る億劫さを覚え始める。体力も食欲も失われる暑さに耐え、素麺を胃に流しこむだけの簡単な食事――もとい作業中、ハジメは何ヶ月ぶりかに、あの行動を取った。

「そういやまた、車の事故が起きる」

「つ、次はなに?」

「俺の実家のお隣に住む、ハセさん知ってるよな? あそこの八十過ぎの婆さんが、シルバーマークをつけずに地獄へランナウエーするよ」

「じ、地獄? 人をくって意味?」

 ハジメは答えずに、わたしの目を見据えてきたかと思うと、

「もう未然に防ごうなんて思うな。ミズナが事故に巻きこまれるのは辛い」

 押し出してきた意見は愛だった。人の死に無頓着なハジメだったが、わたしだけは守ろうとしてくれる。わたしは他人を犠牲にして生かされているのだ。ではなぜ、わたしに話すのか? わざわざ、こちらの心を刺激してくる意味がサッパリ――

 やはりわたしは試されているのか? 口ではなにもするなと忠告するが、本当はハジメも人を救いたくてしょうがないのか?

「わかった」

 ハセの婆さんとはわたしも顔馴染である。

 きっと、親身になって話せば思いは伝わる。


 次の日。主に相手の言動のシミュレーションにふけった。

『こんにちは』『久しぶり』『今から車で買い物』

『運転やめておこうか』『わざわざ注意してくれてありがとう』

 などという、都合の良い展開だ。前回の反省も含め、恰好悪くても必死に思いを伝えるすべを思い描いた。

 その翌日。前回同様ネガティブな思考だった。どうせ救えないし、救う意味もないし、老い先の短い老婆なんて助けてどうする、と。ヒーローらしからぬ発想だ。

 予知当日。わたしはさあらぬ顔で、ハセの婆さんに接触した。これから死に向かってしまう高齢者は、ちょうど運転席のドアを開けるところだった。

「こんにちは、ハセさん。おでかけですか?」

「おや、ハジメくんの――ミズナちゃん。今から買い物に行こうと思ってね」

「買い物……ですか。く、車で?」

「そうさね、歩いてなんて行けないよ。足が悪いから」

 炎天の下、にこやかに世間話に乗ってくれるハセの婆さんは、余所行きの容姿だった。今なら止められると信じ、恐る恐る本題に移った。

「そうなんですか。でも、えーと……その、危なくないですか? いや、車って結構スピード出るから……」

「危ない? なんだ、私が歳だって言いたいのか! そんなヘマするわけないだろう! 毎日運転してるんだ、ほっといてくれ!」

「あっ、いや……」

 ところが、わたしの意見なんて、この世に生まれた瞬間から無情にも自然へ還ってしまった。ハセの婆さんは車のドアを強く閉めると、左右の確認をしないまま、ウインカーも上げず、颯爽と緊急出動していった。サイレンが鳴っていなくても、ほかの車が横に避けるレベルである。

 どうして他人は、他人に暴言を吐くのだろうか? わたしは嫌な汗を拭いながら帰宅し、シャワーを浴びてもなお、しばらくは呼吸以外なにもする気になれなかった。

 善意が報われなかった夜。ハセの婆さんが他人を轢き、被害者と同じく帰らぬ人になったと、ハジメの口から聞いた。


 死の悲しみなんて、すぐに記憶から消える。

 最初の一週間は様々な手続きで疲弊する。

 二週目にようやく悲しみ、三週目にじっくり休み、四週目で死を実感する。

 残りの期間は当然、いつもの惰性である。

 いつかわたしの両親が死んだ際にも、同じ感情を抱くのだ。ましてや顔見知り程度の事故死では、心は動かされない。では、なぜ助けようとしている? しょせん薄っぺらい感謝の言葉で良心を慰めたいだけだ。もうこんな無意味な振る舞いはやめるべきなのだ。誰も得をしなければ、損もしない。



  5


 二ヶ月前。

 自宅でくつろいでいると、ハジメが不思議な話をした。

「ミズナは未来を見たいと思うか?」

 と、蚊の鳴くような声で。

「どういうこと?」

 珍しくわたしの目を見据えてきたので、堪らずに聞き返した。

「いや、気になっただけさ」

「わたし未来なんて見たくない……。見る必要なんてない」

「今日もどっかで人は死ぬし、事故はそれ以上に起こる。それは『世の定め』であって、『個々の定め』ではない」

 予知能力者ならではの思考か。それでも、わたしには到底理解できなかった。

「定めなんて、自分の意志で切り開けば良いんじゃない?」

「それは意志の強い人間だけに許された呪文。一般人は意思を突き通せない。ダートを恐れた瞬間に平凡を選ぶ。そのくせ他人と同じことは嫌がる。ミズナはどうだ?」

「ひ、ひどい言い様……! わたしは、わたしの正しいと思ったことをやるよ!」

 強めの意志に対し、ハジメは「頑張れよ」と、励ましを添えてくれた。決して、嫌味には聞こえなかった。そうして沈黙が訪れた。

 いつものように読みかけの本に手を伸ばそうとしたハジメは、ぴたりと静止すると、わたしに向き直ってきて、「あっ、三日後に――」いつもの導入を見せた。

 わたしは思わず、『来た!』と心の中で叫んだ。十中八九、不幸を告げる声なのに、好機にでも巡り合った感覚があった。

 自ら、無意味な善意を振りかざすことに疑問を呈しているのに、ハジメが余計な未来をべらべらと始めると野心が燃え上がってしまう。

「中学の時、クラスメイトだったクニシタって女は覚えてる? あいつ、電車の事故で生死を彷徨さまようわ」

 ――だのに、その名を聞いた瞬間、野心はあっけなく鎮火した。

 そのクニシタという同級生は、わたしにとって思い出したくもない名前だった。

「あぁ……ミズナって、あいつに色々と嫌がらせされてたよな」

 なにが気に入らなかったのか、わたしはクニシタから目の敵にされていたのだ。

 物を隠されたり、嫌味を言われたり、手を上げられたり――要はイジメという名の暴行罪である。絶望的な日々を過ごしていたわたしの心の支えは、そのたびに庇ってくれたハジメの存在だった。それでもイジメはエスカレートするばかりだった。

 ある時。ハジメが激昂し、クニシタを蹴り飛ばしたことがあった。わずかに宙を舞った華奢な女体は、壁に背中を強打したあと、膝から崩れ落ちた。初め、クニシタはなにが起きたか理解できておらず、ほどなく状況を理解し、泣きじゃくっていた。

 その件以来、二度とわたしに手を出してくることはなくなった。


 そんな元クラスメイト、助ける価値なんてないのではないか? そもそも、命の価値とはなんだ? どうする――

「お前が正しさを追い求めるなら、あいつを救うのか?」

 嫌な選択を迫ってくるハジメは、本当に恋人なのかと疑いたくなるくらい、口元に歪んだ笑みを浮かべている。わたしは、彼の表情に葛藤を覚えた。

「それは……」

「これだけは言っておく。お前にとって助ける価値のない人間だ」

「価値って……勝手なこと言わないで! まだ、なにも……」

「浮世の人間には生きる権利がある。でも、今回は不慮の事故なんだ。それでも助けたほうが良いって言うのか? クニシタが死んで俺たちが困るのか?」

 わたしは、過去に因縁のあった人物を助けるほどお人よしではない。けれど一蹴してしまうのも、非人道的すぎないだろうか? どうすれば――

「……あ、そうだ! わたしバイトあるから助けられないよ? あーあ、残念」

 三日後は土曜日、店は書き入れ時で休めるわけがない! 朝から夕方までフルタイムで働き、社会貢献をするわたしには、残念ながら人を救っている時間がないのだ! 仕事のできるアルバイターとして欠勤できるわけがない!

 運命によって人が死んでも、誰も恨みはしない。

「賢明だ」

「ちがっ……! バイトがあるから……休めないでしょ!」

 今回は仕方がない。今回は仕方がないのだ。

 仕事は休めない。そう、仕事は休めないのだ。

 わたしが悪くないのは明瞭としているし、責められるいわれもないのだ。

「あー、しのびないなー」

 数日後、元クラスメイトの通夜が行われたらしい。結局、死んだようだ。

 人を救えなかったのに、わたしの心は痛くなかった。不思議である。



  6


 先月。

 安寧あんねいな時間が過ぎてゆき、高い空と、赤や黄の山並が融解する季節になった。

 なのに、わたしの心は安寧ではなかった。

 たくさんの命を失い、己の在り方を考えあぐねていたからだ。

 予知を聞かされた時、一日目に描いたのは『善意』という言葉を類語辞典で調べ、ていの良い別の言葉に言い換えた優しさ――独善だった。

 二日目に抱いていた気持ちが、この世の真意だった。運命とは、目隠しで歩かされる丸木橋の一種だったということだ。

 三日目には、破れかぶれで事に望み、なにも成果を残せなかった。

「……あのねハジメ、言いたいことがある」

 だからこそ伝えるべきだった。

 いつものダイニングテーブル、ハジメを視線で束縛した。奴は面食らったように目も口も、鼻の穴も大きく開け、こちらの言葉を待っている。

「もう【最悪の未来】は告げないで。変に背負いたくないよ……」

「背負う? 今まで俺が、ミズナに救えと命令していたと?」

 するとハジメは目を丸くした。温かい麦茶が入った湯呑をテーブルに置き、首を傾げ、訝しげな目を向けてくるばかりだ。心底、腑に落ちない様子だった。

「ハジメがわたしに告げる理由ってそういうことでしょ?」

「そんなこと一言も言ってない。早合点はやがてんだよ」

 私は、想像をを逸したハジメの返答に対し、目線を固定し、心身をフリーズさせてしまった。人を救うというのは、ハジメの意思ではなかったのか?

「わかった、正直に言うよ。俺は【最悪の未来】を言葉にすることによって、許されると思ってた。俺にはどうせ救えないから、口にして解決した気になってた。心に留めておくのが辛かったんだ」

「……なにそれ、勝手だよ! わたしの気持ちも知らないで!」

け口にしたのは悪かった。けどミズナの勘違いだろ? 忠告だってしたぞ」

「で、でも! 救いたいってのが人としての感情でしょ!」

「お前こそ独善的だな……。いやゴメン、水掛け論はやめよう」

「そうやって論議から逃げるんだから! わたしはちゃんと話し合いたいの!」

「そりゃ、俺も救いたいとは思うさ。けれど俺たちが関わっても未来は変わらないんだよ。だったらもう、答えは出てるだろう?」

 再三さいさん、ハジメが言っていたことだ。理解できるが、納得できない。

 それゆえ、返答を――おのが意見を恐れた。

「ミズナは救うって言葉を乱用しすぎなんだよ」

「ふん、救えない人に言われたくないから。ハイハイ、終わり」

 なにはともあれ、要件は伝えられた。これからはハジメの予知で一喜一憂しなくて済む。向こうもわたしの意見を受け入れ、そしてこちらも受け入れれば事は収まる。なにひとつ成果は残せていないが、わたしの役目が終わった気になった。

「……三日後、俺の母親の叔母さんの旦那さんのお父さんが肺ガンで死ぬ」

 だと言うのに、ハジメは信じられない仕打ちをしてきたのだ。わたしのことが、よほど嫌いとしか思えない。感じたことのない悲しみを抑圧したのは、溢れ出んばかりの怒号だった。

「言わないでって! そんな遠い親戚知らないし、病気じゃ救えないじゃない!」

 臨界点を突破した感情のまま、わたしはハジメの頭を引っ叩いた。意識的ではないが、自然と手を出し精一杯の抗議をしたつもりだった。

「痛っ! おい、手は出すなよ……クセになるぞ? それに今のは嘘だ。ミズナは俺の言うことならなんでも信じるのか?」

「……なにそれ? なにそれ!」

 この日を境に、わたしたちの関係にはヒビが入った。

 次第に喧嘩が増えてゆき、ヒートアップしたあとに手を出すのはわたしだった。そうするとハジメが折れて喧嘩が終わる。わたしが勝つのだ。勝って終わるのだ。

 が、喧嘩のあとは哀愁を覚え、別れの時が近づいていると感じる。ハジメが反省しないから、こういうことになる。一方が折れないから、わだかまりが残る。

 ハジメの身勝手な予知に、わたしは今まで苦しんでいたのだ。

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