ふたり
7
喧嘩以来、ハジメは【最悪の未来】を口にしなくなったが、わたしにはある不安が過るようになっていた。もしハジメが、わたしの事故を予知した場合、どういった行動を取るのか、である。
言わずもがな信じている。パラドックスを犯してでも、身を呈して守ってくれると。わたしをイジメていた女子に、蹴りをかましたくらいなのだから。
半月前。
関係の悪さを見かねて、ハジメが旅行に誘ってくれた。その殊勝な心意気に、わたしの心は躍っていた。仕事は四連休をもらい、おニューの服を買い、格安のダブルを予約し、電車のチケットを取り、旅行の一週間前からバッグに荷物を詰めた。
別に楽しみにしているわけではなくて、久々の休養だから気合いが入ってしまっただけだ。
「ハジメ。ごめんね、わたしがどうかしてた」
「謝るなんて珍しいな。更生した?」
減らず口はむかつくが、一時の感情でハジメと別れようと思った自分はどうかしていた。会話も徐々に増え、着実に旅立ちの日へと近づいていた。
「ふふっ、楽しみだね旅行」
旅行の三日前になった。
その日は、ハジメの好物の肉じゃがを作った。いつもなら、『いただきます』を唱えた瞬間から、ジャガイモと豚肉を頬張るハジメだが、今日はどこか深刻な表情をしていた。大方、わたしとの揉め事をまだ引きずっているのだ。なにせ、今まで喧嘩という喧嘩をしたことがなかった。なにか言い出したい顔つきが隠しきれていない。ハジメは嘘がつけないタイプなのだ。可愛い奴だ。
抑えている感情を、そっと引き出してあげるのも優しい恋人としての務めである。
「言いたいことあるなら言って? わたしハジメを受け入れるから」
「い、言えない……。言ったらミズナが怒るから」
「は? なにそれ、お願い言ってよ。言わないと怒るよ?」
ハジメの溜息が聞こえた。観念として、喉の上まで昇ってきているのだ。そうして渋々と要求に応えてくれたのだが、
「やっぱり……旅行には一緒に行けなそうだ」
あまりにも素っ頓狂な意思表示に、責めるモノを見失いそうになった。
「三日前にもなって、なにおかしなこと言ってんのかな?」
部屋に充満する夕飯の匂いと一緒に、思考も滞った。言葉に疑問を抱くよりも、つまらないギャグを否定することに必死だったのだ。
「頼む。今回ばかりは、俺の言うことを聞いてくれ……」
ところが、ハジメの眼力は変わらない。口元にシワができる気配もない。ドッキリ大成功のプレートが登場する空気でもない。
「本気なの? そんなにわたしのことが嫌いになっちゃった?」
「待った。あのな、理由があるんだって」
「ふふっ……うるさい! 聞かない!」
わたしの口を動かしたのは、何物にも代えがたい哀感だった。
わたしの全身を動かしたのは、不誠実に対する激情だった。
そうでなければ、両方の掌をテーブルに叩きつけ、不意に触れた茶碗が倒れ、ご飯が机上にこぼれてしまう現象なんて起こるはずがないのだ。
「嫌いなわけないだろ? 違うんだ、そうじゃなくて――」
「うるさいってばぁ! ダメだよ……意地でも旅行には連れてくから! どんな理由があろうと、予定を変更するなんて許さないから!」
日々を刻み続けるメトロノームを止められた! あすへ進むための足を奪われた!
どうしてハジメは、こんな子になってしまった? 残念で残念で仕方がない!
旅行は三日後だというのに、どうして! どうして――いや、三日後? そうか、そういうことか。
「いい加減にしろ! 話を最後まで聞けよ!」
ハジメの罵声が響いて確信した――わたしなのだと。旅行を中止にするほど錯乱しているハジメの様子を見れば明らかだ。未来なんて容易に想像できる。
「俺は中学の頃、人を助けようと躍起になった……けど、なにひとつ叶わなかった。だから俺は人を助けるのをやめた。でも今回は、絶対に救いたい命なんだ」
「つまり不幸が見えたんだね? それで旅行を中止にしようとしたんだね? ハジメはわたしを守ってくれようとしてるんだね? なーんだ、最初に言ってよ」
彼の優しさに心打たれ、わたしの両眼からはハッピーエンドの雫が溢れそうになった。これで、めでたしめでた――
「違う」
いや、くだらない悶着の終幕を望んでいたのはわたしだけだったようだ。
ハジメは低めの声で、またもや理解不能な否定を挟んできたのだ。
「見えたのは……俺の未来なんだよ」
「え? わたしを守るために、旅行を中止しようとしたんじゃないの?」
「どちらか一方でも怪我したら、その時点で旅行は中止になっちゃうだろ」
「なにそれ……わ、わたしを守ってくれたんじゃないの? そんな……自分勝手に旅行を中止しようとしたの? 絶対に救いたいって、自分のこと?」
わたしは愕然とした。ハジメの不幸こそ、わたしが阻止してあげるのに。わたしこそ、彼を救える人物なのに。ほかの誰も救えなくても、ハジメだけは――!
自然と語尾に力が入り、席を立つと、ハジメに飛びかかっていた。無防備を襲われたハジメは椅子から落ち、狐につままれたような顔つきで見つめてきた。
「や、やめろ……」
ハジメに馬乗りになり、彼の丘陵のような喉仏、丸太のような雁首を見定め、掌で愛撫したあと、ゆっくりと両手で鷲掴みにした。本能に赴くまま力が入り、体重が掛かってゆく。
次第にハジメは、ローストビーフさながらに、ほんのり顔を赤く染め始めた。興奮しているのだろうか? それにしては苦しそうな表情である。徐々に肉声が濁ってゆくハジメを見据えながら、人を救うはずの手に力を込め続け、
『死なないで!』
と懇願していた。
8
「え? ハジメ……」
ふとして、わたしは首を掴んでいた手を離した。
全身から力が抜けた瞬間、ハジメに突き飛ばされ、床を転がった。ほどなくハジメは、むせこみ、這いながら離れていった。
しばらく、ふたりで茫然としていた。そうして、ふたりで息を整え――先に口を開いたのは、うつむきながらあぐらをかいた彼だった。
「やっぱり、お前は……救えない」
「なにが……」
「今回、俺が見た【最悪の未来】は……旅行先でお前と喧嘩して、今みたいに首を絞められるビジョンだったんだよ。まさか、それが先に起きるなんて……俺はどの道、お前に殺される運命なのか……?」
わたしがハジメを殺すなんて、ありえない。とんだお笑い
「なんだ、もっと早く言ってくれれば良かったのに。今の聞いて安心したよ。事前にわかってれば、そんなことしないよ? じゃあ旅行は行こうね、ハハッ」
ハジメが優しく告げてきた真実で、わたしは許された気になった。日常への非常口を探すのに必死だった。わたしはイスに戻り、箸を右手に持ち直したが、乾ききった喉は白米さえ通りそうになかった。
「健忘症かよ。たった今、俺になにをした?」
膝をついたまま、ハジメが鋭い目を向けてくる。
「え、違う! 違うの! 今のは……ち、違うよ……」
今度は、ただ免罪するためだけに力を込めていた。が、次第に発声は小さくなっていた。殺そうとなんてしていなかったのだ。この思いをわかってほしくて――
「安心しろ。警察には通報しないし、お前の親族にだって言わない。だから最後に、俺のことを救ってくれないか?」
それはハジメの弱々しい要求だった。
彼のためになんでもしようと思った。愚行を償えるのなら、どこまでも汚れてみせる。わたしは社会人一年目のイエスマンのように、首を大きく何度も振っていた。
「俺は荷物をまとめ次第、この家を解約する。だから一切、引き留めないでくれ」
わたしは無言で次の言葉を待った。
「わかるだろ? 犯罪者予備軍とは同棲できないんだよ」
わたしは静かに目を瞑った。不安を覚えながら、彼の決断を待つために。
「互いが救われる唯一の方法は絶縁しかない。わかるな?」
これ以上の返答、また弁解もさせないほどの圧力があった。恋人を許し、恋人を救うための手段である。
あぁ、学生時代の思い出が、頭の片隅でドロドロに溶けてゆく。
9
浮世の音がなにも聞こえなくなって、幾日が経過した。
元恋人はホテルのキャンセル料を払い、電車のチケットを払い戻し、賃貸の解約手続きをしてくれた。離別を惜しむかと思ったが、後腐れがなさすぎて清々しかった。
他人が他人に関わった瞬間から、ほんの少し未来が変化してしまう。それでも、ひとつのカテゴライズとしての未来は、もう決まっているのかもしれない。
元恋人の配慮がなければ、わたしは豚箱にぶちこまれていた。最悪の未来を回避してくれた元恋人には、感謝の念しかない。
――人に救われて思い出したことがある。
わたしは純粋に、人を救いたかっただけなのだと。
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