第32話 最終決戦始まる

「監督」


 松下は、ベンチ前で練習を眺めている野川に声を掛けた。


 藤王を四番に起用した野川が考えを変えたのか確認したかったのだ。


 自分が「辞職願」を出した事で野川が元に戻ったのなら、辞める意味が有ると松下は思えた。野川が野川らしさを取り戻してくれるなら、松下は自分の首を喜んで差し出す覚悟があった。


「試合が終わったら、監督室に来てくれ」


 野川は振り向き、自分が呼ばれたのにも係わらず松下の言葉を聞かずにそう言った。


「はい」


 松下は野川の顔を見た途端、不思議とすっきりした気持ちになった。何の違和感も無い、昔から自分が尊敬し続けた野川がそこに居たのだ。


――これでもう思い残す事は無い。


 今日一日、松下は最後までしっかりと野川のサポートを勤めようと思った。 


「松下、今すぐみんなを集めてくれ、円陣を組むぞ」

「えっ?」


 松下は野川の意外な指示に驚いた。野川が選手を集めて話をするなんて初めての事だったからだ。


 現役時代からチームの王様ポジションに君臨してきた野川にとって、チームの団結は俺以外のその他がする事だった。事実、チームやファンは野川にチームプレイを求めなかったし、ここぞと言う時に結果を残してくれるだけで満足だった。


 その野川が選手を集めて話をすると言う。松下は不安を感じながらも、崇拝者として野川の演説を聞いてみたい衝動を抑えられなかった。


「分かりました」


 松下の呼び掛けで、選手とコーチ全員がベンチ前で野川を中心にして円陣を組んだ。みんな今日の試合の意味は十分に理解しており、表情が硬い。


「あー、お前らも知っての通り、今日の試合は優勝を決める一戦となった」


 誰一人として野川の言葉をいい加減に聞いている者はなく、円陣の中に緊張が張り詰めている。


「こんな試合は長いプロ野球の歴史でもほんの数試合あるだけだ。当然後々まで語り継がれる」


 野川は選手達の顔をぐるりと見回した。


「お前ら、歴史に名を残したいか?」


 野川の問い掛けに戸惑ってみんな返事が出来ない。


「返事はどうした! 歴史に名を残したいのか!」

「はい!」


 今度は全員が声をそろえて叫ぶ。


「いいぞ、なら話は簡単だ、勝てば良いだけだからな。善戦したとか、良くがんばっただとか、そんなもん屁にもならねえ。九回終わって相手より一点でも多くとって来い! それだけだ」


 野川はもう一度全員の顔を見回した。良い面構えだ、緊張が闘志に変わっている。


「いいか、最後にもう一度言う。俺達は優勝する! 歴史に名を残そうぜ!」

「おう!!」


 大声を上げると選手達は一回表の守備に向った。


――頼む、お前達の底力を見せてくれ。


 野川は守備に就く選手達に願った。


 一回表シャインズの攻撃。


 タイマーズの先発は林。本来先発ローテーションの二番手投手である林は、連勝中に冷遇されていた選手の一人である。


 明日のテレビの采配により、桂木が過剰に登板する反面、他の先発投手は登板回数が減り、登板のタイミングも不明で難しい調整を強いられていた。


 そんな中で回って来た世紀の一戦の先発起用。当然、己の存在感を示そうと期するところがあった。


 だが、そんな感情が力みになったのか、先頭打者をいきなりフォアボールで歩かせてしまう。


『先発の林の立ち上がりは、いきなり先頭打者を歩かせました』

『優勝決定戦の緊張感もあるのでしょうか。まだ微妙なコントロールが定まっていませんね』


 放送席の二人も不安そうに実況する。いや、放送席の二人だけではない。スタンドのタイマーズファンも同じ気持ちでグラウンドを見ていた。


 そんな雰囲気が連鎖反応をを起こすのか、二番打者をゴロで打ち取ったにも関わらず、ショートがダブルプレイを焦りファンブルしてしまう。ノーアウト一塁二塁とピンチが広がってしまった。


「監督、一呼吸入れに行きますか?」


 松下が今にもベンチを飛び出そうとしている。


「慌てるな、松下」


 野川もこのピンチの意味は分かっている。相手の先発がデビットな事を考えると、ここで入る一点が勝負を決めかねない。それは十分に承知の上だからこそ、野川は動かなかった。


 初回のこの場面でベンチが慌てて浮き足立つと、選手達に一点も相手に与えられない極限状態でのプレイを意識させてしまう。ここは選手を信じ、「一点二点はいつでも取り返せる」とベンチがどっしり構えている事が、その後の選手達の気持ちの余裕につながると野川は考えていた。

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