第27話 気付いた真希
カンと言う乾いた音がして、フラフラと弱い打球が上がる。
打球は低い軌道で前進守備のセンター、レフト、ショートの真ん中に飛んで行き、ポトリと芝生の上に落ちた。
スタートを切っていた三塁ランナーが生還し、タイマーズのサヨナラ勝利となった。
松下は、少しも驚いた様子の無い野川を見て激しい違和感を覚えた。
――これが……この野球が何十年も俺が憧れ続けてきた野川さんの野球なのか? この人は本当に野川さんなのか?
「ほら! ミラクル采配炸裂や! 明日の一面も決まりやな、行くぞ小野寺!」
記者達は岸部を含め、忙しく取材に出て行った。
真希は余りにもショックで立ち上がれず、一人、その場に座ったまま考えている。
――なぜこんな奇妙な采配になるのか? 明日のテレビはなぜ藤王さんを嫌うのか? 逆に桂木さんはなぜ過剰に使われるのか?
――藤王さんを上手く使えばもっと楽に勝てる試合も有った筈。桂木さんじゃなく他の投手でも継投や采配で勝てる試合もあった筈……。
真希はもう少しで何かに辿り着きそうで、考え続けた。
――……明日のテレビはなぜ二人を特別扱いしたのか?
――……明日のテレビがそうしたかったのか……。
「あっ!」
真希は思わず声を上げて立ち上がった。
――もしかして……いや、絶対にそうだ。
真希は気が付いた。明日のテレビの秘密に。
――伝えなきゃ。監督に伝えなきゃいけない。
真希は記者席を飛び出した。
野川は試合終了と同時にベンチを後にした。明日のテレビを使い出してからはずっとそうしている。
――俺は逃げているんだ。明日のテレビを使う罪悪感から逃げている。いろいろ詮索される事から逃げている。チームを壊している現実から逃げているんだ。
野川はネガティブな思考から逃れるように監督室へと急いだ。
――あと一試合、それで終わる。あと一試合だけだ……。藤王と桂木にはあと一試合だけ我慢させればいい……。
野川は誰に言うでもなく、心の中で言い訳めいた言葉を繰り返していた。
「監督!」
――またあの女記者か。どうする。無視して行くか。
野川が一瞬考えて立ち止まった瞬間、真希は野川の前に回り込んでいた。
「どうして藤王さんを信じてあげないんですか?」
「何を馬鹿な事を。俺は選手全員を信じている」
他の記者達は少し離れた位置で二人の様子を窺っていた。興奮した真希を引き離すべきか。ただ、野川も対応している。記者の習性なのか、この先何が起きるのかという興味が、記者達に手を出すのを躊躇わせていた。
「いえ、信じていません。信じていれば、藤王さんはもっと活躍出来るんです」
「何を言うか。勝つ為に仕方がない事だ。藤王を使うと勝てないから使わないんだ」
「違います。勝てないから藤王さんを使わないんじゃない、あなたが信用していないから使えないんです」
「なっ……」
――こいつは何が言いたいんだ。明日のテレビの事は知っていて、俺がなぜこんな采配をしているのか分かっている筈なのに。
「聞いてください。監督が信じれば、明日藤王さんは活躍してくれます!」
――俺が信じれば藤王が明日活躍するだと。どう言う意味なんだ。
「明日は監督が作っているんです! 藤王さんを使わないのも、桂木さんを使い過ぎるのも監督の意思なんです!」
「やめろ、小野寺!」
前と同じように、真希は岸部に野川から引き離された。周りの記者達は野川と真希のやり取りの意味が分からず、ざわついている。
「何なんだよ」
野川はそう吐き捨てて、また監督室に向かって歩き出した。
「すみません。少し興奮してしまって」
少し離れた所まで連れて行かれて、真希は岸部に謝った。
「すみませんで済むか! 取材拒否をしている監督に迷惑掛けやがって! お前は明日出てこなくていい。自宅で待機しとれ」
「えっ、でも明日の試合は……」
「当然やろ! 自業自得や!」
明日は歴史的な一戦になるというのに、真希は観戦を禁じられた。何とかしたい気持ちもあるが、自分がした事を考えると受け入れるしか無かった。
――監督には届いたのだろうか。最後の一試合だが、気が付いて欲しい。
せめて、野川にテレビの秘密が伝わるように、真希は願った。そうしてこそ、ペナルティを受けても報われると。
「どう言うつもりなんだ、あの女記者は……」
野川は監督室に入るなり、ドスンとソファに体を落として呟いた。
その時、コンコンとドアがノックされた。
「松下です」
「なんだ、入れよ」
松下が何の用だ、と思いつつ野川はそう返事をした。
「失礼します」
ドアを開けて入って来た松下の顔は強張り、緊張しているのが一目で分かる。
「松下……」
松下は驚いた表情を浮かべる野川の前に進み、手に持った封筒をテーブルの上に置いた。封筒には「辞職願」と書かれている。
「お前これは……」
「タイマーズに入団してから三十数年。私はあなたに憧れ、少しでもあなたの傍で野球をする事を生き甲斐に努力して来ました。でもこの二ヶ月あなたは変わりました。今の野球はあなたの野球では無い。全ての人々に愛された、野川徹司の野球では無いんです」
松下は泣いていた。
もう何日か前から用意していたのだろう、几帳面な松下らしくない封筒の皺が、野川にそう思わせた。
「ちょっと待て、松下」
「今期限りで退団させて頂きます」
松下は頭を深く下げると、野川の言葉を聞かずに後ろを向き監督室を出て行った。
「くそ、何だってんだよ」
野川は激しく動揺していた。
野川に取って松下は必要不可欠な存在だ。自分がここまで自由に動けるのも、松下あっての事と野川は十分に理解している。だからこそ、動揺しているのだ。
――あと一試合なのに、松下と言いあの女記者と言い……。
野川は動揺する気持ちの中でふと真希の言葉を思い出した。
――そう言えば、あの女記者は何を俺に伝えたかったのか。
――あの女記者が意味の分からない事を言っていたのは、明日のテレビの存在を公にしないように配慮していたからだろう。他に人がいなければ、もっとはっきりと言っていた筈。
――俺が藤王を信用していないだと。藤王の素質は素晴らしい。それは俺が一番良く知っている。その俺が信用していない訳が無い。藤王を使うと勝てないから、使いたくても使えないのだ。
野川は違和感を覚えた。
――……なぜ俺は藤王を使うと勝てないと思っているんだ? 明日のテレビがそう言ったのか?
――……いや、違う。テレビは明日起こる事を映しているだけだ。何の意思も持っていない。
野川の頭に真希が最後に言った言葉が蘇る。
「明日は監督が作っているんです……か……」
野川は、はっと気が付いた。
――まさか……。
――いやきっとそうだ。あの女記者はこれが言いたかったのか。
野川は急いで荷物をまとめて家へと急いだ。
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